第47話
文字数 5,488文字
再び春がやってきた。
三学期も間もなく終了する。長いと思っていたが、結局は短かった。実質二カ月半しかない三学期は、始まったと思ったら勉強に追われているうちに終わろうとしている。
蒔田とは、お正月以来二人で会っていない。
前回は会わない期間は約二カ月だったが、今回は二カ月を超えた。毎日学校で顔を合わせて
いるからいいものの、そうでなかったら流石に平気ではいられないだろう。
蒔田からは、恨みのメールは来ない。時々応援メールが来るが、そこに愛の言葉は無かった。
理子はそれがなんとなく味気ない。
自分の方が素っ気なかった筈なのに、相手の方から素っ気なくされると、寂しく思う。
蒔田が理子を“冷たい”と非難した気持ちが、今さらながらにわかる気がした。
ヴァレンタインの時は、どうするか迷った。
ゆきは手作りのチョコを渡すとはりきっていていた。
去年は確か、市販のチョコを須田に学校の帰りに渡したのだった。
だが相手が蒔田では、それは無理だろう。
蒔田の方は、校内の女子達から、それはたくさんのチョコレートを貰っていた。
普段は冷たく受け取らないのに、ヴァレンタインくらいは受け取ってくれるだろうと、誰もが思ったようだ。
この時とばかりに渡す女子が多かったから、それに乗っかって理子も渡そうかと思いもしたのだが、結局、渡さなかった。
理子はその様子を遠くで見ているだけだった。
蒔田は珍しく受け取っていた。
一体幾つ貰ったのだろう?絶対に持ち帰るのに紙袋が必要だったろうと思われた。
ヴァレンタインが終わって暫くした頃、「最近、蒔田先生が優しくなった」と女子達が言うようになった。
今までは全くの無愛想で、話しかけても用件以外の受け答えはせずに冷たかったのが、最近は、気軽に話すようになってきたと言うのだ。
どういう心境の変化だろう。
興味は有ったが、理子は取りあえず放っておくことにした。構っていられない。勉強の妨げになっては困ると思ったからだ。
蒔田の事は信じている。だから、自分は勉強に打ち込むしかない。
蒔田からは、具体的な勉強の指示メールが来たりする。
この時期までに、これだけは絶対にやっておくように、覚えておくように、そういう指示はとても助かった。
理子は、それに応えるしかないと思った。
三月の期末テストの後に模擬試験があり、理子は何とかその模擬で偏差値を上げたかった。もう少し上げておかないと、目処 が立たない。
ひたすら勉強した。そのせいあって、期末も模擬も手ごたえは十分で、結果も上々だった。
終業式も近くなったある日、帰りのホームルーム終了時に、一緒に職員室まで来るよう蒔田に言われて、びっくりした。
もうクラス委員ではない。一体、どういう事だろう。
それに、蒔田と一緒に行くなら、周囲の視線が痛そうだ。
カバンを持って教室を出ると、蒔田が廊下で待っていた。
思わず蒔田の顔を見ると目が合った。蒔田はフッと笑うと体の向きを変え歩き出す。
理子はその後に続いた。とても並んでは歩けない。
こうして歩いていると、遠い存在だった頃を思い出す。
二人の仲は、本当は夢の中の事なのではないか、そんな風に思えてくる。
下校する生徒達の人混みの中を進んでいく。
通り過ぎる女生徒達が「さようならー」と蒔田に声をかけてくる。
そういう挨拶での声かけには、蒔田は「おお」と手を挙げて応えていた。
だが、キャピキャピしていて騒ぐ女子達に対しては、以前と変わらず無愛想な態度だ。
蒔田が嫌うタイプは、同性が嫌うタイプの女子だ。
異性に対して媚を売る、可愛い態度を全面に出す、そういうタイプには徹底して冷たい。
最近優しくなったと噂されているが、矢張りそういうタイプに対する態度は変わっていないようだ。
蒔田は職員室の手前にある、校長室の前で立ち止まった。
理子は不思議に思って蒔田の方を見た。
