第二十五話 桜田御用屋敷と聞いてピンとくるのは通のこと
文字数 1,237文字
「私を狙ったのかと思って、ひやりとしましたよ」
口ではそう言いながら、笹尾はその実、さしてひやりとした様子もない。
「あの晩から、おれは何者かに見張られている。そちらさんの仲間かね」
「いや、とんもない。見張っている者がいたなど、今の今まで気づきませんでしたよ。迂闊 ながら、神崎殿の放った小柄 をあの者がかわした動きで、やっとそれと覚った次第で……。あの身のこなし、忍びでしょうな」
「――!」
将夜は軽く目を瞠った。この男、ちゃんと見えている。
「化け物だ、あやかしだと騒ぎ立てる瓦版を、お上 が何故取り締まらぬかおわかりですか。民草 というのは不思議なもので、お上が取り締まれば取り締まるほど、それを真 だと思い込んでしまう。逆に取り締まらないと、〈瓦版は話三分〉ってことになるんです。お上が何も言わないんだから、どうせ法螺 だろうってね。皮肉なもんですよ」
「つまり、取り締まらぬのは、逆にそれが真である故、と」
「左様でござる。我々町方は、とっくにあれが人外のものだとわかっております。実際、捕縛しようとした目明 しが二人もやられている。徹底的に口止めしているので、まだ外には洩れていない筈ですがね」
(なるほどな)
将夜は心の中で呟く。俗に火事と喧嘩は江戸の華 と言うが、江戸の人々がもう一つ好きなのが怪談だ。人魚が出たなどという、いかにも眉唾な話が瓦版に載ったこともある。嘘か真かという問題はとりあえず脇に置いて、そういう怪異を楽しむ下地 が人々の間にできているということだ。
だから、奉行所はあえて瓦版を取り締まらぬことによって、人々の目を怪談という〈虚〉の方へ誘導し、目明し殺しという、お上の権威を傷つけかねない〈実〉を隠蔽 しようとしているのだ。
「そんな秘密を、何故おれに教える?」
「あなた様が特別なお方だからですよ」
「特別?」
「我々だって別に手を拱いていたわけじゃない。ただ、あの獣人には正直、生半可 な方法では歯が立たなかった。御奉行からは手に余らば斬り捨て苦しからずというお達しが出ていたにも拘 らず……」
町奉行所は犯人逮捕が目的なので、先に鉤 の付いた縄を投げたり、梯子 で押さえ込んだりして犯人の身柄 確保を最優先とする。斬り捨て御免とは、よほどの非常事態扱いだと言わねばならない。
「そんな化け物を、いとも容易 く斬った。しかも、一刀の下にね」
「…………」
「神崎殿。あなたは一体、何者なのです?」
「八丁堀の旦那に買い被られるのが、これほど気味の悪いものとは知らなんだ。おれは旗本の家を追い出された、不肖 の次男坊に過ぎぬよ」
笹尾の顔から拭ったように笑みが消えた。
二人は無言で睨み合う。
やがて――
ふっと、笹尾が息を吐いた。
「わかりました。今日のところは、そういうことにしておきましょう。しかし、神崎殿、忘れないでいただきたい。御自分が、既に大きな事件の中に巻き込まれてしまっているということを。――それが証拠に、最前 松の枝陰 に潜んでいた忍び。あれはおそらく、桜田 御用屋敷 の者ですぞ」
口ではそう言いながら、笹尾はその実、さしてひやりとした様子もない。
「あの晩から、おれは何者かに見張られている。そちらさんの仲間かね」
「いや、とんもない。見張っている者がいたなど、今の今まで気づきませんでしたよ。
「――!」
将夜は軽く目を瞠った。この男、ちゃんと見えている。
「化け物だ、あやかしだと騒ぎ立てる瓦版を、お
「つまり、取り締まらぬのは、逆にそれが真である故、と」
「左様でござる。我々町方は、とっくにあれが人外のものだとわかっております。実際、捕縛しようとした
(なるほどな)
将夜は心の中で呟く。俗に火事と喧嘩は江戸の
だから、奉行所はあえて瓦版を取り締まらぬことによって、人々の目を怪談という〈虚〉の方へ誘導し、目明し殺しという、お上の権威を傷つけかねない〈実〉を
「そんな秘密を、何故おれに教える?」
「あなた様が特別なお方だからですよ」
「特別?」
「我々だって別に手を拱いていたわけじゃない。ただ、あの獣人には正直、
町奉行所は犯人逮捕が目的なので、先に
「そんな化け物を、いとも
「…………」
「神崎殿。あなたは一体、何者なのです?」
「八丁堀の旦那に買い被られるのが、これほど気味の悪いものとは知らなんだ。おれは旗本の家を追い出された、
笹尾の顔から拭ったように笑みが消えた。
二人は無言で睨み合う。
やがて――
ふっと、笹尾が息を吐いた。
「わかりました。今日のところは、そういうことにしておきましょう。しかし、神崎殿、忘れないでいただきたい。御自分が、既に大きな事件の中に巻き込まれてしまっているということを。――それが証拠に、