第70話

文字数 3,094文字

 あれから特に問題もなく日々が過ぎて行ったが、茂木がよく休み時間に理子の所へ来てはお喋りをしていくようになった。
 そのせいか岩崎と茂木は親しくなって、時々、本を読む理子のそばで、二人で喋っていたりした。

 渕田の方は、あれから一切関わって来なくなった。
 怪我はまだ完全に治っていないようだったが、部活の練習には出られるようになったみたいで、熱心に参加している。三年になっても続けている事には感心する。
 時々すれ違う事があるが、理子を完全に無視していた。

 補習クラスは、私立大希望の生徒の半分近くが脱落した。そのハードさに付いていけなくなったのだ。
 理子も去年から勉強に本腰を入れてきて思うのだが、最終的にはやりきると言う強い心だと思った。

 どうしたって、わからなくて(つまず)く所、幾ら時間をかけても思うように進まない所は出てくる。それをどこまで頑張れるかが勝負の分かれ目だと感じている。
 わからなかったら、とことん聞く。要はやりきれるかどうかだ。

 これから受験が近くなればなる程、精神的に追い込まれてゆくだろう。既に、その戦いは始まっている。
 まだ半年あると思う気持ちと、もう半年しかないと思う気持ち。
 その思いのせめぎ合いである。

 期末が終わってから、蒔田から毎日メールが来る。
 励ましや、勉強の細かい指示だ。そのメールが心強い。
 自分ばかりが、こんなに応援してもらっていて良いのだろうか。先生を独占している気分だ。

 だが蒔田は補習クラスの時にも、いつも同じように皆を励ましていた。
 迷わずに、このまま自信を持って勉強できるよう、いつも言葉がけをしている。
 東大出の先生から自信たっぷりに指導されるのだから、生徒達にも安心感が生まれる。
 この先生の言う通りにやれば間違いは無い、そう思わせてくれるのだった。

 蒔田とは期末テストの前の週に、蒔田の家で会った。

「先生がボクシングをされてるなんて、初めて知りました」

 細身の蒔田だが、裸になるとその上半身は逞しい。
 薄そうに見える胸板も意外と厚いし、肩や腕にも筋肉が付いている。肩幅も広い。
 初めてその姿を見た時には、本当に意外に思ったものだったが、その秘密がボクシングにあったとは、これもまた意外だった。

「歴史オタクだもんな。見た目も強そうには見えないし」

 そう言って笑った。

「あいつの様子はどうだ?俺から見た限りでは大人しくしているようだが」

「無視されてます」

「そうか。それは良かった。相当、(こた)えてくれたようだな」

「だけど先生、随分、酷く痛めつけたんですね。腕を折るまでしなくても良かったんじゃ?」

「何を言う。当然の報いだ。あいつはテニスに打ち込んでるからな。ああしてやるのが、一番堪えるだろうと思ったんだ。ただ痛めつけるだけじゃ、気が治まらない。本当なら、学校から追い出してやりたいくらいさ。ただ、目の届かない所へやっても、それはそれで心配だしな。もし、お前がレイプされてたら、殺してたかもしれない」

「そんな.....」

 理子は蒔田と付き合うようになってから、彼が持つ激しさに驚いてきたが、これほどまでとは改めて驚愕する。

「こんな俺を怖いと思うか?」

 そう言う蒔田は厳しい顔をしていた。まだ心の中で憤っているのが感じられる。

 理子は頭を振った。

「やられたら、やり返す。それが俺だ」

「なんか、うちの母と似てます」

「お前のお母さんか。前にも似てるって言ってたな」

「子供の時、苛めに遭うといつも言われてました。やられたらやり返せって。しかも何倍にもして。でも、私には、それが出来ないから。できるなら苛められることもなかったでしょ?」

「何倍にもしてやり返すって言う点では似ていると言うより同じだな。ただ俺なら、やり返せないお前の代わりにやり返してやる。これから先だって、お前に何かあったらただじゃおかない。お前の事は俺が命懸けで守るからな」

