第七十六話 神崎将夜はどこか鈍いこと
文字数 2,015文字
弥生が療養している部屋は庭に面している。
風はやや冷たいが、日差しは穏やかだ。
弥生は暫く口を噤んでいたが、やがて静かに続けた。
「ただ、先のことが手に取るように見えてしまうというのは、やはり恐ろしいことなのだと思います。あのひとはわたしがお上によって幽閉されると知っていたために、身辺警護の者をつけてくれたわけですが、思えば罪深いことをしてしまったものです」
幽閉を解かれた時、弥生が真っ先にしたことは、自分を囚われの狼憑きの処へ運んでもらうことだった。弥生がその額にそっと手を当てると、狼憑きはそのまま眠るように息絶えた。
「あの、弥生様は、魔族から魔力を消し去る術を心得ていらっしゃるのでしょうか」
志乃の問いかけに、弥生はゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、あれは呪いでした。あのひとは〈りゅかおおん〉の手下の一人を生け捕りにし、呪いをかけることによって、わたしを守るよう命じたのです。わたししか解くことのできぬ呪い。ですから、わたしは先ず守り役の枷を取り払ってやる必要があったのです。残念ながら、肉体は既に死んでいました。あの者を今まで動かしていたのは、呪いの魔力だったのです」
元々、〈りゅかおおん〉の手下として無辜の人々を襲っていた男ではあったが、たとえそのような者でも、呪いによって縛り、使役することに弥生は慙愧の念を覚えずにはいられなかったのである。
「さ、弥生様。横におなり下さい。風が少し強くなりました。冷えては御身体に障ります」
志乃は、弥生の痩せて軽い身体をそっと蒲団に戻すと、立って障子を閉め、また枕元に座った。
「今は安静が肝要でございます。弥生様は何一つ間違ったことをなされてはおりません。どうか、気を楽にしてお休み下さいまし」
「志乃さん、あなたは患者の痛みを自分の痛みのように感じることのできる真の名医です。同じ女として、わたしも心から誇りに思います」
「いいえ」
志乃は長い睫を伏せて、目を逸らせた。「わたくしは、厭な女でございます」
「厭な女? なぜ?」
「将夜様は、〈りゅかおおん〉との戦いの前に、瑠璃様の血をお吸いになりました」
「聞いています」
将夜が〈だんぴいる〉としての力を十全に発揮するためには、乙女の血を吸う必要があった。
それは、弥生が一番よくわかっている。将夜が血を吸った娘の身体に異常がないか診てくれるよう、志乃に頼んだのも弥生であった。〈ばんぱいあ〉に噛まれた乙女は、同じく〈ばんぱいあ〉になるという説があるからだ。
幸い〈だんぴいる〉は人の血を半分受け継いでいるためか、噛まれた相手の身体に直接影響を及ぼすことはなかったようで、将夜も含め一同、安堵の溜め息を吐 いたものである。
ところで、将夜の父である〈ばんぱいあ〉は、弥生の血を吸ったことは一度もないのだそうだ。確かに、〈ばんぱいあ〉の吸血行為により、弥生も〈ばんぱいあ〉になってしまっていたとしたら、そもそも将夜は〈だんぴいる〉ではなかったことになる。
一説に拠れば、〈だんぴいる〉の方が〈ばんぱいあ〉の弱点を有さない分、魔族狩りに向いている由だが、将夜の父が弥生の血を吸わなかったのは、果たしてそのためだったのか。
あるいは、弥生に寄せる感情に特別なものがあったせいなのか。
この問題は、当の本人に尋ねてみるしか答えを得る方法はないようであった。
「将夜様が瑠璃様の血をお吸いになったと聞いた時、わたくしは自分でもわけのわからぬ嫉妬を覚えてしまったのです。同じ血を吸うなら、どうしてわたくしの血を吸って下さらなかったのかと。将夜様の御病気を治すためだなどと口ではいいながら、知らず知らず将夜様を一人の殿方として見てしまっていたのです。医師として至らぬだけではありませぬ。わたくしは、厭な女でございます」
激しい感情に耐え切れなくなったのか、志乃は袖で顔を覆った。切ない嗚咽が洩れた。
「いいえ、厭な女とは、わたしのことです」
泣いていた志乃がびくりとしたほど、弥生の声は苦悩に満ちたものだった。
「わたしは……与一郎様がわたしに思いを寄せて下さっていることを存じておりました。知っていたからこそ、それを利用したのです。生れてくる子を守るためなら、与一郎様の純粋な思いを踏みにじり、犠牲にしても恥じない。女というものの業の深さに、我ながら恐ろしくなります。闇の中で過ごした十三年も、わたしの犯した罪に較べれば、まだまだ軽い罰だったのかもしれませぬ。わたしはこの罪を背負って、これからも生きてゆくしかないのです」
沈黙が落ちた。
やがてふっと表情を和ませると、弥生は柔らかく志乃の膝を叩いた。
「志乃さんは、とても可愛らしい方ですよ。そこまで将夜のことを思ってくれて……。あの子の母として礼を申します。どうやら少し鈍いところがあるようですが、これからも、将夜のことを宜しくお願いしますね」
