第二十六話 斃れる獣人は謎の言葉を叫ぶこと
文字数 2,052文字
能面のようだった将夜の表情が、僅かに動いた。
「御庭番 か……」
桜田の日比谷 御門外 に、大奥 女中 の療養所として建てられた御用屋敷がある。もっとも療養所というのは表の顔で、実は御庭番――つまり、将軍直属の密偵たちの拠点であることは謂わば公然の秘密であった。
御庭番が動くということは、幕府にとって看過できぬ事件であることを意味する。
しかも、自分にぴたりと貼り付いて動向を監視しているらしい。
「これは、確かにとんでもないな」
将夜が他人事のように呟く。
将軍のお膝元を、人と獣の合いの子のような化け物が跳梁 跋扈 するなど絶対にあってはならぬことだ。しかし、奉行所でも扱いかねたその化け物を一刀の下 に斬り殺した者もまた、要注意の札を貼られずには済まないのだろう。
古来、輝かしい戦功を立てた英雄がその優れた力量故に疎まれ、闇に葬られた例は枚挙に遑 がない。政 とは、かくも非情なものなのだ。案外、こちらこそ本当の化け物なのかもしれぬ。
――しかし、と将夜は首を傾 げる。
(果たして、それだけなのか)
この事件の裏には、まだ何か得体の知れぬ影のようなものが潜んでいる気がしてならない。
しかも、その影はどこかで自分の過去と繋がっている……。
「公方様のお膝元を脅 かすあやかしを退治してやったせいで、御庭番に目を付けられるとは、いい面の皮だな」
自嘲めいた口調だが、その白皙 の顔には抑えきれぬ昂奮とでも言うべき不敵な表情が浮かんでいる。
(夜のおれは、薪を背負って火の中に飛び込みたがるから困る)
五感が冴え返ると同時に、性格まで好戦的で、大胆なものに変わる。
ひりひりと皮膚が熱風に煽られる感覚がある。それは果たして惧 れなのか、はたまた快感なのか。
「いい面の皮だとお思いなら、少し行動を慎んでいただきたい。こうして夜な夜な出歩くのは感心しませんな。御自分で疑惑の種を撒いて回っているようなものだ」
「御忠告痛み入る。痛み入りついでに、笹尾さん、一つあんたに話してないことがあったのを思い出したよ」
「ほう。それは、是非お聞かせ願いたいもので」
「あいつを斬った時、妙な言葉を聞いた」
将夜の胡蝶斬りによって頚動脈を切断された獣人が、血塗れになって斃れる直前に一声叫んだ。
その言葉とは――
「りゅか、おおん?」
笹尾が頓狂 な声で復唱した。
「そう聞こえた。実際にはもっと長かったんだが、どうやら異国の言葉らしく、聞き取れたのはそこだけだった」
「異国の、言葉ですと……」
「もちろん意味はわからぬが、何かの名のような気がする。ただの勘だがね」
「名? つまり、獣人は一人じゃない。まだ仲間がいると――」
将夜は密かに舌を巻いた。この男、実に察しがいい。
「仲間の名を呼んだのならまだしもだが、あるいは別に、頭目のような存在がいるとしたら?」
「なんと!」
さすがの笹尾も絶句した。無理もない。あの獣人だけでも手に負えぬのに、その上に頭目的存在がいるとしたら――
そやつはいったい、どれほどの魔力の持ち主なのか。完全に想像の埒外 である。
しかし、杞憂 とは言い切れない。将夜の耳にしたのが本当に異国語の名だったとして、獣人が今わの際 にそれを叫んだ理由とは何か。
単に同類に助けを求めたと言うより、事切れる直前に頭目への永遠の忠誠を誓ったと考える方が、確かにしっくりくる。
「屍体はどう見てもこの国の者で、南蛮人などではなかった。その辺がどうにも解せぬが、とにかく、この一件はまだ終わっちゃいないとおれは見ている」
「夜ごと町を歩き回っていたのは、そのためと仰せられるか。獣人の仲間か、あるいは頭目とやらを探すために?」
将夜は答えない。ただ、静かに笹尾を見つめている。
「神崎殿」
再び口を開いた笹尾の声に、既に人を喰ったような響きはなかった。「繰り返しになりますが、今後くれぐれも単独では動かないでいただきたい。世には仕組みというものがござる。それをないがしろにし、ただ御自分の判断のみで動かれるは、僭越 ながら軽挙 妄動 と申さねばなりませぬ」
将夜が黙ったままなので、笹尾は構わず続けた。
「その類い稀な剣の腕をお貸し下さるのは願ってもなきことなれど、先ず御奉行 に話を通していただくのが筋というものでござる」
「申し訳ないが、おれは町方の助 っ人 になる気はないよ」
