第四十五話 老中は源内を見限り、源内は変化(へんげ)すること
文字数 1,616文字
源内は恐れ入るどころか、ふてぶてしいとも取れる態度で頭巾の男を見返しながら言った。
「これは幇間 代わりに召し連れましたる河原者 、名を菊也 と申します。役者としては大根でござるが、名前だけでなく、面差 しがどこか菊之丞 に似ております故贔屓 にしておる次第で……。御所望 とあらば舞のひとさしも舞わせましょう」
頭巾の男が離れに入った時、源内の傍らから飛びすさるように下座にさがり、平伏した者がいる。その姿勢のまま面を上げられないのは、相手が誰だかわかっているからであろう。
撫で肩で、見るからに骨が細い。男には違いないが、まるで女が男装したような印象を与える。源内は男色家として有名で、かつて最も贔屓にしたのが、女形として一世を風靡した二代目瀬川 菊之丞だった。
菊之丞が三十代前半で夭折したのは、六年前の安永 二年(一七七三)である。その後、源内が新しく見つけ出したのが、この菊也なのだろう。ただ、名は似ていても菊之丞のように役者として大向 こうの喝采を受けるような輝きはなく、芝居の合間に陰間 茶屋 にでも出ていそうな男だった。
「山の件は、どうなっておる?」
頭巾の男はいきなり用件に入った。菊也には一顧だに与えない。
「探しております。今暫くの御猶予を」
「その言葉、聞き飽きたわっ!」
頭巾越しであるにも関わらず、平伏している菊也が思わず畳に頭を擦りつけたほど、耳朶を刺す鋭い声だった。
しかし源内は、より一層顔を笑み崩すと、落ち着き払って言った。
「鉱物とは地の底にあるものにて、地上からは見えませぬ。見えぬものを見るためには地形及び地質を仔細に調べ上げるが肝要。土竜 の如くただ闇雲に掘っても宝に当たる確率は渺乎 にて――」
「その方の
ぴしゃりと遮られ、源内の顔が漸く引き締まった。笑いの皮が剥がれ落ちた後には、醜い隈のある凶悪な表情が浮かび上がった。
「内々に申し付けたる儀、もはや為すに及ばず」
ひとこと言い放つと、頭巾の男はさっと障子を開け、そのまま出て行ってしまった。
「…………!」
低い唸り声が、源内の口から発せられる。目が裂けるほど見開かれ、爛々と妖しい光を放ち出したのである。
その後ろで、ふうっと長い溜め息が洩れた。平伏していた男が顔を上げたのだ。
「あーあ、寿命が縮むかと思っちゃった」
横座りになって襟を寛 げると、手をひらひら振って風を入れる。仕草を見ていると、自堕落な女にしか見えない。
「さすが今や飛ぶ鳥を落とす勢いの田沼様だねぇ。御姿は小柄でも、迫力が違うわ。『連れがいるとは聞いておらんぞ』なんて凄まれた時にはお手打ちにでも遭うんじゃないかしらって、生きた心地もしなかったわよ」
含み笑いを洩らしつつ、源内の肩にしなだれかかる。
源内の右手がすっと伸びて菊也の襟首を掴むと、そのまま仰向けに押し倒すように、荒々しく己が膝の上に横たえた。
「きゃっ!」
菊也の派手な悲鳴を黙殺し、源内の手は寛げた男の胸をまさぐる。
「儂を切り捨てる気か。面白い、よい度胸だと褒めてやる。田沼意次!」
ゆっくりと源内の顔が変化していった。鼻が伸びて、顔全体が尖ってくると、その分目が切れ長になり、妖しい光を帯びる。口の端から覗いているのは紛れもなく、湾曲した鋭い牙であった。
菊也の声は既に悲鳴ではなく、濡れたようなあえぎに変わっている。
「きん、ぐ……りゅ、りゅか、おおん……」
呪文の如き言葉が、途切れ途切れに、涎の糸を引いて零れ落ちる。
