第87話

文字数 5,199文字

 帰りの車の中で、感心したように紫が言った。

「あなたには驚いたわ。マーったら、すっかり飼いならされた犬みたいになっちゃって」

「犬だなんて、そんな。可哀そうですよ、それは」

 理子はクスリと笑った。

「でも、そんな感じだったわ。すっかり立場が逆転しちゃって」

 本当に紫は驚いていた。
 弟の言い分もよくわかるが、それにしても女の気持ちを無視していると憤慨していたのだ。その気持ちは理子も同じだったのだろう。

 とは言え、ああいう反撃に出るとは思っていなかった。
 説得させるのに泣き落とすのかと思っていたのだ。
 ああまで強い態度に出れるのは凄い。

 しかも言葉づかいまで変わっていた。
 普段はいつも、弟に対して敬語を使っている。恋人同士になっても、それは変わらない。
 どこまでも教師と生徒の枠から出切らないでいる感じがした。

 齢の差もあるのだろう。どちらかと言えば、弟に従順のような印象だ。
 弟がいつも理子を守り、リードして、理子は弟を慕い、従っている、そういう関係に見えた。

 理子がしっかり者である事は前から感じてはいた。だから、いつか立場は逆転するだろうと思ってはいた。
 だが、それをこんなに早く目の前で見せられるとは。

「お義姉さん。さっきのような事は、滅多に無いですから。先生があまりに強情なので、ちょっとお灸を据えただけです。私自身も、先生の態度に腹が立ったし。.....私は、守られているだけの存在でいたくないんです。私だって、愛する人を守ってあげたいです。一方的な愛は、ごめんです。それを先生に伝えたかったんです」

「そうだったの。それで、理子のその思いはマーに伝わったって事なのね」

「そうだと思います。お義姉さん、私達、前から結構、喧嘩してるんですよ。大体が先生の横暴が原因なんですけど」

「あらそうなの。でもさっきの様子から察すると、いつも最後はマーが負けてる感じね」

 紫の言葉に理子は笑った。

「それよりお義姉さん。先生の頭、大丈夫なんでしょうか。顔色も悪いし、凄く気になるんですけど」

「それは私達も心配しているの。もう意識もはっきりしているし、頭痛を訴える事も無いから、多分大丈夫だろうとは思うけど、はっきりした事は検査の結果が出ないとわからないのよ」

「その結果って、いつわかるんです?」

「明日には出る筈よ」

「それならお義姉さん。結果がわかったら電話でもメールでも、すぐに知らせて下さいね。今回の事では、私だけ知らせて貰えなくて、とても悲しかったんですから」

「理子、ごめんなさい。私達も気が動転してたのよ」

 紫は事故の当日からの、顛末の一部始終を理子に語って聞かせた。

「私達より、怪我したマーの方が余程、冷静だったわね。学校への連絡すら、私達は忘れていたんだから。本当に申し訳ないけど、あなたの事も忘れてた。忘れて無かったのはマーだけよ」

 それなのにあの人は私を遠ざけた。
 それが何より悲しかった。

 でも、それが本心ではない事も、さっきはっきりとわかった。
 これまで散々子供のように求めて来ていた癖に、本当に肝心な時には我慢する。
 こんな時こそ、我慢なんてしなくていいのに。

 最後は従順になって、甘く切ない表情をしていた蒔田の顔を思い出して、理子の胸は高鳴った。
 ゴールデンウィークの時、毎日来て欲しいと寂しそうな顔をした時と似ていて、子供みたいで可愛かった。
 時にはああやって、子供みたいに甘えて欲しいと思うのだった。

 大人の男に甘えたい、依存したいと思い続けてきた自分とは、違う自分を発見したような気分だ。
 自分の全てを投げ出したい気持ちと同じように、蒔田の全ても、自分に投げ出して欲しいと思うのだった。

 最初に知り合った時とは違って、随分と色んな表情を見せてくれるようになった。
 今日のような蒔田を見ると、ひと際愛しさを感ぜずにはいられない。

『君に、逢いたいから.....』

「君」と言われた。
 いつも「お前」なのに。
 以前、おちゃらけて言った時とは違っていた。
 なんだか、それがとても嬉しいのだった。


 日曜日。
 理子は勉強道具を持って、家を九時に出た。病院へと向かう。
 前回見舞いへ行った翌日に紫から電話が掛ってきて、検査結果を教えて貰った。どこも異常は無いそうで安心したのだった。

