第十二話 継母ときんきん声の兄のいる人生は幸福でないこと
文字数 2,720文字
将夜は、数馬と向かい合う形で座している。
他聞 を憚 る話のためか、障子を閉 て切ってあるのが将夜にはありがたかった。朝日が溢れる部屋で兄と差し向かいというのは、どう考えても望ましい状況ではない。
父・与一郎 亡き後、長兄の数馬が跡を継いで当主となり、自然父の部屋も主 が替わることとなったが、将夜は今でもこの部屋に入ると、父の端座した背中が彷彿 とする思いがする。
表祐筆 の御役目 に就いていた父はおよそ武張 ったところがなく、非番 の日も静かに部屋で書見 をしているような人だった。
父にとって、将夜の実の母がどのような存在であり、二人は一体どんな関係にあったのか。
単なる過 ちにすぎなかったのか。
それとも、何か深い事情があったのか。
結局何も告げぬまま、父は逝 ってしまった。
かつて父の部屋だった場所に今、異腹の兄がいて、上座 から将夜を射すくめるように睨んでいる。
「きさま、昨夜何をしておった!」
甲高 いきんきん声で、数馬はいきなり将夜を怒鳴りつけた。
生来 小柄で痩せた体躯の数馬は、威厳を出すつもりか、いつもはわざと声を低くして話す。ところが今朝はよほど取り乱しているのか、本来のきんきん声に戻ってしまっている。こんな場合であったが、将夜はなんとなく可笑しくなり、顔が笑わないよう無理に眉を顰 めた。
「今更下手な嘘など考えるな。儂 が何も知らないとでも思ったら大間違いだ。ともかく有体 に申せ!」
数馬は、将夜の表情の変化を違った方向に解釈したらしい。しかも、完全に尋問口調だ。
「知り合いと少々酒を――」
「部屋住みのくせに、酒を飲み歩くとは良い御身分だな」
忌々しげに数馬の顔が歪む。
「…………」
「きさまが薄汚い店で、町人に混じり安酒を飲んでいるのは前から存じておる。しかし、今問い質しているのはその儀にあらず。昨夜の帰途、何があった? 何をした?」
将夜は瞬時、答えを躊躇 った。数馬の「存じておる」という中身がわからない以上、余計なことを口走りたくなかった。
昨夜のうちに、将夜は例の小男の同心――南町奉行所の笹尾 新兵衛 と名乗った――と自身番へ行って、名札 を書いている。
武家が関わった事件は本来目付 の管轄であるが、今回は斬られた方が町人であり、また女の証言を裏づける必要もあることから、自身番 まで同道したのだった。
名札を見れば、将夜が何処に住 いする、どの家の子弟か知れる道理だが、ただ、自身番から早朝旗本屋敷に使いがくるなど、手続き上あり得ない。
小心者の数馬がわざわざ登城を取りやめ、血相変えて将夜を呼び寄せたからには、直属の上司である組頭 を通じて何らかの話があったと考えるのが自然であろう。
(しかし、昨日の今日だ。組頭に話がいくには、いくらなんでも早すぎる)
そこが解せない。
「だんまりを決め込むつもりか」
「いえ、決してそのような……。実は、路上にて娘があやしい男に襲われており、やむなく斬り申した」
「何故峰打 ちにしなかった?」
「男は明らかに乱心しており、尋常ならざる凶暴ぶりでした。峰打ちにする余裕はありませんでした」
「しかし、聞けば相手は素手の町人だったそうではないか」
「…………」
数馬の指摘に、将夜はぐっと詰まった。
〈斬り捨て御免〉と言っても、武士による町人や百姓に対する殺傷が無条件で認められていたわけではない。
武士は道徳的な修養を積んでおり、それ相応の理由がなければ刀を抜く筈がないという前提がある。その前提に立った上での〈斬り捨て御免〉なのであり、言い換えれば、一旦刀を抜いたが最後、武士はもはや言い逃れできぬ立場に追い込まれてしまう。特権というより、寧ろ社会規範的な意味合いが強いのだ。