天井裏の暗がりに潜んでいた忍び装束が、この時身を翻した。
たちまち屋根の上へ出ると、華奢な肢体を前傾させ、そのまま疾駆に移る。
偶然屋根に目を遣った常人がいたとしても、単に旋風が通りすぎたくらいにしか思えなかったに違いない。
屋根の高低など構わず目的地への最短距離を割り出し、その直線の上を飛ぶが如く走り抜けるのである。
目指すは桜田御用屋敷――
言うまでもなく、桔梗である。
「これは
頭巾の男が離れに入った時、源内の傍らから飛びすさるように下座にさがり、平伏した者がいる。その姿勢のまま面を上げられないのは、相手が誰だかわかっているからであろう。
撫で肩で、見るからに骨が細い。男には違いないが、まるで女が男装したような印象を与える。源内は男色家として有名で、かつて最も贔屓にしたのが、女形として一世を風靡した二代目
菊之丞が三十代前半で夭折したのは、六年前の
「山の件は、どうなっておる?」
頭巾の男はいきなり用件に入った。菊也には一顧だに与えない。
「探しております。今暫くの御猶予を」
「その言葉、聞き飽きたわっ!」
頭巾越しであるにも関わらず、平伏している菊也が思わず畳に頭を擦りつけたほど、耳朶を刺す鋭い声だった。
しかし源内は、より一層顔を笑み崩すと、落ち着き払って言った。
「鉱物とは地の底にあるものにて、地上からは見えませぬ。見えぬものを見るためには地形及び地質を仔細に調べ上げるが肝要。
「その方の
ごたく
に付き合っている暇はない」ぴしゃりと遮られ、源内の顔が漸く引き締まった。笑いの皮が剥がれ落ちた後には、醜い隈のある凶悪な表情が浮かび上がった。
「内々に申し付けたる儀、もはや為すに及ばず」
ひとこと言い放つと、頭巾の男はさっと障子を開け、そのまま出て行ってしまった。
「…………!」
低い唸り声が、源内の口から発せられる。目が裂けるほど見開かれ、爛々と妖しい光を放ち出したのである。
その後ろで、ふうっと長い溜め息が洩れた。平伏していた男が顔を上げたのだ。
「あーあ、寿命が縮むかと思っちゃった」
横座りになって襟を
「さすが今や飛ぶ鳥を落とす勢いの田沼様だねぇ。御姿は小柄でも、迫力が違うわ。『連れがいるとは聞いておらんぞ』なんて凄まれた時にはお手打ちにでも遭うんじゃないかしらって、生きた心地もしなかったわよ」
含み笑いを洩らしつつ、源内の肩にしなだれかかる。
源内の右手がすっと伸びて菊也の襟首を掴むと、そのまま仰向けに押し倒すように、荒々しく己が膝の上に横たえた。
「きゃっ!」
菊也の派手な悲鳴を黙殺し、源内の手は寛げた男の胸をまさぐる。
「儂を切り捨てる気か。面白い、よい度胸だと褒めてやる。田沼意次!」
ゆっくりと源内の顔が変化していった。鼻が伸びて、顔全体が尖ってくると、その分目が切れ長になり、妖しい光を帯びる。口の端から覗いているのは紛れもなく、湾曲した鋭い牙であった。
菊也の声は既に悲鳴ではなく、濡れたようなあえぎに変わっている。
「きん、ぐ……りゅ、りゅか、おおん……」
呪文の如き言葉が、途切れ途切れに、涎の糸を引いて零れ落ちる。
天井裏の暗がりに潜んでいた忍び装束が、この時身を翻した。
たちまち屋根の上へ出ると、華奢な肢体を前傾させ、そのまま疾駆に移る。
偶然屋根に目を遣った常人がいたとしても、単に旋風が通りすぎたくらいにしか思えなかったに違いない。
屋根の高低など構わず目的地への最短距離を割り出し、その直線の上を飛ぶが如く走り抜けるのである。
目指すは桜田御用屋敷――
言うまでもなく、桔梗である。