第七十三話 将夜と源内の最後の血戦のこと

文字数 3,092文字

 将夜は屋根瓦の上に立って、源内と対峙した。
 いや、これをもう源内と呼ぶことはできまい。
 顔は長く伸びて鼻先が尖り、口は耳の辺りまで裂けている。
 巨大化した全身を覆う剛毛は、針の鎧のように逆立っている。
 しかも、身体の周囲の闇が不透明な波動で、陽炎の如く揺れている。その全身から禍々しい妖気が、黒い炎となって立ち昇っているのだ。
 伝説の狼魔王〈りゅかおおん〉。
 元はアルカディアの王であったが、人間の子を殺してゼウスに供したため、その怒りを買って狼の姿に変えられた、と希臘(ギリシャ)の神話は伝える。
「おぬし、乙女の血を吸ったようだな」
 狼魔王は厳かに問い質した。
「おかげで本物の魔族になってしまったよ」
「人の血の混じった賤しき〈だんぴいる〉が、自ら魔族と名乗るはおこがましいが、おぬしの力、確かに端倪すべからざるものがある。――どうじゃ? 余に仕える気はないか。命を助けてやるばかりか、それ相応の地位を用意してやるぞ」
 これが魔族の考え方なのだろうか。己の眷属を二人まで斃した相手を憎むより、その力を認め、新たな仲間として、迎え入れようと言うのである。
 しかし、将夜は不敵に笑った。
「何様のつもりか知らんが、おれは誰かに仕えるような殊勝な心掛けは持ち合わせておらんのでな」
「汝も、その父と同じく余の誘いを断るか。〈ばんぱいあ〉の子よ……」
 ふっと将夜の顔が引き締まった。
 瑠璃の血を吸うことによって覚醒した力は、その力を己の命に刻み付けた存在を否応なく意識させた。今の狼魔王の言葉が事実なら、〈ばんぱいあ〉と狼魔王の間には、かつて何らかの因縁があったことになる。
「不逞の徒〈だんぴいる〉よ。汝が罪、その死を以って(あがな)うがよい!」
 あっという間に距離を詰め、将夜に迫ってくる。
 将夜は冷静に間合いを計ると、相手と交差するように斜めに走った。
 刹那。
 狼魔王が吠えた。
 突如、風が渦を巻く。
「くっ……!」
 右手で鞘を握った姿勢のまま、将夜の身体が吹き飛ばされていた。
 胡蝶斬りは、相手の懐に入り込まねば遣えない。刀を抜きさえすれば、瞬息の間に勝負は決するが、その寸前に風戟(ふうげき)を喰らっては、刀身を鞘走らせることができない。
 着地と同時に、再び将夜は跳躍した。
 狼魔王が立ち上がり、左の前足で宙を薙いだ。将夜の刀が閃く。ががっと重い音がして、打ち落とされた白い短剣の如き物が屋根の上に散らばる。
 なんと狼魔王は、(おの)が爪を根元から切り離し、手裏剣よろしく飛ばしてきたのである。
 凄まじい勢いで飛来した爪を、将夜は跳躍しつつ空中で叩き落したものの、着地に移る時の体勢がほんの少し乱れた。
 次の瞬間、屋根が将夜の落下の衝撃にぐっと撓んだ。巨体の魔物が暴れているのである。屋根の梁はとっくに崩壊寸前なのだ。
「し、しまった!」
 とっさに跳ぼうとしたが、二間四方ほどの広さに渡って屋根が凹み、そのまま一気に崩れ落ちた。
 瓦が雨のように流れ落ち、すさまじい音と土埃を上げる。
 濛々たる煙の中から、ゆったりと影が滲み出し、巨大な像を結んだ。
 生臭い息と共に、くぐもった声音が洩れる。
「さすがに、しぶといの。〈だんぴいる〉の若造よ」
 倒壊寸前の屋根の端に、左腕一本で将夜は辛うじて摑まっていたのである。
「諦めのいい方ではないんでね」
「おかげで嬲り殺しにできる愉しみを失わずに済んだわい」
 狼魔王は無造作に右の前足を将夜の左手に重ねる。
 豆腐に五寸釘が刺さるように、爪が手の甲に喰い込む。
「つッ……」
 将夜の顔が苦痛に歪む。
 前足にじりじりと力が籠もるに従って血が噴き出し、たらたらと滴り落ちる。激痛に身悶える将夜の顔を覗き込もうとした狼魔王は、訝しげに唸り声を上げた。
「何故笑っておる?」
 将夜はゆっくりと顔を上げた。月の光を浴びた、月よりも(なお)白いその頬には、確かに美しい微笑が刻まれていた。
「ついに止めたぜ。お前の右前足の動きをな」