「何ぞ申し開きがあるか」
「…………」
「黙っていてはわからぬ。それとも、申し開きすらできんのか」
将夜が答える前に、数馬はいきなり立ち上がると、部屋と廊下の境の襖に歩み寄って荒々しく開け放った。
そこには、ひさ江が両手を突き、つぶらな眸 に涙を光らせながら、数馬を見上げていた。
「大兄様。どうか、小兄様をお許し下さいませ。小兄様がみだりに人を殺 める筈がございませぬ」
「女子 が口を挟むことではない。下がれ」
「いいえ、下がりませぬ」
「な、なんだと?」
数馬は黄櫨 のように鰓 の張った口を、あんぐりと開けた。まさか妹が堂々と自分に口答えするなど夢にも思わず、一瞬虚をつかれたのである。
「小兄様は決して言い訳をなさらぬ方です。でも、刀をお抜きになるからには、きっとそれだけの理由があったに違いないのです。何故御自分の弟を信じてやろうとお思いになりませぬ」
凜とした口調で言われ、数馬がうっと呻く。その顔がみるみる朱に染まった。
――と、
「嫁入り前の娘が大きな声を出すなど、はしたない真似はお止しなさい」
冷たい声が響いた。
多貴である。敷居際に立ち止まり、跪いているひさ江をじろりと見下ろす。
「は、母上……」
「今は数馬がこの神崎家の当主。数馬の決めたことにはこの母とて逆らえませぬ。それを妹の身で口答えとは……」
「出すぎたこととは承知しております。ですが、ですが――」
「お前は部屋に戻っていなさい」
「母上。どうか……どうか、大兄様にお口添えを」
ひさ江が思わず多貴の裾に取り付こうとした時、ぱちん、と高い音がした。
「お控えなされ! これ以上の差し出口は母が許しませぬぞ」
多貴は、茫然としている久江をそのまま、部屋に入ってくるや後ろ手に襖をぴしゃりと閉ざしてしまった。
数馬の口元に耳を寄せ何事か囁くと、袱紗 に包まれた小さなものを差し出す。
頷きながら聞いていた数馬は、話が終わるや将夜の方へ向き直り、居丈高 に喚いた。
「町人とは言え、人ひとり殺 め、神崎の家名を汚した罪軽からず。よって今日を限りに義絶致す。二度と再び当家の敷居を跨ぐこと能 わずと心得よ」
放り出された袱紗包みが、将夜の前に落ちた。
将夜が、かっと目を見開く。
袱紗の、愛らしい蘇芳 色の柄に見覚えがあった。
「これは、きさまが当家に参った折携 えていたものじゃ。中身は五両ある。ここまで育ててやった恩からすれば返すべき謂 れはないが、たかが五両の金を着服したと逆恨みされるも業腹 じゃ。餞別 代わりにくれてやる故、せいぜい大事に持って行くがよいわ」
母の手――袱紗包みを自分に持たせた時の、あの白い手の温もりは、今猶 記憶の中 に鮮やかに刻されていた。
将夜は素早く袱紗を拾い上げると懐に入れた。母が晒し者にされているようで耐え難かったからである。それを金欲しさと解釈したらしく、数馬は蔑みの籠もった目で将夜を見下ろし、
「もはや何も申すことはない。即刻この家から出てゆけ」
唾でも吐くように言い捨てた。
父・
父にとって、将夜の実の母がどのような存在であり、二人は一体どんな関係にあったのか。
単なる
それとも、何か深い事情があったのか。
結局何も告げぬまま、父は
かつて父の部屋だった場所に今、異腹の兄がいて、
「きさま、昨夜何をしておった!」
「今更下手な嘘など考えるな。
数馬は、将夜の表情の変化を違った方向に解釈したらしい。しかも、完全に尋問口調だ。
「知り合いと少々酒を――」
「部屋住みのくせに、酒を飲み歩くとは良い御身分だな」
