第三十八話 〈唐柿〉とは〇〇〇の古名のこと
文字数 1,905文字
「父を訪ねてこられた御武家様がいきなり昏倒 されたと聞き、慌てて行ってみますと神崎様で……。本当に驚きました」
将夜が養生所へ行った時のことを、志乃は言っている。
「あの折は世話をかけ申した」
将夜は軽く頭を下げる。
「いいえ、お世話などと――こちらこそ、父が大変御無礼なことを……頬のお怪我は?」
「そなたの手当てのおかげで、傷はもう塞がっておる。大事はござらぬ」
志乃は、神崎を銀の箸で試したのは、斎木だったと信じている。桔梗は養生所では単なる下働きの小女 ということになっており、真実の身分を知っているのは斎木一人なのだ。その点に関しては、志乃がいない処で斎木からも耳打ちされていたから、将夜もあえてその誤解を糾 そうとはしない。
斎木は以前から志乃に、自分が長崎で知り合った弥生の話をしていた。天才的な学問の才を有していたが、そのあまりの非凡さ故か南蛮魔族に魅入られることとなり、ついにその子を生み落とした女人 であると――。
普通の人間なら、荒唐無稽な夢物語だと一笑に付しただろう。しかし、現実に小石川養生所の地下には、満月の夜に獣人に変身する男が囚われているのだ。
志乃は斎木の話を聞くと直ちに、その類い稀な語学力と研究熱心さを以って、斎木が長崎の知人を介して密かに入手した英吉利の文献を調べ上げた。そして、弥生を孕ませたのが、南蛮魔族の貴族とも称される〈ばんぱいあ〉なる種族であるらしいこと、〈ばんぱいあ〉は日の光や銀製の物に弱いこと、時に人の女と交わり子を為 すことがあること、生まれた子は〈だんぴいる〉と言って、特種な能力を生まれながらに有していること……等を知るに至ったのである。
ただ、そうした知識が、結果として将夜を傷つけてしまったことに対して、申し訳ない気持ちで一杯なのだ。
罪悪感に耐えられず、改めて詫びに来たのだが、つい小さな嘘を吐 いてしまった。
養生所を訪ねてきた将夜を見て「本当に驚いた」というのは、正しくない。
父を若い武士が訪ねてきたと聞いた時、
(もしや神崎様ではあるまいか)
志乃は直感的にそう思った。何故かはわからない。
手当てのため、その人の身体に触れた時には、思わずどきりとしてしまった。医師が患者に対する態度として、あるまじきことである。
今日も、父に代わって詫びをするために来た筈なのに、志乃は今、自分の胸のあやしいざわめきに困惑している。
「ところで、今日は何か御用ですかな」
「そ、そのことでございます。実は……」
将夜のやや訝しげな顔に志乃は微かに頬を染め、努めて出しているような冷静な口調で言った。
「実はお試しいただきたいものがございまして、持参致しました。湯呑みをひとつ、お借りできましょうか」
「湯呑み? これでよろしいか」
わけがわからぬままに、とりあえず将夜は言われた通り、茶渋 の付いた湯呑みを志乃の前に置く。
「はい、よろしゅうございます」
志乃は風呂敷包みから竹筒を取り出すと、栓を抜き、中身を湯呑みの中にとくとくと注ぎ込んだ。
「そ、それは……?」
覗き込んだ将夜が思わず瞠目する。
「まだ
向かいに座っている志乃が、竹筒を振ってみせる。かなり太い竹筒で、まだ三分の二以上はゆうに残っているらしい音がする。
「いえ、そういうことではなく――」
問題は、湯呑みになみなみと注がれた液体の方だ。
「これは小石川薬園で栽培している唐柿 の汁でございます」
「唐柿?」
「唐土から長崎に入りました故、そういう名が付いておりますが、実は唐土が原産ではありません。英吉利語では〈とまと〉と申し、紅毛人の間ではありふれた食材の由です」
「ほう。紅毛人はこれを食すのでござるか」
将夜はいかにも感心したような声を出した。わざとらしいことは、自分でもわかっている。
「はい。ですが、我が国では殆ど食用に供されず、その実の鮮やかな朱色を眺めて楽しむ愛好の士が一部にあるだけです。よって広く知られているとは申せませんが、貝原 益軒 先生の『大和 本草 』にはちゃんと記載がございます」
「ほほう、さすがは貝原先生ですな」
貝原益軒先生に面識はないが、将夜はなんとなく己が貝原先生に追い詰められつつあるのを感じた。外堀は既に埋まっており、内堀も危うい。