「校長先生から話しがある。お前の進学の事で」
「えっ?」
蒔田はそれ以上は言わず、校長室のドアをノックした。
中から「どうぞ」と言う声が聞こえた。
蒔田に続いて理子は校長室へ入った。緊張する。
中へ入ると、校長が机の前にある応接ソファーを二人に勧めた。
蒔田が先に座り、理子はその隣に少し距離を置いて座った。
「吉住さん、でしたね」
校長は優しく言った。
校長は頭が少々寂しいが、温和で優しそうな風貌通りに優しい人で、生徒達からは人気があった。
「はい」
理子は緊張して答えた。とにかく事情がよく呑み込めない。
「蒔田先生から聞きました。東大を受験するそうですね」
「は、はい」
理子は驚いて蒔田を見たが、蒔田は理子を見なかった。
「最初に話しを聞いた時には私も驚きましたが、最近のあなたの成績を知り、納得しました」
「あの.....」
一体、何が言いたいのだろう。
「今後、朝霧高校は、学校をあげてあなたの東大受験をバックアップする事に決めました」
「ええっ?」
理子は驚いた。学校をあげてバックアップ?
驚く理子に校長が言った。
「学校をあげてバックアップすると言っても、あなたが東大受験をする事は直前まで周囲には知られないようにします。余計なプレッシャーやストレスをかけない為です。周囲に騒がれる事で
勉強に影響が出てはまずいですからね。ですが、あなたはいつでも遠慮なく、全教科の先生方に教えを請うことができます。あなたが聞きに来たら、どんな内容でもしっかり指導するよう通達してあります。それから、弱い部分の指導には特に力を入れる予定です。年間を通じての勉強のスケジュールや進捗度なども学校でしっかりチェックしていくつもりです。その中心者になるのが蒔田先生です。ですから、蒔田先生には何でも相談して下さい」
朝霧高校では、これまで東大を受験した人間はいない。
国立大学は毎年三割が受験して、そのうちの七割が合格しているが、どこも中堅どころだった。
学校側としては、もっと増やしたいところだが、如何せん生徒の意識がのんびりしている。
そこへ東大出身の新任教師がやってきて、東大受験希望者が現れたので、学校としてもそこに期待が生まれた。
「あの.....」
戸惑いが先に立つ。
バックアップは嬉しいと思いつつ、荷の重さがのしかかって来る感じも否めない。
「あなたは心配しなくていいんですよ。学校側があなたの受験を応援するだけなんですから。安心して、勉強に励んでください。頑張ってください」
校長はそう言うと立ちあがって手を差し出した。
理子はちょっと躊躇ったが手を出して握手した。
校長室を出た後、理子は蒔田を見た。
「先生.....」
「驚いたか?事前に話しておいた方が良かったかな」
「私まだよく事情が呑み込めないんですけど」
「今回の模擬、結果は上々だ。偏差値も六十三に上がっていた」
「えっ?」
生徒達にはまだ結果は伝わっていなかったが、教師の方では既に把握していた。
「これからは、受験科目を集中的に勉強できるからな。俺一人じゃなく、学校側にも協力してもらう必要があると思って、俺から校長に話したんだ。それに、来年度もお前の担任になりたかったし」
理子は更に驚いた。
「この事については、内緒だぞ。お前のことだから言われなくても誰にも話さないだろうけど」
理子は黙って蒔田を見つめた。
こうして二人で向き合うのはお正月以来だ。
「どうした?」
蒔田がそんな理子に優しく微笑んだ。胸がキュンとする。
「いえ…」
目を逸らした。学校だという事を忘れそうになる。
「もう、帰っていいぞ」
「はい。さようなら」
理子はそう言って頭を下げると踵を返した。
これまで我慢してきたものが、一挙に溢れだしそうになるところだった。
やっぱり、あの人を目の前にすると、自分を保つのが大変だ。
理子は帰り道、蒔田の言葉を反芻した。
来年度も先生が担任?