 閃光が迸った――
「ぐぶぅううッ!」
 初めて魔狼王が苦悶の声を上げた。
 身をよじって後ずさる。
 危うく揺れ動いている屋根の上に、ひらりと将夜は立った。
 澄んだ鍔鳴りが響き渡る。
 毛に覆われた右腕が、将夜の左手に爪を立ててぶら下がっている。将夜はそれを右手で無造作に外すと、背後の虚空に高々と抛った。
 将夜が極めて不安定な状態に耐えながら、あえて片腕で屋根に掴まっていたのにはわけがあった。刀を抜くための右手を、自由にしておくためだったのである。
「これで、爪の飛び道具はもはや使えまい」
 相手は先に左手の爪を使い、今右腕を失った。
「次の一撃で、決めてやる!」
 揺れる屋根の上で軽く身を沈めたと思うと、その反動を利用して将夜の身体は夜空に高々と舞い上がった。
 落下による加速度を利用して、流星の如く狼魔王に迫る。

 ところが――
 信じ難いことに、狼魔王の背中の毛が逆立つと、小さな無数の矢となって将夜を襲ったのである。
 激しい金属音が連続して上がり、火花が散った。
 崩れ残った屋根に叩き付けられ、一度撥ねてから、仰向けに倒れた。
 将夜の手には抜き身が握られている。
 とっさに刀で払ったが、さすがに予想外だったことに加え、数が多すぎた。
「ぐッ……」
 刀の下を掻い潜った毛が何本か、針の硬さと鋭さで身体に突き刺さっている。刺さった処から、劇毒でも注入された如き激しい疼痛と痺れが生じている。
 ただ、狼魔王の方にも余裕はなかった。
 斬られた足から流れるどす黒い血が止まらないのだ。三本の足で蹌踉(そうろう)と歩み寄ると、横たわる将夜に覆いかぶさろうとした。
 開いた口から筍ほどの太さの牙が覗き、生臭い息が突風のように吹き付ける。

 その時だった。
 月が明度を増した――と将夜の目には見えた。
 太陽の暖かさではなかった。むしろ明るさが増せば増すほど、照らすものを凍りつかせる白光(びゃっこう)
 まるでその氷の光から生まれ出たかのように、一頭の白狼(はくろう)が現れた。白狼は美しい弧を描いて跳躍し、狼魔王の喉笛に喰らいついたのである。
 振り払おうと、狼魔王が狂気の如く暴れても、白狼は離さない。将夜の刀の切っ先が、ぴくりと震えた。腕に微かながら力が戻っている。将夜は最後の力を振り絞って、わが身を白狼と狼魔王の間に投げ出した。
「秘剣胡蝶斬り!」
 ようやく白狼を振りほどいた狼魔王が、不意に一切の動きを停止した。

 ぱちり、

 将夜の刀の鍔が鳴った。
 この時響き渡った声を正確に形容することは、何人(なんぴと)にも不可能に違いない。
 だが、それが狼魔王の断末魔の悲鳴だという、その一点だけは疑いの余地がなかった。
 屋根が崩れ、狼魔王の姿はその奥に呑まれるように落ちていった。
 片膝ついた姿勢で、なんとか踏み止まろうとした将夜だったが、痛みと痺れは既に限界に達していた。
 視野に霞がかかり、己も穴の底へ吸い込まれてゆく……。

 何か柔らかく、ふさふさしたものに包まれるのを覚え、薄れかけていた意識を将夜は辛うじて引き戻した。
「お、お前……」
 頭から尻尾の先まで全く混じりけのない、純白な狼の背に乗っている己の姿を将夜は見い出したのであった。
「助けて、くれたのか」
 次々に倒れていく柱から柱へ、目にも止まらぬ速さで飛び移っていく白狼は、ちらりと将夜の方を振り返ると、そうだ、と言うように鼻を鳴らした。

 ――白仙狼(はくせんろう)ヲ遣ワシ、以テ月ノ子タル汝ガ眷属ト為サン。

 声。
 

は一体何だったのだろう。一瞬、すらりと背の高い影が視界の隅に映った気がしたのだが……。
 幻、か。
(もしや、〈ばんぱいあ〉か。――ということは? いや、まさか……)
 そこで、将夜の意識は完全に途絶えた。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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