第三十四話 女医者について将夜は語り、斎木を驚かすこと

文字数 2,636文字

「御老中は非常に英明なお方だ。これからの世に蘭学が極めて重要なものとなることを、幕閣の中で最もよく理解しておられる」
 最前の薬膳所内の小部屋に戻っている。志乃は席を外しており、将夜は差し向かいで斎木の話を聞いている。
 田沼意次の父・意行(もとゆき)は、元々紀州藩の足軽にすぎなかった。そんな家に生まれた意次が、今や相良(さがら)五万七千石の大名である。身分がほとんど固定されていた時代において、このような出世は異例中の異例に属する。才だとか運だとか、曖昧な言葉で語ることはできない。
 何故田沼意次でなければならなかったのか。意次を重用したのは先ず九代将軍家重(いえしげ)であるが、十代将軍家治(いえはる)の治世において更に大きく出世した。単なる寵臣でないのはこの一事からもわかる。
 実のところ、理由は単純にして明快である。当時の幕府にとって最大の課題は悪化の一途を辿る財政赤字をどう解決するかにあり、その任に当たることのできる人物が、意次以外にいなかったことに尽きるのである。
 意次が推し進めた赤字経済の立て直しと、蘭学の保護の間には密接な関係がある。国を富ませるために最も重要なのは、人材の育成である。西洋の進んだ知識を吸収し、更にそれを応用してその国に合った改革を行っていく。そのための人材を育ててゆくことが、迂遠(うえん)のようでいてその実、一番確実な方法なのである。田沼が蘭学を保護すると同時に、積極且つ大胆な人材登用や抜擢を行ったのも、全ては〈幕府経済の立て直し〉という一つの大きな流れに収斂されてゆくものであった。
 杉田(すぎた)玄白(げんぱく)らが阿蘭陀の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、安永三年(一七七四)に『解体新書』出版した。当時の医学界に衝撃を与えたこの快挙も、田沼時代の空気というものを抜きに考えることはできないのだ。
「おかげで随分学問がやり易くなった」
「蘭学が、ということですか」
阿蘭陀(オランダ)だけではない。実は今、世界の強国の座にあるのは阿蘭陀ではなく、英吉利(イギリス)という国なのだ。同じ欧羅巴(ヨーロッパ)と言っても、阿蘭陀と英吉利では言葉が異なる。これからは阿蘭陀語だけでなく、英吉利語が話せる人材が必要になるだろう」
 ここまで聞いて、将夜は思わず苦笑する。
「それがし、剣に多少の心得があるばかり。他は何も知らぬ粗忽者(そこつもの)でござれば、そのような難しいお話は馬の耳に念仏……」
 斎木は笑って、
「いや、偉そうなことを申したがの、私も阿蘭陀語こそ(いささ)か解するものの、英吉利語はさっぱりわからぬ。異国の言葉を学ぶには年齢と才の両方が必要だ。努力さえすれば、誰にでも出来るというものではない。娘の志乃には優れた語学の才があり、手先も男よりずっと器用だ。この国の医術を変える医者となり得る素質も、熱意も十分に持ち合わせておるのだが……。女の身で医者たらんとするは、決して容易(たやす)いことではござらぬ。このようなこと、神崎殿に申し上げてもおわかりいただけまいが、目に見えぬ様々な壁がござっての」
 当時、女の医者は殆ど皆無と言っていい。
「それは奇態な話でござる」
「奇態、とは?」
「それがしはかねがね女医者の世におらぬをこそ、訝しく思っておりました」
「ほう、何故そのように思われる?」
「女は確かに男より力は弱いでしょうが、今斎木殿も申された通り、手先の器用さは男を遙かに凌ぎます。しかも、女というのは男よりずっと忍耐強いものです」
「ふむ……」
「また、患者は男もおれば、女もおる。いくら診療のためとは申せ、病によっては男の医者に診せるのを(はばか)る女の患者もおりましょう。そういう時、もし医者も女であれば、ずっと診療が受け易くなるのではありますまいか」
「なんと……神崎殿、あなたという御仁(ごじん)は!」
「いやこれは、門外漢が出すぎたことを申しましたな」
「出すぎたなどと、とんでもない。そのようなお考えを、あなたは一体何処で身に付けられたのか」
 将夜はいかにも不思議ように首を捻る。
「何処でと申されましても……。それほど変わったことを申したつもりはないのですが」
 横鬢を掻く将夜を、斎木は感嘆の面持ちで見守りつつ、
「聞くところによると、欧羅巴では女医者は珍しくないそうだ。私が長崎に遊学していた時、ある阿蘭陀人に、今のあなたと同じことを言われ、頭を打たれた如き衝撃を覚え申した。恥ずかしながら、その時まで私は無意識に、女を男より劣ったものと考えていたのだ。
 いや、私だけではない。同じ蘭学の徒として阿蘭陀の優れた学問や技術に触れながら、それらを生み出す基盤が、男女の区別や家柄の違いに拠らず、才能と実力によって己の(のぞ)む職を得られるという、()の国の制度そのものにあることに気づかぬ者が殆どだった。ところが、あなたはごく自然にそのような考え方を身に付けておられる――」
 斎木は、はたと膝を打ち、深い溜め息を洩らした。
(まこと)に血は争えぬもの。さすがは弥生殿の……」
 将夜の眸が一瞬、光を帯びた。
「斎木殿」
 と片膝寄せて、低い声を出した。
「先程の答えをお聞かせ願いたい。あなたは、母を御存知なのですか」
 斎木の目が、ふと遠くを見るような色を湛えた。
「弥生殿――つまり、あなたの母上とは長崎で知り合った。あれほど聡明な女性を、私は後にも先にも見たことがない。天才とは、あのような方を指して言うのだろう」
「は、母は……」
 将夜の口が乾き、舌が(もつ)れた。「今、何処にいるのです?」
「申し訳ないが、お答えすることはできぬ。私が知っているのは、弥生どのが長崎であなたを身籠(みごも)られたこと、江戸に戻るやいなや御自邸に幽閉(ゆうへい)されたこと、やがてあなたが生まれ、数年の後、神崎の家に引き取られたこと――それだけなのだ。その後の消息については、何も……」
「そう、ですか」
 真っ暗な穴に落ち込んでゆく気分に耐えながら、将夜は斎木の言葉を反芻する。
 母が長崎にいる時に自分を身籠ったとは、初耳であった。それならば、(おの)が父は神崎与一郎ではないことになる。与一郎が父でないとしたら、五つの年に神崎の家に引き取られたのはいかなる理由に拠るのか……。
 いくつもの疑問が同時に湧き上がる頭の中に、その時、奇妙な言葉が響いた。

「――だんぴいる」

 将夜の心ノ臓が、どくっと跳ねた。初めて聞いた筈なのに、何故かよく知っている言葉のような気がしたのである。
「い、今、何と申された?」
「弥生殿が幽閉されたのは、元はと言えば神崎殿、そなたを身籠ったが故。そなたは尋常の人に非ず。人と魔族の間に生まれた子――英吉利語でこれを〈だんぴいる〉と呼ぶそうだ」
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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