嬉しいことだった。担任だったら、顔だけでも必ず毎日見れる。
もう担任にはならないだろうと思っていたから、喜びもひとしおだった。
夜、蒔田からメールが来た。
“春休み、一日だけでいいから、
俺の為に空けてくれ”
俺の為に.....。
その言葉が理子の胸を熱くした。
終業式の日、理子はゆきにバースデイプレゼントを渡した。
ゆきの誕生日は三月二十六日だ。
去年は美輝と二人でゆきの家までお祝いに行ったのだが、今年は小泉と祝うようなので遠慮することになった。寂しい気がするが仕方が無い。
美輝と二人でお金を出し合って、可愛いバッグを買った。
ゆきはとても喜んでくれた。
彼女はまるで森の妖精のようだ。儚げで守ってあげたくなる。
今のところ、小泉とはうまくいっているようだが、いつも夢見るような瞳をしているのが少し気になるのだった。
理子は三十日に蒔田の家へ行った。
いつものように、栗山高校の前で待ち合わせた。
時間より少し早く、NSXがやってきた。
この車は目立つので、さっさと乗ろうと理子がドアに手を掛けたら、降りかけた蒔田に怒られた。
「こらっ!そこで待ってろ」
ビクッとして手を引いた。何故そんな事で怒られなければならない。
蒔田が急ぎ足でやってきて、助手席のドアを開けた。
理子はしぶしぶと乗る。ドアを閉めて蒔田が乗り込んできた。
「先生、私一人で乗れます」
「そんな事はわかってるさ。小さい子じゃないんだから。俺がそうしたいだけだ。悪いがこれだけは譲れない」
理子は吐息をついた。嬉しくはあるのだが、恥ずかしい。
今時、こういう男性が世の中にいるのだろうか?こういう光景を見た事が無い。
「いいか、お前が嫌だと言っても、これだけは譲らないからな」
念押ししてきた。
何故そこまでこだわるのかわからないが、仕方が無い。
「わかりました。別に嫌と言うわけではないです。ちょっと恥ずかしいだけで」
「そうか。それならいいが」
蒔田は安心したように言った。
「久しぶりだな」
「はい.....」
そう言ったまま、二人は黙った。
言葉が無くても互いの思いが交差するのを感じる。暖かい空気が漂っている。
外はあちこちで桜が咲いていて、とても綺麗だ。空は薄い青空で、僅かに霞がかっていた。
「今日はうちで花見をするぞ」
「えっ?花見?」
「うちには立派な桜があるんだ。両親が姉貴と俺が生まれた時に記念樹として桜を一本ずつ植えた。桜は育つのが早いから、俺達が小学校に入る頃には、もう立派になってな。今、ちょうど見ごろだ」
「そうなんですか。それは凄い楽しみです」
「勿論、俺達二人だけでだ」
と蒔田が笑う。その言葉に理子はドキッとした。
「え?ご家族は?」
「旅行に出かけた」
「旅行に?」
「気を利かせてくれたんだ。手作り弁当を作って置いて行ってくれた」
「.....」
なんと言っていいかわからない。
とても嬉しいが、そこまでしてもらっていいのだろうか。
「いつか、お前が作ってくれたら嬉しいな」
「えー?私がですかぁ?」
わざと嫌そうに言った。
「その手には乗らない」
「ちっ、読まれたか.....」
「ひねくれてるからな」
本当は、胸が熱くなったのだ。
私が先生にお弁当を作ってあげる。
そう考えただけで胸が熱くなる。
だから、つい、反抗的な事を言ってしまった。
しかも、『作ってくれたら嬉しいな』と来た。
強気な蒔田にしては、妙に遠慮気味だ。そこが理子の心を震わせたのだった。
「あの、先生?」
「ん?」