 あれから四日経った。
 学校では、みんながメッセージを書いて先生に渡した。個人的に手紙を書いた女子も多かった。
 クラスでは一人百円ずつ出して、約三千円分の花束を購入し、先生方に持って行ってくれるようお願いした。

 蒔田の変わりにやってきた日本史の講師は、三十歳前後の男性だった。
 話しに聞くと、採用試験に何度も挑戦中だと言う。普段は塾の講師をしているらしい。
 授業の内容は可も無く不可も無くと言った感じで、無難なところだった。

 病院に着いて、受付で名前を書く。前回と同じく従姉妹の名前を書いた。
 紙を捲って前日の分を見ると、校長先生と諸星先生、熊田先生の名前があった。矢張り、言っていた通りに昨日来たようだ。

 今日はまだ誰も来ていない。
 理子は病室のドアを軽くノックすると、中へ入った。
 蒔田の様子はこの前に来た時とあまり変わらない。

 理子を見ると、とても嬉しそうな顔をした。
 こんなにもストレートに嬉しそうな顔をするのを見るのは初めてだ。
 胸がキュンとした。

 理子がそばに行くと、「待ってたよ」と低い声で言った。
 蒔田の低くて魅力的な声は、理子の心を掻き立てる。
 蒔田は理子を真っすぐ見て言った。

「君に、逢いたかった」

 その言葉に理子は頬を染める。

「毎日ずっと、君の事ばかり、考えてる」

 熱い目で告げられて、気持が昂ってくる。

「先生、苦しく無いの?大丈夫?」

「大丈夫だ.....。この状態に、大分馴れたよ。喋るコツを掴んだ」

 そう言って笑顔を見せた。

 蒔田が理子に左手を差し出したので、理子はその手を握った。
 二人は見つめ合う。
 蒔田の頭にあった包帯は無くなっていた。
 顔色も良い。理子はその顔を見て安心した。

「とんだ、災難でしたね」

「うん。いきなり人が上から押し寄せて来て、何が何だかわからずに下敷きになって、気付いたらベッドの上だ。目覚めても、訳がわからなくて混乱したよ」

 蒔田は浅い息をしながら、ゆっくりとしたペースでそう言った。

「大怪我したけど、無事で良かったです。私、先生が遭遇した事故の事、あまりよく知らなかったんです。最近テレビ見ないし。新聞もザッと見ただけだったから。学校で聞いて本当に驚きました」

「ごめんな、内緒にして。だけど君は文化祭が終わって、これからって時だし、おまけに家の制約が厳しいだろう?学校の先生方もやってくるだろうから、ここでバッタリ会いでもしたら大変だしな。それに、こんな姿を見たら心配させるのは目に見えてるし、恥ずかしい気持ちもあったし.....。でも本当は、逢いたかったんだ。君の顔を見たかった。折角、夏休みも終わって、毎日君の顔を見れるようになったのに、また見れなくなるんだと思うと、辛かった」

「この四日間、寂しかった?」

「ああ。寂しかった.....。あの日、君の顔を見て、驚いた。一瞬、夢を見てるのかと思ったくらいだ。あんな態度をとったけど、本当は嬉しかったし、帰したく無かった。だから、君に怒られて、太刀打ちできなくなってしまった」

 蒔田の言葉を聞いて、理子は嬉しくなった。

「理子、キスしてくれないか?」

 その言葉に理子は優しく微笑むと、顔を寄せて口づけた。
 理子が離そうとしたら、蒔田は左手で理子の頭を押さえて、離すのを阻止した。
 理子は諦めて、したいようにさせた。

 ノックの音がしたので、慌てて離れた。看護師が入って来た。

「蒔田さん、どうですか?そろそろトイレの時間ですよ」

 そう言いながら入って来た看護師は、理子の姿を見ると、「妹さん?」と言った。
 返答に困って理子は蒔田を見た。
 理子の視線を受けて蒔田は「いいえ」と答えた。

 看護師はそれに対して何も言わず、蒔田が起き上がるのに手を貸して車椅子へと移動させた。
 右の手足が不自由な上にギプスをしているので非常に大変そうだが、馴れているのか手際が良かった。

「じゃぁ、ちょっと行ってくる」

 蒔田は理子の方を振り返って、少しはにかんだ様子でそう言った。
 蒔田がいなくなった病室を、理子は改めて見回した。
 花が一杯である。

 昨日、先生方が持って来られたのだろう。生徒達から多くの花束が届いている。
 手紙の束も置いてある。凄い量だ。手にとって、ざっと数えてみると百通くらいあった。これは読むのが大変そうだ。