忌々しげに数馬の顔が歪む。
「…………」
「きさまが薄汚い店で、町人に混じり安酒を飲んでいるのは前から存じておる。しかし、今問い質しているのはその儀にあらず。昨夜の帰途、何があった? 何をした?」
将夜は瞬時、答えを
昨夜のうちに、将夜は例の小男の同心――南町奉行所の
武家が関わった事件は本来
名札を見れば、将夜が何処に
小心者の数馬がわざわざ登城を取りやめ、血相変えて将夜を呼び寄せたからには、直属の上司である
(しかし、昨日の今日だ。組頭に話がいくには、いくらなんでも早すぎる)
そこが解せない。
「だんまりを決め込むつもりか」
「いえ、決してそのような……。実は、路上にて娘があやしい男に襲われており、やむなく斬り申した」
「何故
「男は明らかに乱心しており、尋常ならざる凶暴ぶりでした。峰打ちにする余裕はありませんでした」
「しかし、聞けば相手は素手の町人だったそうではないか」
「…………」
数馬の指摘に、将夜はぐっと詰まった。
〈斬り捨て御免〉と言っても、武士による町人や百姓に対する殺傷が無条件で認められていたわけではない。
武士は道徳的な修養を積んでおり、それ相応の理由がなければ刀を抜く筈がないという前提がある。その前提に立った上での〈斬り捨て御免〉なのであり、言い換えれば、一旦刀を抜いたが最後、武士はもはや言い逃れできぬ立場に追い込まれてしまう。特権というより、寧ろ社会規範的な意味合いが強いのだ。
「何ぞ申し開きがあるか」
「…………」
「黙っていてはわからぬ。それとも、申し開きすらできんのか」
将夜が答える前に、数馬はいきなり立ち上がると、部屋と廊下の境の襖に歩み寄って荒々しく開け放った。
そこには、ひさ江が両手を突き、つぶらな
「大兄様。どうか、小兄様をお許し下さいませ。小兄様がみだりに人を
「
「いいえ、下がりませぬ」
「な、なんだと?」
数馬は
「小兄様は決して言い訳をなさらぬ方です。でも、刀をお抜きになるからには、きっとそれだけの理由があったに違いないのです。何故御自分の弟を信じてやろうとお思いになりませぬ」
凜とした口調で言われ、数馬がうっと呻く。その顔がみるみる朱に染まった。
――と、
「嫁入り前の娘が大きな声を出すなど、はしたない真似はお止しなさい」
冷たい声が響いた。
多貴である。敷居際に立ち止まり、跪いているひさ江をじろりと見下ろす。
「は、母上……」
「今は数馬がこの神崎家の当主。数馬の決めたことにはこの母とて逆らえませぬ。それを妹の身で口答えとは……」
「出すぎたこととは承知しております。ですが、ですが――」
「お前は部屋に戻っていなさい」
「母上。どうか……どうか、大兄様にお口添えを」
ひさ江が思わず多貴の裾に取り付こうとした時、ぱちん、と高い音がした。
「お控えなされ! これ以上の差し出口は母が許しませぬぞ」
多貴は、茫然としている久江をそのまま、部屋に入ってくるや後ろ手に襖をぴしゃりと閉ざしてしまった。
数馬の口元に耳を寄せ何事か囁くと、
頷きながら聞いていた数馬は、話が終わるや将夜の方へ向き直り、
「町人とは言え、人ひとり
放り出された袱紗包みが、将夜の前に落ちた。
将夜が、かっと目を見開く。
袱紗の、愛らしい
「これは、きさまが当家に参った折
母の手――袱紗包みを自分に持たせた時の、あの白い手の温もりは、今
将夜は素早く袱紗を拾い上げると懐に入れた。母が晒し者にされているようで耐え難かったからである。それを金欲しさと解釈したらしく、数馬は蔑みの籠もった目で将夜を見下ろし、
「もはや何も申すことはない。即刻この家から出てゆけ」
唾でも吐くように言い捨てた。