第110話

文字数 5,992文字

 チャイムが鳴った。姉の紫だ。蒔田は理子を連れて、ロビーへと降りた。

「理子.....」

 紫は理子の名を呼ぶと、理子に駆け寄り抱きしめた。

「大変だったわね。折角東大に合格したと言うのに」

 紫は二人に同情した。
 理子が若すぎると言う点以外では、一体何の問題があると言うのか。確かに理子は若いが、相手に不足があろう筈が無い。
 若い理子を十分守ってやれる立派な男だと、紫は弟の事を思っている。
 どこに出しても恥ずかしくない男だ。そして何より、互いに深く愛し合っている。

「姉さん、昼飯まだだろう?俺達もまだなんだ。一緒に食べて、それから良かったら買い物にも付き合ってくれないか?」

「ごめんなさい。食事はオーケーだけど、買い物は無理だわ。今、確定申告の時期でしょう。大忙しなのよ。とても余裕が無いわ」

 税理士にとっては、目が回るほど忙しい時期だ。

 三人は、近くにある自然食材のレストランで食事をした。
 女性に人気の店である。

「俺、さっき思ったんだけど、月末に入籍するまで姉貴が理子と暮らしてくれないか?」

「ええぇ?私が?無理よ。今は忙しいって言ったでしょう。期末の時には、いつも帰りが遅いのは知ってるじゃないの。理子にも気を使わせちゃうじゃない」

 紫は、弟がどうしてそこまでこだわるのか理解できない。

「いいじゃないの。一緒に暮らせば。今まで我慢してきたんだから、もう十分でしょ?折角の二人の新居なのに、幾ら姉とは言え、自分より先に別の人間を住まわせるなんて、おかしいわよ」

 蒔田は理子の方を見た。理子は黙って野菜を食べていた。
 二人の話しには別段興味が無いと言った風情だ。自分の事なのに、どこ吹く風である。

「理子はどうなの?」

 紫は理子に振った。急に振られて理子は目を丸くした。

「私は、先生の判断に従います」

 理子は抑揚の無い声でそう言った。

「自分の希望は無いの?」

「だって、今回の事は私のせいですし。先生には先生の都合があったわけですから、私はとやかく言える立場じゃないので」

「何言ってるのよ。あなたのせいじゃないんだから、そんな風に思う事ないのよ。もう、マーがはっきりしないからじゃないの。連れて来てしまった以上、あなたに責任があるのよ。理子は未成年なんだし、あなたはこれから夫になるんでしょう?しっかりしてよ」

「お義姉さん、それはちょっと違います。先生が連れて来たんじゃなくて、私が出て来てしまったんです。だから先生には何の責任も無いんです」

 紫は呆れたような顔をした。

「ほら、マー。理子はこんな事言ってるわよ。いいの?」

「わかった。俺が間違ってた。今日から理子と一緒に暮らすよ」

 蒔田は姉と理子のやり取りを聞いていて、決断した。姉の言う事は尤もだ。理子は未成年だ。そして、もうじき自分の妻になる。
 家を捨てて出て来た恋人を、自分が受け止めてやらなくてどうする。
 理子の人生に全責任を持つのが自分の最大の務めだ。未成年の彼女を一人で住まわせるなんて、言語道断だ。

「先生、いいんですか?」

 理子が心配そうな顔をして訊いてきた。

「俺の判断に従うって言ったじゃないか」

「わかりました。私、家出少女になるのかと思うとワクワクしてたんですけどね」

「家出少女じゃないか。それに、入籍までは同棲になるんだぞ」

「何だか変な感じですね。でも、先生去年、プチ同棲したがってらしたから、念願が叶うことになるんじゃないですか?」

「えっ?何なの?そのプチ同棲って」

 紫の問いかけに、理子は去年のゴールデンウィークの事を話した。
 それを聞いて紫は大笑いした。

「やだぁ~、マーったら。子供みたいね。理子もあやすのに苦労するわね」

「はい」

 そう言って笑う理子を見て、蒔田は少し安堵した。
 早く家を出たがっていた彼女だったが、こんな形で出る事になって、蒔田は胸を痛めていた。
 大人ならともかく、彼女はまだ少女なのだ。

