第50話

文字数 5,732文字

 三年十組の教室で、理子は一人本を読んでいた。
 桜も散り、チューリップも終わり、ライラックも散り始め、薔薇がもうすぐ咲き始める。
 四月は早くも終わろうとしていた。

 ゴールデンウィークが終われば中間だ。
 この時期はパンジーやノースポールが可憐に風に揺れている。薔薇が咲き始めたら一挙に華やかになるだろう。

 読んでいるのは、香水作りをモチーフとした小説だった。
 色んな花やハーブが出てくる。香りが本の中から匂い立ってきそうに感じられた。
 そこに描かれた恋愛も、匂い立つように美しかった。

 恋は突然やってくる。その人を取り巻くあらゆる環境や状況など全く関係なく。
 うっとりしつつも、ふと思う。
 この恋は錯覚なのではないかと。

 学校にいると、いつも思ってしまうのだ。
 二人きりで逢う時が夢で、学校での二人が現実なのではないか。

 その思いはいつまで経っても消えない。
 結局、卒業するまでこの思いは続くのだろうか。

「今度は何の本を読んでるの?」

 前の席に座っている岩崎潤一が振り返って尋ねてきた。新しいクラスメイトだ。
 席が前後なので自然と親しくなった。
 ちょっと大人しい感じがする男子だが、案外気さくで話しやすかった。

 色白で少しふっくらした頬にエクボができる。黒ぶちの眼鏡をかけていた。
 エクボができるのは蒔田と一緒だが、顔に黒子は一つも無かった。
 鉄道好きで鉄道研究会に所属している。
 なんとなく気が合い、休み時間はよくお喋りをする。

「香水の研究所が舞台の恋愛小説」

「へぇ~。面白そうだね」

 岩崎は理子ほどの読書家ではないが、興味のジャンルに枠が無く、面白そうと感じればどんなジャンルでも読む。
 その辺は理子と似ていた。

 だからか、理子の読んでいる本によく興味を持ち、後から読む事が多かった。今回も、理子が読み終わったら貸して貰いたそうな顔をしている。

 去年一緒だった耕介とは、離れてしまった。
 とても気が合って手ごたえのある楽しい男だったが、岩崎は、どこかのほほんとしていて、話しているとホンワカした気持ちになってくる。
 癒し系なのかもしれない。

「えー、なになに?」

 理子の後の席の渕田が声を掛けて来た。
 こちらは同じ中学の出身で、一昨年の一年の時に同じクラスだった男子だ。
 再び同じクラスになった事もあり、やたらと話しかけてくる。

 渕田は中一の時にも同じクラスで、同じ班になった事もあるせいか態度が馴れ馴れしい。
 テニス部のエースで女子に人気がある。男臭い感じのするイイ男だ。
 眼鏡はかけていない。

 新年度になって、理子はゆきと美輝とは違うクラスになった。
 耕介とも別になった。
 枝本と小泉は理系クラスなので当然別々だ。

 去年のクラスで再び同じクラスになった生徒は少なかった。
 親しかった人間では、茂木と歴研のメンバー二人と、女子も僅かで少々寂しい。
 今回は新しいクラスの張り紙を見た時、少し不安を覚えたのだった。

 教室へ入ると、既に幾つものグループが出来上がっていた。最初に友達がいないとキツイ。
 理子は何故か男子とはすぐに親しくなれるのに、女子となると誰とでも簡単に親しくはなれない。

 そんな中で、美輝と中学の時に友人だった木村和美に声を掛けられた。
 地味な顔立ちで性格も大人しく、目立たないタイプだ。
 彼女は大人し過ぎて、誰かに声をかけてもらわないと仲間に入れないタイプだったが、美輝の友達の理子を見知っていたので、自分の方から声を掛けてきたのだった。

 あまりに地味なので、理子は声を掛けられるまで気づかなかった。
 顔立ちは地味だが髪が天然パーマで、魔法使いサリーのようなヘアスタイルが特徴だった。
 その和美と親しくなり、今は隣の席に座っている。

 無口な方なので、結局理子がよく話す相手は男子だった。
 理子は渕田の問いかけに、「何でも無い」と素っ気なく答えた。
 前と後ろを相手に話すのが億劫だったからだ。

「なんだ、冷たいなぁ~」
 
 渕田がぼやいた。
 渕田は普段から、やたらと絡んでくる。
 勉強でわからない所を訊いてきたり、小テストの範囲を尋ねたり、先生の話しをちゃんと聞いていればわかるような事ばかりだ。だから少々うざい。

 歴研の部活で茂木に「あいつ、理子に気が有るんじゃないか」と言われた事がある。
 茂木は、理子に「好きな人がいる」と修学旅行で言われてから、積極的な行動には出なくなった。
 だが、まだ想いを寄せてくれていることは伝わってきていた。

