第六十七話 ここに血の従者が誕生すること
文字数 1,410文字
「ちょうどよかった」
普段に似ず、静かな挙措で入ってきた瑠璃に将夜は言った。
「瑠璃、ひとつ頼まれてくれぬか。ここにある金子 を、ひさ江に渡してやってほしいのだ」
小さな巾着袋を瑠璃の方へ押し遣る。
巾着袋にあった五両の金は、やもめ暮らしに必要な物を購うため多少は遣ったものの、まだ大部分は残っている。
(兄らしいことを何一つしないばかりか、金までタカっていたどうしようもない小兄を、どうか許してたもれ)
二度と、会えぬやもしれぬ。
瑠璃なら、多貴や数馬にではなく、ひさ江に直接手渡してくれるであろう。
「相分かった」
案の定、瑠璃はうるさく尋ねることはせず、あっさり巾着を袂にしまってくれた。
「かたじけない。――すまぬが、少々為 すべきことがあるによって、これより出かける」
「この夜更けにか。いったい何処へ行くつもりだ」
「野暮用だ」
瑠璃の手が、袴の膝をぎゅっと握り締める。
「神崎将夜、お前はいつでもそうだ」
「いつでも?」
「肝心なことは何も、わたしに言ってくれない」
将夜は静かに笑った。
「今日は本当のことを話そう。――瑠璃、そなたはおれにとって妹のようなものなのだ」
「妹……」
「前からずっとそうだ。お前に何を言われても不思議と腹が立たない。それどころか、お前は厭がるだろうが、可愛いとさえ思ってきた」
「そんなふうに言われて、わたしが喜ぶとでも思っているのか。お前はいつでもそうやって、わたしを子供扱いしてきた。わたしが本当に何も知らないと思っているのか」
「瑠璃、お前は何の話をしているのだ」
「神崎将夜。お前は、女の血を吸いたくなる病に罹っているのだろう」
「…………!」
将夜は絶句した。とっさに否定しようとするが、うまく言葉が続かない。
「あの日、わたしは志乃とお前の話を聞いてしまったのだ――」
将夜の様子を見に訪れた瑠璃は、偶然志乃が語る将夜の病の話を聞いてしまったのだ。
あまりの事態に、瑠璃は激しく動揺した。更に心ならずも盗み聞きしてしまった恥ずかしさも加わり、一種の混乱状態に陥った。
それでも必死に己を抑えて一旦長屋の木戸まで戻り、やや落ち着きを取り戻してから、改めて将夜を訪ねたのだ。
あの日、瑠璃が呆然とした表情を浮かべていたのは、志乃と将夜が一緒にいたのを見たせいではなく、自分が知ってしまった事実の重大さに対する反応だったのである。
ただ――
志乃のおかげでようやく腑に落ちたところもある、と瑠璃は言った。
「一緒に道場で切磋琢磨してきたわたしに、お前の身体の変化を見抜けぬ筈があるか! 剣への熱情が失せたなどという戯言 を、わたしが信じると思うのか! 剣が何より好きなお前が、これから先二度と剣を握れなくなるのではないかと、わたしは心配で心配で……眠れぬ夜をいくつ過ごしたかわからぬのだ! そ、それを、それを……」
きっとばかりに将夜を真っ向から睨みつける瑠璃の美しい目に、みるみる光るものが溢れてきた。
(やはり、涙だったのか)
過日 、藍染川の岸で。
瑠璃が振り払った将夜の手に残った滴。あれはやはり涙だったのだ。この鈍感極まりない男も、さすがにはっと胸をつかれる思いがしたのである。
いきなり瑠璃は立ち上がり、将夜に背を向けた。
微かな衣擦れの音が響く。
「な、何をするつもりだ!」
将夜の声が震えた。
「神崎将夜のためなら、わたしは……何でもしてやる……」
それは将夜が初めて聞いた瑠璃の、女としての声だった。
普段に似ず、静かな挙措で入ってきた瑠璃に将夜は言った。
「瑠璃、ひとつ頼まれてくれぬか。ここにある
小さな巾着袋を瑠璃の方へ押し遣る。
巾着袋にあった五両の金は、やもめ暮らしに必要な物を購うため多少は遣ったものの、まだ大部分は残っている。
(兄らしいことを何一つしないばかりか、金までタカっていたどうしようもない小兄を、どうか許してたもれ)
二度と、会えぬやもしれぬ。
瑠璃なら、多貴や数馬にではなく、ひさ江に直接手渡してくれるであろう。
「相分かった」
案の定、瑠璃はうるさく尋ねることはせず、あっさり巾着を袂にしまってくれた。
「かたじけない。――すまぬが、少々
「この夜更けにか。いったい何処へ行くつもりだ」
「野暮用だ」
瑠璃の手が、袴の膝をぎゅっと握り締める。
「神崎将夜、お前はいつでもそうだ」
「いつでも?」
「肝心なことは何も、わたしに言ってくれない」
将夜は静かに笑った。
「今日は本当のことを話そう。――瑠璃、そなたはおれにとって妹のようなものなのだ」
「妹……」
「前からずっとそうだ。お前に何を言われても不思議と腹が立たない。それどころか、お前は厭がるだろうが、可愛いとさえ思ってきた」
「そんなふうに言われて、わたしが喜ぶとでも思っているのか。お前はいつでもそうやって、わたしを子供扱いしてきた。わたしが本当に何も知らないと思っているのか」
「瑠璃、お前は何の話をしているのだ」
「神崎将夜。お前は、女の血を吸いたくなる病に罹っているのだろう」
「…………!」
将夜は絶句した。とっさに否定しようとするが、うまく言葉が続かない。
「あの日、わたしは志乃とお前の話を聞いてしまったのだ――」
将夜の様子を見に訪れた瑠璃は、偶然志乃が語る将夜の病の話を聞いてしまったのだ。
あまりの事態に、瑠璃は激しく動揺した。更に心ならずも盗み聞きしてしまった恥ずかしさも加わり、一種の混乱状態に陥った。
それでも必死に己を抑えて一旦長屋の木戸まで戻り、やや落ち着きを取り戻してから、改めて将夜を訪ねたのだ。
あの日、瑠璃が呆然とした表情を浮かべていたのは、志乃と将夜が一緒にいたのを見たせいではなく、自分が知ってしまった事実の重大さに対する反応だったのである。
ただ――
志乃のおかげでようやく腑に落ちたところもある、と瑠璃は言った。
「一緒に道場で切磋琢磨してきたわたしに、お前の身体の変化を見抜けぬ筈があるか! 剣への熱情が失せたなどという
きっとばかりに将夜を真っ向から睨みつける瑠璃の美しい目に、みるみる光るものが溢れてきた。
(やはり、涙だったのか)
瑠璃が振り払った将夜の手に残った滴。あれはやはり涙だったのだ。この鈍感極まりない男も、さすがにはっと胸をつかれる思いがしたのである。
いきなり瑠璃は立ち上がり、将夜に背を向けた。
微かな衣擦れの音が響く。
「な、何をするつもりだ!」
将夜の声が震えた。
「神崎将夜のためなら、わたしは……何でもしてやる……」
それは将夜が初めて聞いた瑠璃の、女としての声だった。