「新年度のクラスの事なんですけど」
「うん。どうかしたか?」
「この間おっしゃってた事です。また私の担任になるって」
「ああ。嬉しいだろう」
理子は赤くなった。
「あの、嬉しいですけど、そういうのって先生達の希望で決めるものなんですか?」
「いや。そういうわけじゃない。そういうわけじゃないから、お前の担任になる為に手を打った」
「私の為に?」
「俺の為さ。これから一年、いよいよ本番だろう。お前の担任で無くなったら、お前に殆ど会えなくなるじゃないか。俺はそれに耐える自信が無いからな。お前と付き合うようになって、俺はつくづく意志の弱い男だと自覚した。毎日お前の顔を見れなくなったら、多分毎日メール攻めだろうな」
そういう事を笑って言うのだから、どこまで本気にしたら良いのかわからない。
「お前にとっても、精神衛生上、良くないだろう?俺の事が気になって勉強に手が付かなくなったら困るものな」
返す言葉が無かった。
蒔田と付き合うようになってから、色んな彼を見るようになったと思う。
学校での蒔田はクールで大人だ。
だが、二人でいる時の蒔田は案外子供っぽい。感情も豊かで時に我儘だったりする。
理子はそんな蒔田に戸惑いを覚えたり親近感を抱いたり、嬉しく思ったりした。
元々、最初に二人で話した時から、変わった人だとは思っていた。
教室で皆に見せる表情とは違う蒔田に接するたびに、そのギャップが面白かったし、惹かれた。
クールで知的でカッコイイ大人の表情も痺れる程に好きだが、変人な所も好きだ。
ただカッコイイだけの人だったなら、こんなに惹かれなかっただろう。
「どうした?急に黙って」
「いえ、先生の言葉に返す言葉が見つからないだけです」
「もしかして、呆れてるとか?」
「呆れてると言ったら、いつも呆れてますよ」
「そうか。俺はいつも呆れられてるのか」
やっぱり、返す言葉が見つからない。
そうこうしているうちに、蒔田家に到着した。
案内されてリビングへ入ったら、二本の桜が見事に咲いているのが見えた。
「うわぁー、凄いっ!綺麗―」
理子は思わず窓へ駆け寄った。
三学期も間もなく終了する。長いと思っていたが、結局は短かった。実質二カ月半しかない三学期は、始まったと思ったら勉強に追われているうちに終わろうとしている。
蒔田とは、お正月以来二人で会っていない。
前回は会わない期間は約二カ月だったが、今回は二カ月を超えた。毎日学校で顔を合わせて
いるからいいものの、そうでなかったら流石に平気ではいられないだろう。
蒔田からは、恨みのメールは来ない。時々応援メールが来るが、そこに愛の言葉は無かった。
理子はそれがなんとなく味気ない。
自分の方が素っ気なかった筈なのに、相手の方から素っ気なくされると、寂しく思う。
蒔田が理子を“冷たい”と非難した気持ちが、今さらながらにわかる気がした。
ヴァレンタインの時は、どうするか迷った。
ゆきは手作りのチョコを渡すとはりきっていていた。
去年は確か、市販のチョコを須田に学校の帰りに渡したのだった。
だが相手が蒔田では、それは無理だろう。
蒔田の方は、校内の女子達から、それはたくさんのチョコレートを貰っていた。
普段は冷たく受け取らないのに、ヴァレンタインくらいは受け取ってくれるだろうと、誰もが思ったようだ。
この時とばかりに渡す女子が多かったから、それに乗っかって理子も渡そうかと思いもしたのだが、結局、渡さなかった。
理子はその様子を遠くで見ているだけだった。
