第五十九話 保身を図る男はひと芝居打つこと
文字数 1,727文字
斎木の策とは、次のようなものだった。
源内が実質的に主宰した薬品会に、志乃を行かせる。志乃は杉田玄白を尊敬しているので、玄白と交わりのある源内の薬品会には、元々多大な興味を寄せていた。勧めれば、喜んで出かけるに違いない。その帰途、獣人に娘を襲わせ、御庭番にその現場を目撃させるのである。
八丁堀同心による市中見廻りの時と場所も詳細に調べ上げ、ちょうどその場に居合わせるようにした。
事は途中まで計画通りに運んだ。
あの若者さえ、現われなければ。
神崎将夜。
憎んでも、憎みきれない。
弥生が十八年前に生み落とした子。
当時、〈ばんぱいあ〉なる魔族の血を受け継ぐ子だという御庭番の報告を否定したのは、当の斎木だったのである。
将夜が生まれた時、実は幕命により、斎木がその身体を仔細に診察している。結果、尋常の人の子と変わりなしと判断したのだ。その後もずっと魔族の徴候は表れなかったので、自分の診断の正しさを確信していた。その確信に一種の誇らしさが混じっていたのは言うまでもない。
ところが……。
間もなく十八になろうとする将夜の身体に、突如変化が起こったのだ。
斎木は不味いことになったと思った。己の信用に関わる由々しき問題である。
弥生の子である点は伏せて志乃に調べさせたところ、〈ばんぱいあ〉と人の合いの子――
すなわち〈だんぴいる〉には、とんでもない力が秘められていることがわかった。
これは放っておけば、〈りゅかおおん〉にとって一大脅威となる。なんとかしなければとは思っていたが、まさか自分が打った芝居の舞台に飛び入りで登場し、狼憑きを一刀の下に斬り捨てようとは……。
斎木が真っ蒼になって震えあがったのは、言うまでもない。
事件のあった晩、朝を待たずに大目付から緊急の呼び出しを受けた。
下された命令は、神崎将夜が一体どれほどの力を有するかについて至急調べよということだったが、大目付の冷ややかな目付きは、斎木の十八年前の誤診を責めているように見えた。いや、今日まで積み上げてきた自分の仕事まで貶められた気がした。
しかも、幕府側だけではない。
定町廻りが現れれば、適当にあしらって退く手筈になっていた獣人が、予想外に殺さてしまったことで、〈りゅかおおん〉の瞋 りも買ってしまったのである。
まさか己の保身のために仕掛けた芝居が、己を絶体絶命の危機に陥れる結果になろうとは……。
あり得べからざる誤算。
(全てはあの神崎将夜めのせいだ……)
なんとか速やかに手を打たなければならない。
いっそ、あの〈だんぴいる〉に〈りゅかおおん〉を討たせてはどうか。地下牢の入り口が隠されている小屋で将夜に告げた言葉も、一時の昂 ぶりとは言え、あながち偽りではない。
そのために必要とあらば、志乃など喜んでくれてやる。
(だが、私は生き残る。魔族が共喰いをしようが、娘の血が吸い尽くされようが構わぬ。私だけは、私だけは……)
斎木は改めて決意を固めた。
己だけは何としても生き延びること。
月を仰ぎ、もう一度周囲を見回した。
梟の鳴き声は、未だ聴こえない。
音を立てぬように注意しながら、涸れ井戸の蓋を外す。
この底にいるのは、女王は女王でも、放逐された女王だ。
〈ばんぱいあ〉は弥生を孕ませた後、何故か忽然と姿を消したと言う。
その代わり、長崎から弥生の影の如く付き従ってきたのが、今地下牢にいるあの狼憑きなのだった。
狼憑きを手下として使っている事実を見ても、〈ばんぱいあ〉の魔力の強大さが推し量られる。
爾来――
〈ばんぱいあ〉の姿を見た者はない。
不死の身なので生きてはいるのだろうが、既にこの国にいない可能性が高いと男は見ていた。
だとすれば、今この国にいる最強の魔族は、〈りゅかおおん〉だということになる。
(そうだ、私は間違っていない。自分が仕えるべき主は、〈りゅかおおん〉の方だ)
王に見捨てられた女王は、ただの哀れな女に過ぎぬ。
今暫し、生き永らえさせてやる。慈悲だと思え。
携えてきた食料を取り出すと、縄に結び付けた。それを井戸の底に下ろす。
――と、その時。
