第七十四話 斎木に縄をかけるのは意外な男のこと
文字数 1,635文字
「ば、化け物だ、ばけ――」
ほうほうの体でまろび出たのは、血塗れの斎木であった。
奥座敷に攻め入ってきた忍び装束の者たちが御庭番だということには気づいている。
獣化した菊也と彼らの戦闘が始まったどさくさに紛れて、逃げ出したのだ。
この裏口に辿り着くまでに、屋敷に仕掛けられたからくりによって命を落とした御庭番の、累々と重なる凄惨極まりない死体の山を目にしている。
からくりは停止しているので、斎木自身は傷つかずに済んだが、御庭番の流した血を全身に浴びているのだ。
(と、とにかく、この化け物屋敷から一刻もはやく離れなければ……)
往来までなんとか這い出したものの、腰が抜けて動けない。気ばかり焦っていると、首筋に、ひやりと冷たいものが押し当てられた。
「ひっ、ひィいい!」
死に損なった御庭番が化けて出たのかと、総毛だった斎木が振り返る。
「こ、これは……」
見下ろしているのは、黒羽織を身に纏った男であった。
「は、八丁堀の旦那! い、いい処へお出で下さいました」
地獄に仏とばかり、斎木は震える手で後ろを指差し、
「こ、この屋敷で、今大変なことが……」
「いや」
男は十手で首筋をぴしゃりと叩いて言った。「おれはお前さんに用があるのさ。小石川養生所医師、斎木方生」
「な、何ですって?」
「タレ込みがあったんだ。火事で迷子になった幼女を連れ去り、長年自分の子と偽っていたそうだな」
「そんな……」
「御用だ、観念しろいッ」
鋭く言ってから笹尾新兵衛は、にたりと笑った。「お前さん、叩けばいろいろ埃の出そうな面 をしてやがるぜ」
へたへたと斎木はその場に頽 れる。
「なんだ、だらしがねえな。――おい、暇なら手伝ってくれよ」
笹尾の言葉の後半は、何故か道の傍に向かって投げかけられた。
「へえ」
身を屈めてすすっと寄ってきた影がある。
笹尾は、その影に捕り縄を渡す。影は慣れた手つきでたちまち斎木を縛り上げてしまった。
「相変わらず見事な手際だな」
「恐れ入りやす」
「どうだい、そろそろおれの処に戻ってきちゃくれねえか」
「もったいないお言葉ですが……」
「その傷、まだ癒えねえのかい」
影は黙って顔を上げた。月の光に左頬の傷が浮かび上がった。
「傷はとっくに癒えやした。でも、この通り痕が残っておりやす。この痕がある限り、あっしの罪が消えることはありません」
笹尾は、溜息をひとつ吐いた。
「因果な男だよ、お前さんは」
それから思い出したように、斎木の尻を蹴った。「さあ、番所まで道行きと洒落込もうぜ」
斎木は蹴り上げられて漸く正気を取り戻したらしく、よろよろと立ち上がる。
「でも、あきらめねえぜ。おれは、しつこい男なんでな」
「蝮の笹尾の怖さを一番身に染みて知っているのは、あっしですぜ」
「おれが蝮なら、お前は鬼の平次親分じゃねえか。一膳飯屋の親父で終わる玉じゃなかろう?」
「あんな一膳飯屋でも、なくなりゃ困る娘が一人おりやす。おみよって言いまして、あっしのほかには身寄りがおりません」
「お前の泣き処 は、何時 だって女だ。だから因果な男だって言うのさ。――それにしても、今日はまたお前さんに借りができちまったな。ありがとうよ。この埋め合わせは必ずさせてもらう」
「借りだなんて、とんでもねえ。ただ――」
「ただ?」
「差し出がましい口を叩くとお叱りを受けましょうが、神崎さまは何かの罪に問われるのでございましょうか」
「神崎将夜か。気になるかい?」
「あのお侍様の身に何かあると、悲しむ娘がおりまして……」
「そのおみよって娘か。いや、おみよの他にもう二、三人はいそうだぜ。やれやれ、因果な男がまた一人増えたようだな」
笹尾はすっと、平次に背を向けた。
「お上ってのはどうも野暮天でね。それでも、全くの木石ってわけじゃねえよ。まあ、少なくともおれはそう信じてる」
「――そ、それじゃあ」