蒔田は珍しく受け取っていた。
一体幾つ貰ったのだろう?絶対に持ち帰るのに紙袋が必要だったろうと思われた。
ヴァレンタインが終わって暫くした頃、「最近、蒔田先生が優しくなった」と女子達が言うようになった。
今までは全くの無愛想で、話しかけても用件以外の受け答えはせずに冷たかったのが、最近は、気軽に話すようになってきたと言うのだ。
どういう心境の変化だろう。
興味は有ったが、理子は取りあえず放っておくことにした。構っていられない。勉強の妨げになっては困ると思ったからだ。
蒔田の事は信じている。だから、自分は勉強に打ち込むしかない。
蒔田からは、具体的な勉強の指示メールが来たりする。
この時期までに、これだけは絶対にやっておくように、覚えておくように、そういう指示はとても助かった。
理子は、それに応えるしかないと思った。
三月の期末テストの後に模擬試験があり、理子は何とかその模擬で偏差値を上げたかった。もう少し上げておかないと、
ひたすら勉強した。そのせいあって、期末も模擬も手ごたえは十分で、結果も上々だった。
終業式も近くなったある日、帰りのホームルーム終了時に、一緒に職員室まで来るよう蒔田に言われて、びっくりした。
もうクラス委員ではない。一体、どういう事だろう。
それに、蒔田と一緒に行くなら、周囲の視線が痛そうだ。
カバンを持って教室を出ると、蒔田が廊下で待っていた。
思わず蒔田の顔を見ると目が合った。蒔田はフッと笑うと体の向きを変え歩き出す。
理子はその後に続いた。とても並んでは歩けない。
こうして歩いていると、遠い存在だった頃を思い出す。
二人の仲は、本当は夢の中の事なのではないか、そんな風に思えてくる。
下校する生徒達の人混みの中を進んでいく。
通り過ぎる女生徒達が「さようならー」と蒔田に声をかけてくる。
そういう挨拶での声かけには、蒔田は「おお」と手を挙げて応えていた。
だが、キャピキャピしていて騒ぐ女子達に対しては、以前と変わらず無愛想な態度だ。
蒔田が嫌うタイプは、同性が嫌うタイプの女子だ。
異性に対して媚を売る、可愛い態度を全面に出す、そういうタイプには徹底して冷たい。
最近優しくなったと噂されているが、矢張りそういうタイプに対する態度は変わっていないようだ。
蒔田は職員室の手前にある、校長室の前で立ち止まった。
理子は不思議に思って蒔田の方を見た。
「校長先生から話しがある。お前の進学の事で」
「えっ?」
蒔田はそれ以上は言わず、校長室のドアをノックした。
中から「どうぞ」と言う声が聞こえた。
蒔田に続いて理子は校長室へ入った。緊張する。
中へ入ると、校長が机の前にある応接ソファーを二人に勧めた。
蒔田が先に座り、理子はその隣に少し距離を置いて座った。
「吉住さん、でしたね」
校長は優しく言った。
校長は頭が少々寂しいが、温和で優しそうな風貌通りに優しい人で、生徒達からは人気があった。
「はい」
理子は緊張して答えた。とにかく事情がよく呑み込めない。
「蒔田先生から聞きました。東大を受験するそうですね」
「は、はい」
理子は驚いて蒔田を見たが、蒔田は理子を見なかった。
「最初に話しを聞いた時には私も驚きましたが、最近のあなたの成績を知り、納得しました」
「あの.....」
一体、何が言いたいのだろう。
「今後、朝霧高校は、学校をあげてあなたの東大受験をバックアップする事に決めました」
「ええっ?」
理子は驚いた。学校をあげてバックアップ?