「さあ、説明はこのくらいに致しましょう。どうぞお飲み下さいませ、神崎様」
「う、うむ。志乃殿がわざわざお持ち下さったもの。飲むに吝 かではないが……」
「一息に、ぐっと。絞りたてでございます」
黙って座っていれば控え目で内気な娘に見えるのだが、こういう時はなかなか押しが強い。
「いや、しかし……」
似ているのだ。色といい、匂いといい――
鮮血に。
将夜が養生所へ行った時のことを、志乃は言っている。
「あの折は世話をかけ申した」
将夜は軽く頭を下げる。
「いいえ、お世話などと――こちらこそ、父が大変御無礼なことを……頬のお怪我は?」
「そなたの手当てのおかげで、傷はもう塞がっておる。大事はござらぬ」
志乃は、神崎を銀の箸で試したのは、斎木だったと信じている。桔梗は養生所では単なる下働きの
斎木は以前から志乃に、自分が長崎で知り合った弥生の話をしていた。天才的な学問の才を有していたが、そのあまりの非凡さ故か南蛮魔族に魅入られることとなり、ついにその子を生み落とした
普通の人間なら、荒唐無稽な夢物語だと一笑に付しただろう。しかし、現実に小石川養生所の地下には、満月の夜に獣人に変身する男が囚われているのだ。
志乃は斎木の話を聞くと直ちに、その類い稀な語学力と研究熱心さを以って、斎木が長崎の知人を介して密かに入手した英吉利の文献を調べ上げた。そして、弥生を孕ませたのが、南蛮魔族の貴族とも称される〈ばんぱいあ〉なる種族であるらしいこと、〈ばんぱいあ〉は日の光や銀製の物に弱いこと、時に人の女と交わり子を
ただ、そうした知識が、結果として将夜を傷つけてしまったことに対して、申し訳ない気持ちで一杯なのだ。
罪悪感に耐えられず、改めて詫びに来たのだが、つい小さな嘘を
養生所を訪ねてきた将夜を見て「本当に驚いた」というのは、正しくない。
父を若い武士が訪ねてきたと聞いた時、
(もしや神崎様ではあるまいか)
志乃は直感的にそう思った。何故かはわからない。
手当てのため、その人の身体に触れた時には、思わずどきりとしてしまった。医師が患者に対する態度として、あるまじきことである。
今日も、父に代わって詫びをするために来た筈なのに、志乃は今、自分の胸のあやしいざわめきに困惑している。
「ところで、今日は何か御用ですかな」
「そ、そのことでございます。実は……」
将夜のやや訝しげな顔に志乃は微かに頬を染め、努めて出しているような冷静な口調で言った。
「実はお試しいただきたいものがございまして、持参致しました。湯呑みをひとつ、お借りできましょうか」
「湯呑み? これでよろしいか」
わけがわからぬままに、とりあえず将夜は言われた通り、
「はい、よろしゅうございます」
志乃は風呂敷包みから竹筒を取り出すと、栓を抜き、中身を湯呑みの中にとくとくと注ぎ込んだ。
「そ、それは……?」
覗き込んだ将夜が思わず瞠目する。
「まだ
たん
とございます」向かいに座っている志乃が、竹筒を振ってみせる。かなり太い竹筒で、まだ三分の二以上はゆうに残っているらしい音がする。
「いえ、そういうことではなく――」
問題は、湯呑みになみなみと注がれた液体の方だ。
「これは小石川薬園で栽培している
「唐柿?」
「唐土から長崎に入りました故、そういう名が付いておりますが、実は唐土が原産ではありません。英吉利語では〈とまと〉と申し、紅毛人の間ではありふれた食材の由です」
「ほう。紅毛人はこれを食すのでござるか」
将夜はいかにも感心したような声を出した。わざとらしいことは、自分でもわかっている。
「はい。ですが、我が国では殆ど食用に供されず、その実の鮮やかな朱色を眺めて楽しむ愛好の士が一部にあるだけです。よって広く知られているとは申せませんが、
「ほほう、さすがは貝原先生ですな」
貝原益軒先生に面識はないが、将夜はなんとなく己が貝原先生に追い詰められつつあるのを感じた。外堀は既に埋まっており、内堀も危うい。
「さあ、説明はこのくらいに致しましょう。どうぞお飲み下さいませ、神崎様」
「う、うむ。志乃殿がわざわざお持ち下さったもの。飲むに
「一息に、ぐっと。絞りたてでございます」
黙って座っていれば控え目で内気な娘に見えるのだが、こういう時はなかなか押しが強い。
「いや、しかし……」
似ているのだ。色といい、匂いといい――
鮮血に。