第三十五話 〈だんぴいる〉だと言われた気分は最悪なこと
文字数 1,699文字
将夜は薬膳所を出た。
この門を潜ってから、既に一刻(二時間)は過ぎている筈だ。
どこから出てきたか、少女がさりげない様子で現われ、黙って頭を下げる。
「見送りか。御丁寧なことだ」
将夜の顔に苦い笑いが滲む。
少女からは何の応 えもない。将夜は構わず続けた。
「これから跡を付けてくるつもりなら、あまり近づかないでくれぬか」
「…………」
「今日のおれは、人を斬ってしまいそうな気がするのだ」
脅しというには静かな、そして憂いに満ちた声音 だった。
少女は、さも意味がわからぬとでも言いたげに小首を傾げ、そんな将夜をじっと見つめた。
その様子は正に下働きの小女 以外の何者でもなく、最前銀の箸を武器に襲いかかってきたのは夢だったかと思う程、くノ一らしさは微塵も感じさせない。
(たいした役者ぶりだ)
将夜は密かに舌を巻いた。
くノ一は男の忍びより、敵の懐深く潜り込んでの諜報 活動に向いていると考えられていた。
女の方が敵の警戒が緩くなる故である。
下働きとして目的の家に入り込むこともあれば、然るべき家の養女になって輿入 れまですることもある。
無論、極めて危険な任務であることに変わりはない。もし間者 だと言うことがばれて捕らえられでもすれば、身の毛のよだつような拷問が待っていると覚悟しなければならぬ。
不思議なことに、忍びの世界では女の方が男より拷問にしぶといと言われていた。鍛え上げられた肉体を持つ男が大声で泣き出すような責 め問 いに、女の方がむしろ耐え得るのだそうだ。
男と女では、身体の仕組みが異なる。女の身体は男より痛みに対する忍耐度が高いものらしい。
それは痛覚が鈍いという意味ではない。激痛を感じていても、それに耐える力が男より強いのである。恐るべき拷問を受けながら決して口を割らず、隙を見て逃げ出せればよし、逃げられぬと見れば奥歯の中に隠してある毒を噛み砕いて自死する。
また、間者の身分が割れなければ安全だというわけでもない。周囲にあやしまれぬように、敵を作らぬように、潜入先ではひたすら従順に振る舞うため、時に理不尽な暴力に晒されることもある。下働きとして入った家の主人に手籠 めにされたり、輿入れした先の夫が歪んだ性癖の持主で、夜な夜な後ろ手に縛られて蝋を垂らされたり、弓の折れで打たれたりと、虐待の限りを尽くされたという報告もある。そのような目に遭っても、目的を達するまでくノ一はひたすら耐えるのだ。
今将夜の目の前にいる、一見あどけなさの残る少女は、実はそうした苛烈な世界に生きているのである。
将夜はそっと頬を撫でた。先ほど銀の箸が掠った傷は、志乃が手当てを施してくれていた。しかし、焼き鏝 を押し付けられた如き痛みはまだ消えていない。
(銀細工 ……母上の書付 は、この意味だったのだ)
箸が銀であるのを知って、とっさに膳を下げるよう言った。あれが将夜を試すために故意に行ったものであった点は斎木も潔く認めており、先程丁重に詫びを入れられている。
銀は毒に触れると変色する。故に唐土 の皇帝は必ず銀の箸を用いると言う。薬を扱う養生所に銀の箸が備えてあるのは、その意味で必ずしも不合理ではない。毒と薬は、決して正反対の物ではないのだ。匙 加減一つで、毒にも薬にもなるのである。
それにしても、母の書付がなければ、正直どうなっていたかわからない。
『〈だんぴいる〉とは、〈ばんぱいあ〉と人の間にできた子のことなのだそうだ。志乃が英吉利の書物で調べたところによると、魔族の中でも、〈ばんぱいあ〉というのは最も魔力に優れた種族で、尋常の人間が束になってかかっても、まるで歯が立たぬとか。――ただ、唯一銀製の武器のみが、〈ばんぱいあ〉を傷つけ得る霊力を有していると言う』
斎木の言葉が耳に蘇ってくる。掠っただけにしては強すぎる疼痛に、一瞬毒を疑ったのだが、その真の原因は他ならぬ己の体質にあったらしい。
(この痛みこそ、おれが〈だんぴいる〉である証 なのか……?)
徐 に編笠を被ると、将夜は歩き出した。一歩ごと地にめり込んでゆくように足が重い。
自分の背中に、一対の視線が固定されているのを、将夜は確かに感じた。
この門を潜ってから、既に一刻(二時間)は過ぎている筈だ。
どこから出てきたか、少女がさりげない様子で現われ、黙って頭を下げる。
「見送りか。御丁寧なことだ」
将夜の顔に苦い笑いが滲む。
少女からは何の
「これから跡を付けてくるつもりなら、あまり近づかないでくれぬか」
「…………」
「今日のおれは、人を斬ってしまいそうな気がするのだ」
脅しというには静かな、そして憂いに満ちた
少女は、さも意味がわからぬとでも言いたげに小首を傾げ、そんな将夜をじっと見つめた。
その様子は正に下働きの
(たいした役者ぶりだ)
将夜は密かに舌を巻いた。
くノ一は男の忍びより、敵の懐深く潜り込んでの
女の方が敵の警戒が緩くなる故である。
下働きとして目的の家に入り込むこともあれば、然るべき家の養女になって
無論、極めて危険な任務であることに変わりはない。もし
不思議なことに、忍びの世界では女の方が男より拷問にしぶといと言われていた。鍛え上げられた肉体を持つ男が大声で泣き出すような
男と女では、身体の仕組みが異なる。女の身体は男より痛みに対する忍耐度が高いものらしい。
それは痛覚が鈍いという意味ではない。激痛を感じていても、それに耐える力が男より強いのである。恐るべき拷問を受けながら決して口を割らず、隙を見て逃げ出せればよし、逃げられぬと見れば奥歯の中に隠してある毒を噛み砕いて自死する。
また、間者の身分が割れなければ安全だというわけでもない。周囲にあやしまれぬように、敵を作らぬように、潜入先ではひたすら従順に振る舞うため、時に理不尽な暴力に晒されることもある。下働きとして入った家の主人に
今将夜の目の前にいる、一見あどけなさの残る少女は、実はそうした苛烈な世界に生きているのである。
将夜はそっと頬を撫でた。先ほど銀の箸が掠った傷は、志乃が手当てを施してくれていた。しかし、焼き
(
箸が銀であるのを知って、とっさに膳を下げるよう言った。あれが将夜を試すために故意に行ったものであった点は斎木も潔く認めており、先程丁重に詫びを入れられている。
銀は毒に触れると変色する。故に
それにしても、母の書付がなければ、正直どうなっていたかわからない。
『〈だんぴいる〉とは、〈ばんぱいあ〉と人の間にできた子のことなのだそうだ。志乃が英吉利の書物で調べたところによると、魔族の中でも、〈ばんぱいあ〉というのは最も魔力に優れた種族で、尋常の人間が束になってかかっても、まるで歯が立たぬとか。――ただ、唯一銀製の武器のみが、〈ばんぱいあ〉を傷つけ得る霊力を有していると言う』
斎木の言葉が耳に蘇ってくる。掠っただけにしては強すぎる疼痛に、一瞬毒を疑ったのだが、その真の原因は他ならぬ己の体質にあったらしい。
(この痛みこそ、おれが〈だんぴいる〉である
自分の背中に、一対の視線が固定されているのを、将夜は確かに感じた。