 それは枝本も同じで、理子は二人から暖かく見守られているような感じがした。
 何か困った事があると助けてくれる、そんな存在だった。

「ねぇねぇ、中間の勉強で英語のわからない所、教えて貰えないかな」
 
「やだ」

 理子は冷たく言い放つ。

「なんだよ、いいじゃんか。ちょっとくらい」

 渕田はむくれ顔になった。

「人に教える程、余裕ないもん」

「だって、本読んでんじゃん」

 その言葉にむかついた。

「いいでしょ。そんなの私の勝手じゃない。何で、私が渕田君に教えなきゃなんないの?わからない所があるなら、先生の所へ行くのが一番でしょ」

「そんなの、恥ずかしくて聞けねーよ」

 と頭を掻く。
 理解できない。理子は無視して前を向く。
 そうすると、渕田は理子の袖を引くのだった。

「もう、やめてよ!」

 理子は激しく言うものの、渕田は笑っていて、ちっとも懲りない。
 何故、こんなに絡んでくるのだろう。
 仮に茂木の指摘が正しいとしても、やる事が幼稚だ。

「あんまりしつこいと、先生に訴えて席替えしてもらうからね」
 
 理子がそう言うと、一応、止める。
 理子が怒気を帯びた顔で前を向くと、岩崎が心配そうな顔をしていた。

「大丈夫?」

「うん。ほんと、やんなっちゃう」

 休み時間のひとこまだ。
 理子が他の男子と話している時には、必ずと言っていい程、割り込んでくるのだった。
 やっぱり、先生に言って、席替えをしてもらおうか.....。
 だが、席を変えても、わざわざやってきて絡んできそうな気がした。

 渕田は中学の時からテニス部で活躍していて、高校に入ってからも何度も大会で入賞し、女子からは人気があった。
 派手ではないが、武骨なイケメンと言った感じで、静かな人気がある。だが、彼女はいないようだ。

 理子は渕田の求めには冷たく拒否したが、岩崎が色々聞いてきた時には親切に受け答えしている。別に岩崎を贔屓しているわけでは無かった。
 渕田にだって、最初は親切に対応していた。だが渕田の場合、あまりに頻度が多過ぎて、いちいち相手にしてはいられなくなった。

 ちょっとわからない所を訊いてくる分にはいい。だが、まるでおんぶに抱っこ状態になってくると、さすがにうんざりしてくる。
 少しは自分で努力するものだろう。

 理子は殆どの毎昼休み、職員室まで出かけて行って、先生達に勉強を教わっていた。
 今重点を置いているのは、古文・漢文と数学だった。特に数学に力を入れた。
 文系の人間は数学が苦手な人間が多い。得意な文系では点差は少ないが、その分、数学で高得点を取れればかなり有利だ。

 ここまでやっているのに、何で努力しない人間に教えなきゃならない。
 しかも理子にとっては、唯一読書ができる、貴重な休み時間だった。

 学校の行き帰りは英語の構文と単語の暗記に使っている。
 帰宅後は、食事、入浴後に国・英・社の勉強をし、二十二時に就寝して朝五時に起き、軽く運動をしてから数学の勉強をしている。

 適宜休憩時間を入れて、ピアノの練習をしたり、ダンベルやヨガをやったりする。更に体力強化の為に、通学はバスから自転車に変えたのだった。

 休日は、合間に庭に出て花の手入れをしたりして、外気に当たる事でいい気分転換となっている。
 毎週末、蒔田の家へ来るように言われたが、矢張り毎週行くのは躊躇われたので、月一回の頻度で月末に訪れる事にしていた。

 この週末、ゴールデンウィークの初日に行く事になっている。
 桜の下で愛し合って以来だ。
 思い出すと胸が高まるので、極力思い出さないようにしていた。

 クラスは変わったが、担任は言われていた通り、変わっていない。
 毎朝夕、蒔田の顔を見れるのが理子にとって唯一心が潤う時だった。
 この人の期待に応えたい。この人の愛に応えたい。
 誰に遠慮する事もなく堂々と一緒になる為にも、頑張らなきゃと思うのだった。

 理子の焦点は既に一点に絞られている。
 そこへ向かってひた走るだけだ。

 蒔田のほうも相変わらずの人気者だった。特に新一年生は熱狂的だった。
 蒔田も赴任してきたばかりの前年度よりは、対応も馴れた感じだ。
 適当にいなしている。

 学生時代の時には自分勝手に振る舞えたが、教師ともなるとそうもいかないようで、だから去年は相当ストレスが溜まっていたのだろう。

 昼休みに職員室へくと、女生徒と談笑している蒔田をよく見るようになった。あまり嬉しくは無い。
 以前のように冷たい態度ではない事に、胸がざわつく。
 嫉妬しているのだろうか。

 自分がしたくても出来ないからなのかもしれない。
 だが、その事を蒔田に会った時に言わないでおこうと思っている。
 話したらきっと蒔田は喜ぶだろう。嫉妬しているとからかわれるのが嫌だ。