驚く理子に校長が言った。
「学校をあげてバックアップすると言っても、あなたが東大受験をする事は直前まで周囲には知られないようにします。余計なプレッシャーやストレスをかけない為です。周囲に騒がれる事で
勉強に影響が出てはまずいですからね。ですが、あなたはいつでも遠慮なく、全教科の先生方に教えを請うことができます。あなたが聞きに来たら、どんな内容でもしっかり指導するよう通達してあります。それから、弱い部分の指導には特に力を入れる予定です。年間を通じての勉強のスケジュールや進捗度なども学校でしっかりチェックしていくつもりです。その中心者になるのが蒔田先生です。ですから、蒔田先生には何でも相談して下さい」
朝霧高校では、これまで東大を受験した人間はいない。
国立大学は毎年三割が受験して、そのうちの七割が合格しているが、どこも中堅どころだった。
学校側としては、もっと増やしたいところだが、如何せん生徒の意識がのんびりしている。
そこへ東大出身の新任教師がやってきて、東大受験希望者が現れたので、学校としてもそこに期待が生まれた。
「あの.....」
戸惑いが先に立つ。
バックアップは嬉しいと思いつつ、荷の重さがのしかかって来る感じも否めない。
「あなたは心配しなくていいんですよ。学校側があなたの受験を応援するだけなんですから。安心して、勉強に励んでください。頑張ってください」
校長はそう言うと立ちあがって手を差し出した。
理子はちょっと躊躇ったが手を出して握手した。
校長室を出た後、理子は蒔田を見た。
「先生.....」
「驚いたか?事前に話しておいた方が良かったかな」
「私まだよく事情が呑み込めないんですけど」
「今回の模擬、結果は上々だ。偏差値も六十三に上がっていた」
「えっ?」
生徒達にはまだ結果は伝わっていなかったが、教師の方では既に把握していた。
「これからは、受験科目を集中的に勉強できるからな。俺一人じゃなく、学校側にも協力してもらう必要があると思って、俺から校長に話したんだ。それに、来年度もお前の担任になりたかったし」
理子は更に驚いた。
「この事については、内緒だぞ。お前のことだから言われなくても誰にも話さないだろうけど」
理子は黙って蒔田を見つめた。
こうして二人で向き合うのはお正月以来だ。
「どうした?」
蒔田がそんな理子に優しく微笑んだ。胸がキュンとする。
「いえ…」
目を逸らした。学校だという事を忘れそうになる。
「もう、帰っていいぞ」
「はい。さようなら」
理子はそう言って頭を下げると踵を返した。
これまで我慢してきたものが、一挙に溢れだしそうになるところだった。
やっぱり、あの人を目の前にすると、自分を保つのが大変だ。
理子は帰り道、蒔田の言葉を反芻した。
来年度も先生が担任?
嬉しいことだった。担任だったら、顔だけでも必ず毎日見れる。
もう担任にはならないだろうと思っていたから、喜びもひとしおだった。
夜、蒔田からメールが来た。
“春休み、一日だけでいいから、
俺の為に空けてくれ”
俺の為に.....。
その言葉が理子の胸を熱くした。
終業式の日、理子はゆきにバースデイプレゼントを渡した。
ゆきの誕生日は三月二十六日だ。
去年は美輝と二人でゆきの家までお祝いに行ったのだが、今年は小泉と祝うようなので遠慮することになった。寂しい気がするが仕方が無い。
美輝と二人でお金を出し合って、可愛いバッグを買った。
ゆきはとても喜んでくれた。
彼女はまるで森の妖精のようだ。儚げで守ってあげたくなる。
今のところ、小泉とはうまくいっているようだが、いつも夢見るような瞳をしているのが少し気になるのだった。
理子は三十日に蒔田の家へ行った。
いつものように、栗山高校の前で待ち合わせた。
時間より少し早く、NSXがやってきた。
この車は目立つので、さっさと乗ろうと理子がドアに手を掛けたら、降りかけた蒔田に怒られた。
「こらっ!そこで待ってろ」
ビクッとして手を引いた。何故そんな事で怒られなければならない。
蒔田が急ぎ足でやってきて、助手席のドアを開けた。
理子はしぶしぶと乗る。ドアを閉めて蒔田が乗り込んできた。
「先生、私一人で乗れます」