「理子の元気が戻って来たようだから、このまま家電を買いに行こう。俺の華麗な値切りを披露するよ」

 蒔田は紫を送ってから、家電量販店へ向かった。
 普段、衝動買いをする事は滅多にない。買い物をする時には事前にしっかり調査してから買う。

 底値を調べ上げて、ギリギリまで値引かせる。今回も、それぞれの商品をギリギリまで値引かせた上で、更に合計金額から値引かせて、付属品や消耗品までサービスで付けさせた。
 本人が言っていた通り、まさに華麗な値切りだった。
 金持ち程ケチだと聞いた事があるが、蒔田はその口かもしれない。在庫のある品は夕方に配達してもらうよう手配した。

 その後、調理道具や食器を見に行った。こちらの方は下調べができていなかったが、大体の勘で値切った。
 こういう店は店員が女性だからやりやすい。

 理子はそんな蒔田を見て、母が言っていた『誑し込む』と言う言葉を思い出した。まさに、そんな感じだ。
 この人は、その気になれば幾らでも女性を落とす事ができるのではないか。プレイボーイの素質十分だ。

 理子は買い物をしているうちに段々と楽しくなってきた。結婚する実感が湧いてくる。
 これから先生と二人で暮らすんだ。そう思うと心が仄々(ほのぼの)としてくるのだった。
 蒔田も楽しそうな顔をしていた。

 こんな風に二人で買い物ができるなんて、幸せだ。これまでの抑圧された生活から解放された喜びが、顔を自然に(ほころ)ばせる。
 二人は取りあえず必要な分だけの物を購入し、荷物を部屋へ置いてから食料品の買い出しに出た。

 夕飯と朝食の材料を買い、コーヒーやお茶などの嗜好品を買った。周囲の女性客が、みんな
蒔田を見ていた。見惚れている。
 それから理子を見て不思議そうな表情を浮かべるのだった。

 妹なのか恋人なのか推測しているのだろう。
 レジでも、店員が商品をポスに通す度に、蒔田の方をチラッと見る。
 袋に入れている時にも、周囲の女性客からの視線を浴びた。これから二人で買い物をする度に、こうやって注目されるのだろう。

 マンションに帰る頃には薄暗くなっていた。部屋へ入ると蒔田は、玄関、廊下、リビングの、ダウン照明の所にだけ電球をはめた。
 他の部分は、これからやってくる電気屋待ちである。
 間接照明だから、それ程明るくはないが、ムードがある。その中で、二人は見つめ合った。

「今日は、御苦労さま。疲れただろう」

「少しだけ.....。怒涛の一日でしたね」

 理子の言う通り、まさに怒涛のようだった。
 蒔田が腕を伸ばして理子を抱き寄せようとしたら、故意か偶然か、理子は「折角だから、コーヒーを淹れましょうよ」と言って、キッチンへと歩き出した。

 蒔田の腕が宙に浮いたまま残った。
 その手を見つめて下へ下げる。

 理子が淹れたコーヒーは、深くて美味しかった。コクがある。

「コーヒーも、淹れるのが上手いな」

 蒔田は感心した。

「先生ほどじゃないですよ。でも、コーヒーには煩いっておっしゃってたから、喜んでもらえて良かったです」

「今日、君の家で淹れてくれたお茶も美味しかった。何気なく見てたんだが、丁寧に淹れてたよね」

「あら、見てたんですか?先生って、いっつも見てますよね」

「だって、君の事だもん。気になるじゃないか」

 蒔田の言葉に、理子は赤くなった。可愛いな、と思って見ていたらチャイムが鳴った。
 電気屋だ。

 大量に買い込んだので、何人もの人間が次々と品物を運び入れては設置していく。照明が付き、テレビが設置され、冷蔵庫や洗濯機が運び込まれた。
 これだけの物が揃えば、もう生活には困らない。