「どうかしたかな?」

 何となく蒔田を気にして集中しきれないでいる理子の様子に気づいたのか、数学の石坂が問うてきた。
 数学の問題集でわからない所を訊きにきている時だった。

「あ、いえ、何でも無いです」

「蒔田先生の事が気になる?」

 石坂の言葉にドキっとした。
 石坂に気づかれる程、蒔田を見ていたのだろうか。

「いえ…」

 思いもよらない石坂の言葉に、理子は何と答えたらいいのかわからなくて、取りあえず否定した。

「蒔田先生は、男が見てもイイ男だからねぇ。女の子が憧れるのも無理ないねぇ」

 石坂はおっとりとした語調だ。

「石坂先生だって、イイ男だと思いますけど」

「そんな、お世辞を言わなくてもいいよ。まぁ、嬉しいけどね」

「お世辞じゃないです。先生は背も高いし、スタイルもいいし、顔だって整ってるし、落ち着いていて素敵だと思いますけど.....」

 本当の事だ。大人の男性に憧れる年ごろだからか、蒔田ほどではないが、石坂も人気のある方だ。
 あまりにも蒔田に人気が集中し過ぎている為、本人には伝わっていないのかもしれない。

「こんなオジサンなのにかい?」

「オジサンって、先生まだ四十くらいでしょ?ちょうどいい年ごろじゃないですか?渋みが出てきて」

「そうは言うが、親子ほどの年の差だよ」

 と石坂は笑った。
 言われてみれば確かにそうだ。だが石坂はどこかスマートな感じで、オジサン臭さを感じさせない。
 紳士的な雰囲気を漂わせている。

「あの、先生と奥さんって幾つ違うんですか?」

「うーん.....、確か、九つだったかな」

 結構、離れている。理子と蒔田より三つ多い。
 それ程離れていても恋愛の対象になるのか。
 若いうちのこの差は結構大きいと思う。

「それで、ご結婚されてどのくらいに.....」

「ちょうど、十一年かな。彼女が二十歳の時だったから」

 二十歳で結婚かぁ。自分は十八で結婚する事になるんだな。

「いやに気にするね」

「えっ?いえ、単に興味が湧いただけです。私も一応、女の子だし」

 理子は笑った。

「前も、僕と彼女の事を訊いたよね。教師と女生徒が結婚した事にひどく興味があるようだった」

「それは、私に限らず、年ごろの女子なら多くが興味を持つと思います」

「そういうものかい?」

「そういうものです」

「ふーん」

 石坂は感心したように頷いた。
 
「先生、変な事を聞くようで恐縮なんですけど.....」

「なんだい?」

「ずっと教職についていて、次々と可愛い女生徒が入学しては卒業していくわけじゃないですか」

「そうだね。可愛くない子もいるけれども」
 
「沢山の女の子達と出会う中で、心を動かされる事とか無いんですか?相手は先生から見たら子供かもしれませんけど.....」

 石坂は理子の顔を見た。何か逡巡しているように窺える。

「こんな事を生徒の君に言っていいものかわからないが、まぁ、僕も一応男だから」
 
「それって、肯定と受け取っていいんですか」
 
「好きにとってくれて構わないけど、誰にも言わないでくれよ。君と僕との秘密だからね」

 理子は、ドキリとした。石坂の表情に、何かいつもとは違うものを感じたからだ。
 気づくと、石坂は夏目漱石の写真のように、机に頬杖をついて理子の事を見ていた。
 その視線に男を感じるのは理子の気のせいなのだろうか。

「君が東大を目指すようになったのは、やっぱり蒔田先生のせいなのかな」

「えっ?」

 突然の指摘に理子の胸がドキドキしだした。

「君が蒔田先生と話したりしている所を見た事はないけど、なんだかわざと避けているように感じるんだ。それって、気にしているからなんじゃないのかな?」

 妙に鋭いように思えるが、何故、こんな事を言い出すのだろう、と理子は疑問に思った。

「確かに、敢えて接触は避けてます。だって、あまりにも人気者だから畏れ多くて。変に接触したら、周囲が怖いんですよ」

「何故、怖いの?だってファンならみんな同じじゃない。みんなと同じように接する方が自然じゃないのかな」

「それは.....そうですね.....。私にはそうする勇気が無いだけなのかも」

 どこまでも平静を装う。悟られたら大変だ。

「じゃぁやっぱり、蒔田先生に気が有るんだね」

「憧れてるだけです。カッコイイ人ですし。少し離れた所から眺めている方がいいじゃないですか」

「ふーん。でも君は、眺めてもいないって感じするけどねぇ。何だかよくわからないけど、気にしているようで、気にしていないように装っていると言うか.....。気づかれないように見ていると言うか」

「どうしてそんな事がわかるんですか?」

 素直な疑問だ。どうしてわかるのか。
 蒔田ですら、理子が見て無いようで見ている事に気づかないのに。
 理子の視野角度は平均よりも広いから、こうして石坂と向き合っていても、少し離れた所にいる蒔田の様子がわかる。
 わかるから気になるし、気が散るのだった。
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