「そ、それなら何故、この件に深入りしようとなさる?」
「笑わないでくれよ、笹尾さん」
一旦言葉を区切って、将夜は初めて笹尾に笑顔を見せた。
「――母恋しってやつなのさ」
言い終わるや、既にくるりと身を翻して歩き出している。
ゆっくり歩を進めているようでありながら、その実、普通の者が走っても追いつけぬ迅さだ。
闇に消えてゆくその後ろ姿を、笹尾はあっけにとられた顔で見送った。
やがて思い直したように腰の十手を取り出すと、また首筋をぴしゃぴしゃやり出す。
「平次のやつめ、岡 っ引 きから足を洗っても、さすがに蝮 の鼻は鈍っちゃいねえようだな。神崎将夜か、なるほどおもしれえお人だね」
そして、にっと笑った。
「
桜田の
御庭番が動くということは、幕府にとって看過できぬ事件であることを意味する。
しかも、自分にぴたりと貼り付いて動向を監視しているらしい。
「これは、確かにとんでもないな」
将夜が他人事のように呟く。
将軍のお膝元を、人と獣の合いの子のような化け物が
古来、輝かしい戦功を立てた英雄がその優れた力量故に疎まれ、闇に葬られた例は枚挙に
――しかし、と将夜は首を
(果たして、それだけなのか)
この事件の裏には、まだ何か得体の知れぬ影のようなものが潜んでいる気がしてならない。
しかも、その影はどこかで自分の過去と繋がっている……。
「公方様のお膝元を
自嘲めいた口調だが、その
(夜のおれは、薪を背負って火の中に飛び込みたがるから困る)
五感が冴え返ると同時に、性格まで好戦的で、大胆なものに変わる。
ひりひりと皮膚が熱風に煽られる感覚がある。それは果たして
「いい面の皮だとお思いなら、少し行動を慎んでいただきたい。こうして夜な夜な出歩くのは感心しませんな。御自分で疑惑の種を撒いて回っているようなものだ」
「御忠告痛み入る。痛み入りついでに、笹尾さん、一つあんたに話してないことがあったのを思い出したよ」
「ほう。それは、是非お聞かせ願いたいもので」
「あいつを斬った時、妙な言葉を聞いた」
将夜の胡蝶斬りによって頚動脈を切断された獣人が、血塗れになって斃れる直前に一声叫んだ。
その言葉とは――
「りゅか、おおん?」
笹尾が
「そう聞こえた。実際にはもっと長かったんだが、どうやら異国の言葉らしく、聞き取れたのはそこだけだった」
「異国の、言葉ですと……」
「もちろん意味はわからぬが、何かの名のような気がする。ただの勘だがね」
「名? つまり、獣人は一人じゃない。まだ仲間がいると――」
将夜は密かに舌を巻いた。この男、実に察しがいい。
「仲間の名を呼んだのならまだしもだが、あるいは別に、頭目のような存在がいるとしたら?」
「なんと!」
さすがの笹尾も絶句した。無理もない。あの獣人だけでも手に負えぬのに、その上に頭目的存在がいるとしたら――
そやつはいったい、どれほどの魔力の持ち主なのか。完全に想像の
しかし、
単に同類に助けを求めたと言うより、事切れる直前に頭目への永遠の忠誠を誓ったと考える方が、確かにしっくりくる。
「屍体はどう見てもこの国の者で、南蛮人などではなかった。その辺がどうにも解せぬが、とにかく、この一件はまだ終わっちゃいないとおれは見ている」
「夜ごと町を歩き回っていたのは、そのためと仰せられるか。獣人の仲間か、あるいは頭目とやらを探すために?」
将夜は答えない。ただ、静かに笹尾を見つめている。
「神崎殿」
再び口を開いた笹尾の声に、既に人を喰ったような響きはなかった。「繰り返しになりますが、今後くれぐれも単独では動かないでいただきたい。世には仕組みというものがござる。それをないがしろにし、ただ御自分の判断のみで動かれるは、
将夜が黙ったままなので、笹尾は構わず続けた。
「その類い稀な剣の腕をお貸し下さるのは願ってもなきことなれど、先ず
「申し訳ないが、おれは町方の
「そ、それなら何故、この件に深入りしようとなさる?」
「笑わないでくれよ、笹尾さん」
一旦言葉を区切って、将夜は初めて笹尾に笑顔を見せた。
「――母恋しってやつなのさ」
言い終わるや、既にくるりと身を翻して歩き出している。
ゆっくり歩を進めているようでありながら、その実、普通の者が走っても追いつけぬ迅さだ。
闇に消えてゆくその後ろ姿を、笹尾はあっけにとられた顔で見送った。
やがて思い直したように腰の十手を取り出すと、また首筋をぴしゃぴしゃやり出す。
「平次のやつめ、
そして、にっと笑った。