第六十六話 神崎将夜暗殺指令のこと
文字数 909文字
将夜は長屋の部屋に戻っている。
丁寧に折り畳まれた袱紗が掌 の中にある。
異国の香水の匂いが、仄かに漂う。
今の将夜にとって、この匂いこそ母の記憶を呼び起こす縁 であった。
丁寧に、懐にしまった。
「母上、今暫くお待ち下さいませ。志乃殿には恩があります。このまま見捨てては、武士として――いや、男としての一分 が立ちませぬ。志乃殿を救い出した後、すぐに母上の元へ参ります」
将夜の顔に、泣いているとも微笑んでいるともつかぬ表情が浮かんでいる。母が今、手の届く処にいるかの如く語りかける。
「御案じ下さいますな。狼憑きが何人いようと、むざむざやられるものではありませぬ。母上は昔から御心配がすぎるのでございます。将夜は、もう年端のゆかぬ童ではございません。――たとえ……たとえ武運拙く斃れたとしても、鬼となって母上の元へ馳せ参じましょう程に、暫し……いま暫しお待ち下さりませ……」
深々と一礼すると、さっと片膝立ちになり、刀の下げ緒を解いて、一方の端を口に咥えた。手早く襷掛けする。
と――
「何者だ」
押し殺した、だが鋭い声を将夜は発した。
障子戸が、静かに引き開けられる。
「る、瑠璃……?」
土間に入ってきた若衆姿に、将夜は瞠目する。
○
「斎木が密かに源内と通じておると?」
「九分九厘間違いないかと――」
「ふむ。ある意味好都合だ。大目付も、斎木は役に立たぬと申されておった」
「始末致しますか」
「いや、我らの手を汚すまでもあるまい。町奉行所に任せておけばよい。理由など、どうとでもなる。それよりこちらは、源内の始末じゃ」
「はい」
「神崎の件は、如何 した?」
「申し訳ありませぬ。説得し切れませんでした」
「構わぬ。もはや待ってはおられぬ。我らだけで踏み込む。この件が片付いたら、次は神崎だ。やつも、消さねばならぬ」
「し、しかし……」
「今日は存分に働いてくれよ」
ぴしゃりと柘植は言った。
御庭番と言っても、柘植は身分的に歴とした侍なので実戦には参加しない。
能面の如く表情を消した柘植の顔は、既に相談の余地のないことを告げている。
桔梗は顔を伏せた。長い睫が微かな翳を宿す。
「心得ました」
搾り出すような声で、桔梗は言った。
丁寧に折り畳まれた袱紗が
異国の香水の匂いが、仄かに漂う。
今の将夜にとって、この匂いこそ母の記憶を呼び起こす
丁寧に、懐にしまった。
「母上、今暫くお待ち下さいませ。志乃殿には恩があります。このまま見捨てては、武士として――いや、男としての
将夜の顔に、泣いているとも微笑んでいるともつかぬ表情が浮かんでいる。母が今、手の届く処にいるかの如く語りかける。
「御案じ下さいますな。狼憑きが何人いようと、むざむざやられるものではありませぬ。母上は昔から御心配がすぎるのでございます。将夜は、もう年端のゆかぬ童ではございません。――たとえ……たとえ武運拙く斃れたとしても、鬼となって母上の元へ馳せ参じましょう程に、暫し……いま暫しお待ち下さりませ……」
深々と一礼すると、さっと片膝立ちになり、刀の下げ緒を解いて、一方の端を口に咥えた。手早く襷掛けする。
と――
「何者だ」
押し殺した、だが鋭い声を将夜は発した。
障子戸が、静かに引き開けられる。
「る、瑠璃……?」
土間に入ってきた若衆姿に、将夜は瞠目する。
○
「斎木が密かに源内と通じておると?」
「九分九厘間違いないかと――」
「ふむ。ある意味好都合だ。大目付も、斎木は役に立たぬと申されておった」
「始末致しますか」
「いや、我らの手を汚すまでもあるまい。町奉行所に任せておけばよい。理由など、どうとでもなる。それよりこちらは、源内の始末じゃ」
「はい」
「神崎の件は、
「申し訳ありませぬ。説得し切れませんでした」
「構わぬ。もはや待ってはおられぬ。我らだけで踏み込む。この件が片付いたら、次は神崎だ。やつも、消さねばならぬ」
「し、しかし……」
「今日は存分に働いてくれよ」
ぴしゃりと柘植は言った。
御庭番と言っても、柘植は身分的に歴とした侍なので実戦には参加しない。
能面の如く表情を消した柘植の顔は、既に相談の余地のないことを告げている。
桔梗は顔を伏せた。長い睫が微かな翳を宿す。
「心得ました」
搾り出すような声で、桔梗は言った。