「そんな事はわかってるさ。小さい子じゃないんだから。俺がそうしたいだけだ。悪いがこれだけは譲れない」
理子は吐息をついた。嬉しくはあるのだが、恥ずかしい。
今時、こういう男性が世の中にいるのだろうか?こういう光景を見た事が無い。
「いいか、お前が嫌だと言っても、これだけは譲らないからな」
念押ししてきた。
何故そこまでこだわるのかわからないが、仕方が無い。
「わかりました。別に嫌と言うわけではないです。ちょっと恥ずかしいだけで」
「そうか。それならいいが」
蒔田は安心したように言った。
「久しぶりだな」
「はい.....」
そう言ったまま、二人は黙った。
言葉が無くても互いの思いが交差するのを感じる。暖かい空気が漂っている。
外はあちこちで桜が咲いていて、とても綺麗だ。空は薄い青空で、僅かに霞がかっていた。
「今日はうちで花見をするぞ」
「えっ?花見?」
「うちには立派な桜があるんだ。両親が姉貴と俺が生まれた時に記念樹として桜を一本ずつ植えた。桜は育つのが早いから、俺達が小学校に入る頃には、もう立派になってな。今、ちょうど見ごろだ」
「そうなんですか。それは凄い楽しみです」
「勿論、俺達二人だけでだ」
と蒔田が笑う。その言葉に理子はドキッとした。
「え?ご家族は?」
「旅行に出かけた」
「旅行に?」
「気を利かせてくれたんだ。手作り弁当を作って置いて行ってくれた」
「.....」
なんと言っていいかわからない。
とても嬉しいが、そこまでしてもらっていいのだろうか。
「いつか、お前が作ってくれたら嬉しいな」
「えー?私がですかぁ?」
わざと嫌そうに言った。
「その手には乗らない」
「ちっ、読まれたか.....」
「ひねくれてるからな」
本当は、胸が熱くなったのだ。
私が先生にお弁当を作ってあげる。
そう考えただけで胸が熱くなる。
だから、つい、反抗的な事を言ってしまった。
しかも、『作ってくれたら嬉しいな』と来た。
強気な蒔田にしては、妙に遠慮気味だ。そこが理子の心を震わせたのだった。
「あの、先生?」
「ん?」
「新年度のクラスの事なんですけど」
「うん。どうかしたか?」
「この間おっしゃってた事です。また私の担任になるって」
「ああ。嬉しいだろう」
理子は赤くなった。
「あの、嬉しいですけど、そういうのって先生達の希望で決めるものなんですか?」
「いや。そういうわけじゃない。そういうわけじゃないから、お前の担任になる為に手を打った」
「私の為に?」
「俺の為さ。これから一年、いよいよ本番だろう。お前の担任で無くなったら、お前に殆ど会えなくなるじゃないか。俺はそれに耐える自信が無いからな。お前と付き合うようになって、俺はつくづく意志の弱い男だと自覚した。毎日お前の顔を見れなくなったら、多分毎日メール攻めだろうな」
そういう事を笑って言うのだから、どこまで本気にしたら良いのかわからない。
「お前にとっても、精神衛生上、良くないだろう?俺の事が気になって勉強に手が付かなくなったら困るものな」
返す言葉が無かった。
蒔田と付き合うようになってから、色んな彼を見るようになったと思う。
学校での蒔田はクールで大人だ。
だが、二人でいる時の蒔田は案外子供っぽい。感情も豊かで時に我儘だったりする。
理子はそんな蒔田に戸惑いを覚えたり親近感を抱いたり、嬉しく思ったりした。
元々、最初に二人で話した時から、変わった人だとは思っていた。
教室で皆に見せる表情とは違う蒔田に接するたびに、そのギャップが面白かったし、惹かれた。
クールで知的でカッコイイ大人の表情も痺れる程に好きだが、変人な所も好きだ。
ただカッコイイだけの人だったなら、こんなに惹かれなかっただろう。
「どうした?急に黙って」
「いえ、先生の言葉に返す言葉が見つからないだけです」
「もしかして、呆れてるとか?」
「呆れてると言ったら、いつも呆れてますよ」
「そうか。俺はいつも呆れられてるのか」
やっぱり、返す言葉が見つからない。
そうこうしているうちに、蒔田家に到着した。
案内されてリビングへ入ったら、二本の桜が見事に咲いているのが見えた。
「うわぁー、凄いっ!綺麗―」
理子は思わず窓へ駆け寄った。