「父上、何をなさっておいでなのですか」
凜とした志乃の声が響いた。
斎木は愕然として振り返った。
源内が実質的に主宰した薬品会に、志乃を行かせる。志乃は杉田玄白を尊敬しているので、玄白と交わりのある源内の薬品会には、元々多大な興味を寄せていた。勧めれば、喜んで出かけるに違いない。その帰途、獣人に娘を襲わせ、御庭番にその現場を目撃させるのである。
八丁堀同心による市中見廻りの時と場所も詳細に調べ上げ、ちょうどその場に居合わせるようにした。
事は途中まで計画通りに運んだ。
あの若者さえ、現われなければ。
神崎将夜。
憎んでも、憎みきれない。
弥生が十八年前に生み落とした子。
当時、〈ばんぱいあ〉なる魔族の血を受け継ぐ子だという御庭番の報告を否定したのは、当の斎木だったのである。
将夜が生まれた時、実は幕命により、斎木がその身体を仔細に診察している。結果、尋常の人の子と変わりなしと判断したのだ。その後もずっと魔族の徴候は表れなかったので、自分の診断の正しさを確信していた。その確信に一種の誇らしさが混じっていたのは言うまでもない。
ところが……。
間もなく十八になろうとする将夜の身体に、突如変化が起こったのだ。
斎木は不味いことになったと思った。己の信用に関わる由々しき問題である。
弥生の子である点は伏せて志乃に調べさせたところ、〈ばんぱいあ〉と人の合いの子――
すなわち〈だんぴいる〉には、とんでもない力が秘められていることがわかった。
これは放っておけば、〈りゅかおおん〉にとって一大脅威となる。なんとかしなければとは思っていたが、まさか自分が打った芝居の舞台に飛び入りで登場し、狼憑きを一刀の下に斬り捨てようとは……。
斎木が真っ蒼になって震えあがったのは、言うまでもない。
事件のあった晩、朝を待たずに大目付から緊急の呼び出しを受けた。
下された命令は、神崎将夜が一体どれほどの力を有するかについて至急調べよということだったが、大目付の冷ややかな目付きは、斎木の十八年前の誤診を責めているように見えた。いや、今日まで積み上げてきた自分の仕事まで貶められた気がした。
しかも、幕府側だけではない。
定町廻りが現れれば、適当にあしらって退く手筈になっていた獣人が、予想外に殺さてしまったことで、〈りゅかおおん〉の
まさか己の保身のために仕掛けた芝居が、己を絶体絶命の危機に陥れる結果になろうとは……。
あり得べからざる誤算。
(全てはあの神崎将夜めのせいだ……)
なんとか速やかに手を打たなければならない。
いっそ、あの〈だんぴいる〉に〈りゅかおおん〉を討たせてはどうか。地下牢の入り口が隠されている小屋で将夜に告げた言葉も、一時の
そのために必要とあらば、志乃など喜んでくれてやる。
(だが、私は生き残る。魔族が共喰いをしようが、娘の血が吸い尽くされようが構わぬ。私だけは、私だけは……)
斎木は改めて決意を固めた。
己だけは何としても生き延びること。
月を仰ぎ、もう一度周囲を見回した。
梟の鳴き声は、未だ聴こえない。
音を立てぬように注意しながら、涸れ井戸の蓋を外す。
この底にいるのは、女王は女王でも、放逐された女王だ。
〈ばんぱいあ〉は弥生を孕ませた後、何故か忽然と姿を消したと言う。
その代わり、長崎から弥生の影の如く付き従ってきたのが、今地下牢にいるあの狼憑きなのだった。
狼憑きを手下として使っている事実を見ても、〈ばんぱいあ〉の魔力の強大さが推し量られる。
爾来――
〈ばんぱいあ〉の姿を見た者はない。
不死の身なので生きてはいるのだろうが、既にこの国にいない可能性が高いと男は見ていた。
だとすれば、今この国にいる最強の魔族は、〈りゅかおおん〉だということになる。
(そうだ、私は間違っていない。自分が仕えるべき主は、〈りゅかおおん〉の方だ)
王に見捨てられた女王は、ただの哀れな女に過ぎぬ。
今暫し、生き永らえさせてやる。慈悲だと思え。
携えてきた食料を取り出すと、縄に結び付けた。それを井戸の底に下ろす。
――と、その時。
「父上、何をなさっておいでなのですか」
凜とした志乃の声が響いた。
斎木は愕然として振り返った。