 間もなく、蒔田が戻って来た。看護師の手を借りてベッドに戻る。
 その際、胸が少し圧迫されるのか、苦痛の表情を浮かべた。

「大丈夫?」

 心配になって、思わず声をかけた。

「うん、大丈夫」

 蒔田はそう言うと微笑んだ。なんだか、この間の帰る間際のやりとり以来、子供みたいに可愛らしいと感じる。
 あれで、(たが)が外れてしまったのだろうか。

「じゃぁ、蒔田さん、トイレに行きたくなったら遠慮なくコールして下さいね」

 看護師は蒔田に優しくそう言った。嬉しそうな顔をしている。
 気があるのだろう。看護師は理子の方をチラっと見てから病室を後にした。

「先生、大変ね。一人でトイレにも行けなくて」

「そうなんだ。だから面倒くさくなって、つい我慢しちゃって。それで、看護師さんが気にしてくれて、時間を見計らって来てくれるんだよ」

「面倒でも行かないと。体に悪いですよ。.....それにしても、凄い花と手紙ですね」

 理子の言葉に蒔田は愉快そうに笑った。

「凄いだろう。昨日、校長先生達が見えたんだが、みんなで両手一杯に花束を抱えてるんで驚いたよ」

「まぁ、そうだったんですか」

 その様を想像すると、可笑しかった。

「手紙も凄い量ですね。さっき、ざっと数えたら百通くらいありますよ」

「ああ。嬉しいような、迷惑なような.....。片手が使えないから、そもそも開けられないし」

「ご家族がいらっしゃるじゃないですか。面倒だから、そんな事をおっしゃるんでしょう?」

「やっぱ、わかる?.....それなら理子、開けて読んで聞かせてくれないかな」

「開けるのは引き受けますけど、読むのは嫌です。人の手紙を読むなんて、失礼じゃないですか。封をみんな切っておいてあげますから、あとは自分で読んで下さい。時間はたっぷりあるんだし」

「しょうがない。ゆっくり読むか。それで、君からの手紙もあるの?」

「ありません。どうして私が手紙を?こうして逢ってるのに」

「ちぇっ。つまんないの。手紙も趣があっていいじゃない」

 本当に残念そうな顔をしている。手紙の束に見向きもしなかったというのに。

「そう言えば、君からのお見舞いの品って無いの?」

「ありますよ。ほら、あれ」

 理子は花瓶に生けてある、ひと際大きな花束を指差した。

「あれって、あれは昨日、先生達が持ってこられた、生徒達からの花束じゃないか」

「そうです。あれは、うちのクラスからの花束です。全員でお金を出し合ったんですよ」

「幾ら?」

「一人百円です」

 理子はそう言って、笑った。
 その言葉を聞いて、蒔田は不機嫌な顔になった。

「君は一体、俺の何なの?ただの受け持ちの生徒なのかい?」

 蒔田の言葉に、理子はププッと笑った。

「何故、笑う」

「だって、先生、可笑しいんだもん。もしかして、拗ねてるの?」

「質問の答えになってないぞ。君は一体、俺の何なんだ?」

「あっ、強く出て来た。ふふふ・・・。さて、何なんでしょう?」

 蒔田は溜息を吐いた。

「理子.....、勘弁してくれよ」

「だって、お見舞いの品を催促するんだもん」

「当たり前じゃないか。誰よりも、君から欲しいのに」

「ヴァレンタインの時と同じですね。そう言って貰えるのは嬉しいですけど」

 蒔田は意気消沈している。
 いやはや、面白い。こんなんじゃ、苛めたくなってくるではないか。

「もしかして、理子ってS?」

「そうですよー。前に言ったじゃないですか。私もSだって」

「こんな時に、ずるいよな。元気になったら、ただじゃおかないからな」

「はいはい。わかりました。で、お見舞いの品ですけど、ちゃんと用意してきましたよ。先生がトイレに行っている間に、冷蔵庫に仕舞っておきました」

「えっ?あるの?冷蔵庫って、食べ物?」

 嬉しそうな顔をして訊いてくる。

「色々考えたんですけどね。お花は沢山貰うだろうし、フルーツもきっと同じだろうし。だから今朝、来る前にプリンを作ってきました」

「プリン♪」

 蒔田は子供のように嬉しそうに目を輝かせた。

「お昼のデザートか、三時のおやつにでも召し上がってください」

「理子、ありがとう。嬉しい」

 感激している。
 そんな蒔田を見て、理子の顔も自然に緩む。
 なんて可愛い人なんだろうと、思うばかりだ。
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