第三十七話 全ての布石を打った人のこと
文字数 1,551文字
闇の中で見開かれた将夜の目は、首を微動だにさせることなく周囲の気配を伺う。
長屋の、擦り切れた畳の上である。
周囲には水底のような薄闇が漂っている。
黄昏 時 。
あるいは、逢魔 が時 とも呼ばれる時刻――。
すっと上体を起こした。
身体の隅々にまで力が満ちている。
(病ではなかった……)
人と〈ばんぱいあ〉なる異国の魔物との間にできた子。
それが、どうやら己の正体らしい。
先程まで見ていた夢の残滓 が、頭にこびりついている。
これまでは師に道場を継ぐ資格なしと判断されたものとばかり思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、安全な竹刀を捨てて修羅 の道を歩まねばならぬ宿命を暗に示されていたようでもある。
確かにあの日、将夜は初めて竹刀剣術と真剣勝負の違いを知った。
己が唐竹割りにされ、ぱっくり開いた傷から血が噴き出す感覚まで味わった。
錯覚というには、あまりに生々しすぎる。
あの透明な血溜まりの中で、
将夜の身体に変化が起きたのは、それからである。
当初は、寸止めとは言え重蔵のすさまじい一撃から放たれた剣気 にあてられたせいかと思っていた。しかし、日を経ても一向に恢復しないどころか悪化の一途を辿り、ついには白昼外を出歩けぬまでになった。
将夜だけではない。
重蔵も、その日以来、床に伏せる身となってしまったのだ。
師の病がいよいよ篤 くなった時、その頃もう道場へ通わなくなっていた将夜は、ある夕いきなり呼び出され、無理を押して師の枕頭 に侍 った。
掻き消える直前の灯心が束の間明るく燃え上がるように、重蔵は秘剣胡蝶斬りを将夜に伝え、そのまま還 らぬ人となった。――このことは、既に述べた通りである。
もしかすると、重蔵は己の命と引き替えに、将夜のうちに潜んでいた〈ある封印〉を破ったのかもしれぬ。
そもそも、将夜を重蔵に弟子入りさせたのは与一郎である。
〈だんぴいる〉だと告げられた後も、将夜にとって己の父は与一郎以外にない。
ただ、以前とは与一郎に対する見方が変わったのは事実だ。
与一郎はおそらく、将夜の中の封印を解くために重蔵に弟子入りさせたのだ。重蔵もそれを承知していたのだとしか考えられない。
それにしても、小手先だけの竹刀剣術が流行る江戸で、重蔵の如き古武士の風格を持つ剣客を探し出すのは砂浜から一枚の貝殻を拾うよりも難いに違いない。武士のたしなみとしてしか剣を学んだことのない与一郎の能 くなし得 るところではないのである。
重蔵でなければならなかった理由は、もう一つある。
胡蝶斬り。重蔵が独自に編み出した秘剣。
今江戸の町の安寧を脅かしている獣人事件。それをとうの昔に予想し、一つひとつ布石を打ちながら、魔族に抗し得る唯一の剣士として、将夜を育てあげた人がいる。
当たりはとっくについている。余人の筈がない。
かつて天才と呼ばれ、異国人までが称賛を惜しまなかったという一人の女性 。
弥生――つまり、将夜の生母その人である。
「……?」
深い物思いに耽っていた将夜は、微かな足音を聞いて我に返った。
常人には聞こえまいが、五感の冴えた将夜は、近づいてくる足音を手に取るように知覚している。それは長屋の将夜の部屋の前で、ひたと止まった。
「神崎様、おられましょうか」
控え目な女の声が訪 いを告げる。
「しんばり棒はかかっておらぬ。御自由に入られよ」
躊躇 うような間を置いた後、戸が静かに三分の一ほど開く。
将夜は思わず、あっと声を上げそうになった。
(は、母上――)
一瞬、記憶の中の朧な俤 が、現実の姿となって立ち現れたかと見えた。
いや、違う。
将夜の理性が、幻覚の霧を払う。
「そ、そなたは小石川養生所の……」
むさくるしい土間に楚々として立ったのは、風呂敷包みを胸に抱えた志乃である。
長屋の、擦り切れた畳の上である。
周囲には水底のような薄闇が漂っている。
あるいは、
すっと上体を起こした。
身体の隅々にまで力が満ちている。
(病ではなかった……)
人と〈ばんぱいあ〉なる異国の魔物との間にできた子。
それが、どうやら己の正体らしい。
先程まで見ていた夢の
これまでは師に道場を継ぐ資格なしと判断されたものとばかり思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、安全な竹刀を捨てて
確かにあの日、将夜は初めて竹刀剣術と真剣勝負の違いを知った。
己が唐竹割りにされ、ぱっくり開いた傷から血が噴き出す感覚まで味わった。
錯覚というには、あまりに生々しすぎる。
あの透明な血溜まりの中で、
何か
が目覚めた。将夜の身体に変化が起きたのは、それからである。
当初は、寸止めとは言え重蔵のすさまじい一撃から放たれた
将夜だけではない。
重蔵も、その日以来、床に伏せる身となってしまったのだ。
師の病がいよいよ
掻き消える直前の灯心が束の間明るく燃え上がるように、重蔵は秘剣胡蝶斬りを将夜に伝え、そのまま
もしかすると、重蔵は己の命と引き替えに、将夜のうちに潜んでいた〈ある封印〉を破ったのかもしれぬ。
そもそも、将夜を重蔵に弟子入りさせたのは与一郎である。
〈だんぴいる〉だと告げられた後も、将夜にとって己の父は与一郎以外にない。
ただ、以前とは与一郎に対する見方が変わったのは事実だ。
与一郎はおそらく、将夜の中の封印を解くために重蔵に弟子入りさせたのだ。重蔵もそれを承知していたのだとしか考えられない。
それにしても、小手先だけの竹刀剣術が流行る江戸で、重蔵の如き古武士の風格を持つ剣客を探し出すのは砂浜から一枚の貝殻を拾うよりも難いに違いない。武士のたしなみとしてしか剣を学んだことのない与一郎の
重蔵でなければならなかった理由は、もう一つある。
胡蝶斬り。重蔵が独自に編み出した秘剣。
今江戸の町の安寧を脅かしている獣人事件。それをとうの昔に予想し、一つひとつ布石を打ちながら、魔族に抗し得る唯一の剣士として、将夜を育てあげた人がいる。
当たりはとっくについている。余人の筈がない。
かつて天才と呼ばれ、異国人までが称賛を惜しまなかったという一人の
弥生――つまり、将夜の生母その人である。
「……?」
深い物思いに耽っていた将夜は、微かな足音を聞いて我に返った。
常人には聞こえまいが、五感の冴えた将夜は、近づいてくる足音を手に取るように知覚している。それは長屋の将夜の部屋の前で、ひたと止まった。
「神崎様、おられましょうか」
控え目な女の声が
「しんばり棒はかかっておらぬ。御自由に入られよ」
将夜は思わず、あっと声を上げそうになった。
(は、母上――)
一瞬、記憶の中の朧な
いや、違う。
将夜の理性が、幻覚の霧を払う。
「そ、そなたは小石川養生所の……」
むさくるしい土間に楚々として立ったのは、風呂敷包みを胸に抱えた志乃である。