笹尾は振り返らず、縄尻を掴んでいない方の手をひらひらと振った。そのまま斎木を先に立てて歩み去る。
その後ろ姿に、平次は深々と頭を下げた。
ほうほうの体でまろび出たのは、血塗れの斎木であった。
奥座敷に攻め入ってきた忍び装束の者たちが御庭番だということには気づいている。
獣化した菊也と彼らの戦闘が始まったどさくさに紛れて、逃げ出したのだ。
この裏口に辿り着くまでに、屋敷に仕掛けられたからくりによって命を落とした御庭番の、累々と重なる凄惨極まりない死体の山を目にしている。
からくりは停止しているので、斎木自身は傷つかずに済んだが、御庭番の流した血を全身に浴びているのだ。
(と、とにかく、この化け物屋敷から一刻もはやく離れなければ……)
往来までなんとか這い出したものの、腰が抜けて動けない。気ばかり焦っていると、首筋に、ひやりと冷たいものが押し当てられた。
「ひっ、ひィいい!」
死に損なった御庭番が化けて出たのかと、総毛だった斎木が振り返る。
「こ、これは……」
見下ろしているのは、黒羽織を身に纏った男であった。
「は、八丁堀の旦那! い、いい処へお出で下さいました」
地獄に仏とばかり、斎木は震える手で後ろを指差し、
「こ、この屋敷で、今大変なことが……」
「いや」
男は十手で首筋をぴしゃりと叩いて言った。「おれはお前さんに用があるのさ。小石川養生所医師、斎木方生」
「な、何ですって?」
「タレ込みがあったんだ。火事で迷子になった幼女を連れ去り、長年自分の子と偽っていたそうだな」
「そんな……」
「御用だ、観念しろいッ」
鋭く言ってから笹尾新兵衛は、にたりと笑った。「お前さん、叩けばいろいろ埃の出そうな
へたへたと斎木はその場に
「なんだ、だらしがねえな。――おい、暇なら手伝ってくれよ」
笹尾の言葉の後半は、何故か道の傍に向かって投げかけられた。
「へえ」
身を屈めてすすっと寄ってきた影がある。
笹尾は、その影に捕り縄を渡す。影は慣れた手つきでたちまち斎木を縛り上げてしまった。
「相変わらず見事な手際だな」
「恐れ入りやす」
「どうだい、そろそろおれの処に戻ってきちゃくれねえか」
「もったいないお言葉ですが……」
「その傷、まだ癒えねえのかい」
影は黙って顔を上げた。月の光に左頬の傷が浮かび上がった。
「傷はとっくに癒えやした。でも、この通り痕が残っておりやす。この痕がある限り、あっしの罪が消えることはありません」
笹尾は、溜息をひとつ吐いた。
「因果な男だよ、お前さんは」
それから思い出したように、斎木の尻を蹴った。「さあ、番所まで道行きと洒落込もうぜ」
斎木は蹴り上げられて漸く正気を取り戻したらしく、よろよろと立ち上がる。
「でも、あきらめねえぜ。おれは、しつこい男なんでな」
「蝮の笹尾の怖さを一番身に染みて知っているのは、あっしですぜ」
「おれが蝮なら、お前は鬼の平次親分じゃねえか。一膳飯屋の親父で終わる玉じゃなかろう?」
「あんな一膳飯屋でも、なくなりゃ困る娘が一人おりやす。おみよって言いまして、あっしのほかには身寄りがおりません」
「お前の泣き
「借りだなんて、とんでもねえ。ただ――」
「ただ?」
「差し出がましい口を叩くとお叱りを受けましょうが、神崎さまは何かの罪に問われるのでございましょうか」
「神崎将夜か。気になるかい?」
「あのお侍様の身に何かあると、悲しむ娘がおりまして……」
「そのおみよって娘か。いや、おみよの他にもう二、三人はいそうだぜ。やれやれ、因果な男がまた一人増えたようだな」
笹尾はすっと、平次に背を向けた。
「お上ってのはどうも野暮天でね。それでも、全くの木石ってわけじゃねえよ。まあ、少なくともおれはそう信じてる」
「――そ、それじゃあ」
笹尾は振り返らず、縄尻を掴んでいない方の手をひらひらと振った。そのまま斎木を先に立てて歩み去る。
その後ろ姿に、平次は深々と頭を下げた。