新たな嗚咽の声は、なかなか静まる気配がなかった。
風はやや冷たいが、日差しは穏やかだ。
弥生は暫く口を噤んでいたが、やがて静かに続けた。
「ただ、先のことが手に取るように見えてしまうというのは、やはり恐ろしいことなのだと思います。あのひとはわたしがお上によって幽閉されると知っていたために、身辺警護の者をつけてくれたわけですが、思えば罪深いことをしてしまったものです」
幽閉を解かれた時、弥生が真っ先にしたことは、自分を囚われの狼憑きの処へ運んでもらうことだった。弥生がその額にそっと手を当てると、狼憑きはそのまま眠るように息絶えた。
「あの、弥生様は、魔族から魔力を消し去る術を心得ていらっしゃるのでしょうか」
志乃の問いかけに、弥生はゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、あれは呪いでした。あのひとは〈りゅかおおん〉の手下の一人を生け捕りにし、呪いをかけることによって、わたしを守るよう命じたのです。わたししか解くことのできぬ呪い。ですから、わたしは先ず守り役の枷を取り払ってやる必要があったのです。残念ながら、肉体は既に死んでいました。あの者を今まで動かしていたのは、呪いの魔力だったのです」
元々、〈りゅかおおん〉の手下として無辜の人々を襲っていた男ではあったが、たとえそのような者でも、呪いによって縛り、使役することに弥生は慙愧の念を覚えずにはいられなかったのである。
「さ、弥生様。横におなり下さい。風が少し強くなりました。冷えては御身体に障ります」
志乃は、弥生の痩せて軽い身体をそっと蒲団に戻すと、立って障子を閉め、また枕元に座った。
「今は安静が肝要でございます。弥生様は何一つ間違ったことをなされてはおりません。どうか、気を楽にしてお休み下さいまし」
「志乃さん、あなたは患者の痛みを自分の痛みのように感じることのできる真の名医です。同じ女として、わたしも心から誇りに思います」
「いいえ」
志乃は長い睫を伏せて、目を逸らせた。「わたくしは、厭な女でございます」
「厭な女? なぜ?」
「将夜様は、〈りゅかおおん〉との戦いの前に、瑠璃様の血をお吸いになりました」
「聞いています」
将夜が〈だんぴいる〉としての力を十全に発揮するためには、乙女の血を吸う必要があった。
それは、弥生が一番よくわかっている。将夜が血を吸った娘の身体に異常がないか診てくれるよう、志乃に頼んだのも弥生であった。〈ばんぱいあ〉に噛まれた乙女は、同じく〈ばんぱいあ〉になるという説があるからだ。
幸い〈だんぴいる〉は人の血を半分受け継いでいるためか、噛まれた相手の身体に直接影響を及ぼすことはなかったようで、将夜も含め一同、安堵の溜め息を
ところで、将夜の父である〈ばんぱいあ〉は、弥生の血を吸ったことは一度もないのだそうだ。確かに、〈ばんぱいあ〉の吸血行為により、弥生も〈ばんぱいあ〉になってしまっていたとしたら、そもそも将夜は〈だんぴいる〉ではなかったことになる。
一説に拠れば、〈だんぴいる〉の方が〈ばんぱいあ〉の弱点を有さない分、魔族狩りに向いている由だが、将夜の父が弥生の血を吸わなかったのは、果たしてそのためだったのか。
あるいは、弥生に寄せる感情に特別なものがあったせいなのか。
この問題は、当の本人に尋ねてみるしか答えを得る方法はないようであった。
「将夜様が瑠璃様の血をお吸いになったと聞いた時、わたくしは自分でもわけのわからぬ嫉妬を覚えてしまったのです。同じ血を吸うなら、どうしてわたくしの血を吸って下さらなかったのかと。将夜様の御病気を治すためだなどと口ではいいながら、知らず知らず将夜様を一人の殿方として見てしまっていたのです。医師として至らぬだけではありませぬ。わたくしは、厭な女でございます」
激しい感情に耐え切れなくなったのか、志乃は袖で顔を覆った。切ない嗚咽が洩れた。
「いいえ、厭な女とは、わたしのことです」
泣いていた志乃がびくりとしたほど、弥生の声は苦悩に満ちたものだった。
「わたしは……与一郎様がわたしに思いを寄せて下さっていることを存じておりました。知っていたからこそ、それを利用したのです。生れてくる子を守るためなら、与一郎様の純粋な思いを踏みにじり、犠牲にしても恥じない。女というものの業の深さに、我ながら恐ろしくなります。闇の中で過ごした十三年も、わたしの犯した罪に較べれば、まだまだ軽い罰だったのかもしれませぬ。わたしはこの罪を背負って、これからも生きてゆくしかないのです」
沈黙が落ちた。
やがてふっと表情を和ませると、弥生は柔らかく志乃の膝を叩いた。
「志乃さんは、とても可愛らしい方ですよ。そこまで将夜のことを思ってくれて……。あの子の母として礼を申します。どうやら少し鈍いところがあるようですが、これからも、将夜のことを宜しくお願いしますね」
新たな嗚咽の声は、なかなか静まる気配がなかった。