 蒔田はそう言って理子を抱きしめた。蒔田の言葉に胸が熱くなる。

「夏休みに入ったら、できれば七月中に理子のお父さんに会いたいんだが、段取りしてもらえないか?」

「父に、何て話したらいいんでしょう?先生が会いたいと言っているって言うのも変ですよね。付き合ってる人が会いたがっているって言うのが妥当なのかな.....」

「そうだなぁ.....」

 二人は考える。きっと、どんな相手か聞いてくるだろう。その時に担任だと話したら、どう反応するだろう。
 怒って会う事を拒否される可能性もある。

「その辺は、理子に任せるよ」

「ええーっ?」

「お父さんの反応を見ながら話すしかないだろう?会ってからのお楽しみ~で通せればいいけど、それじゃぁ通らなければ話すしかない。ただ、どこまで話すかは、やっぱり様子を見ながらって事になるから、理子に任せるしかないじゃないか。もしそこで失敗したら、その時は俺が後始末するから心配するな」

「後始末って?」

「それは俺が考える。何としてもお父さんと会って、俺の誠意を伝えるよ」

「わかりました。じゃぁ、私から話して、いつ会えるか相談しますね」

 少し気が重かったが、母に話すよりは父の方が断然話しやすい。

「その前に、三者面談があるよなぁ~。今度はお母さん、何を言ってくるかな」

「受験の話しなんですから、大丈夫だと思いますよ。最近は機嫌悪くないし」

 理子の母は過干渉なので、食事の時などに、その日にあった事とかをしきりに訊いてくる。理子は当たり障りの無い事を話す。
 
 うっかりして立ち入った事を話すと後が大変だ。
 子供の事を気にして色々と訊いてくるのは、親としては当然の事だとは思う。
 だが困るのは、あれこれと指図する事だ。

 ああしろ、こうしろ、お母さんならこうすると、いちいち煩い。
 アドバイスならまだいい。
 アドバイスと称して、その通りにしないと怒るから始末に負えない。

「理子のお母さんの前だと、何だか緊張するなぁ」

「そう言えば、去年の三者面談の時に、先生、緊張されてましたよね」

 理子は思い出して、笑顔になった。

「わかったか?もう、結婚しようって言ってた時だからな。将来のお姑さんだろ?緊張するじゃないか」

 蒔田は照れくさそうな笑みを浮かべた。

「あの日の帰り、うちのお母さん、先生の事を『イケメンの素敵な先生ねぇ』って言ってたんですよ」

「おっ、本当か?」

 蒔田が嬉しそうな顔になる。

「うちの母、結構、面食いなんですよ。四、五年後だったら、結婚相手として紹介したら大喜びするんじゃないのかなぁ」

「四、五年後か」

 ガッカリした様子が面白い。いちいち反応する様を可愛らしいと感じる。

「理子のお母さん、美人だよな」

「そうですか?若い時はそれなりに綺麗だったみたいですけど」

「今だって美人だよ。ふくよかだけど品があって優しそうで」

「優しそうに見えるからって、優しいとは限りません」

「そうは言うが、決して冷たいわけじゃないだろう。熱過ぎるだけだと俺は思うが」

 確かにそれはそうかもしれない。本来は優しい人だと思う。
 情が深いから、いちいち干渉してくるのだ。どうでもいい相手に対しては、どこまでも冷たい人だ。

「理子はお母さんと雰囲気は似てるが、目鼻立ちはちょっと違うな」

「両親を知ってる人達からは、母に似てるって言われます。でも自分が思うには、どちらにも似て無いし、どちらにも似てるしって感じです。両方が混ざって別ものになったって自分では思うんですけど、雰囲気から母似って判断される事が多いんですよね」

「そうか。じゃぁ、お父さんに会ったら、その辺の事はもっとわかるかもな」

 蒔田は興味深々と言った様子で、目を輝かせていた。
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