「じゃぁ私、食事の支度を始めますから、後の事はお願いしますね」

 理子がそう言ってキッチンへ入ったので、蒔田はDVDのセッティングや電話の設置、お掃除ロボットの試運転などを行った。
 それからキッチンに入ると、もうすぐ出来あがるところだった。

「作るの早いね。キッチンはどう?使い勝手は」

「良好です。広いから動きやすいし。性能もいいし」

「そうか。良かった。楽しみだな、君の料理。これが初めてだもんな」

「カレーですよ?そんな料理と呼べるものでもないのに」

「カレーだって、それぞれの家で味が違うじゃないか。同じルーを使用したって、何か違うぞ」

「そうですね。それは言えてます。いつも不思議に思います」

 二人向き合って食卓につく。カレーはやっぱり、自分の家とは違う味がした。勿論、美味い。綺麗な色どりのサラダを食べて驚いた。

「美味しいね、このサラダ。ドレッシングが、何て言うか不思議な感じがする。コクがあるのにあっさりしていると言うか.....。そう言えばドレッシングは買って無かったよな」

「ドレッシングは手作り主義なんです。油が酸化して味が落ちるし、自分で作った方が配合を調節できるし。油っぽいの、あまり好きじゃないんですよね。でも先生はもう少しオイリーな方がお好きですか?」

「いや。この方が美味しいと思う」

「良かった」

 理子は嬉しそうににっこりと笑った。

「味噌汁付きだね」

 カレーに味噌汁が付くのは、珍しい方だと思っていた。だが蒔田は好きだった。

「先生がお好きだって、以前、お義母さんから伺っていたので」

「えっ?そうだったの?じゃぁ、この大根も?」

「はい」

 蒔田は、カレーの時には何故か大根の味噌汁を一緒に食べるのが好きだった。人からは珍しいとか、変わっているとか言われる。
 母から聞いて、好きな物を覚えていてくれて、こうして作ってくれた事に感動した。

「ありがとう、俺の為に」

「いえ.....」

 理子ははにかんで俯いた。どうして彼女はこんなに可愛いのだろう。
 すぐ赤くなる。はにかむ。その様が、何とも言い難い程、可愛くて、蒔田をそそるのだった。

 幸せな食事の時間が終わり、二人はお隣と階下の部屋へ挨拶に行った。
 どちらも三十代後半の、小学生の子供がいる家庭だった。
 蒔田と理子のカップルを見て、驚いていた。こんなに若いカップルが、このマンション内で一番高値の部屋を買って入ってくるとは思っていなかったからだ。

 値段が下落しているとは言え、それでも高い。
 それなりに年配の夫婦が入って来るのかと思っていたのだ。

「理子、俺これから家へ身の回りの物を取りに行ってきてもいいかな。着替えもないからさ」

「そうですよね。いきなり、こんな事になってしまったから。どうぞ、取りに行ってきて下さい」

「夜だけど、一人で大丈夫か?」

「大丈夫です。ここ、セキュリティがしっかりしてるし」

「誰か来ても、絶対に出ちゃ駄目だぞ」

 理子は苦笑した。

「心配性なんだから.....」

「当たり前じゃないか。そうだ。一緒に連れて行けばいいんだ」

「先生、ごめんなさい。私もう、疲れちゃって。だから留守番してます。先にお風呂に入ってもいいですか?」

 蒔田は理子を見た。そう言えば、少し疲れた顔をしている。
 今日一日の事を考えれば当たり前だ。きっと見た目よりも疲れているに違いない。

「わかった。じゃぁ、先にお風呂に入ってて。一時間くらいで戻って来るから」

 時計を見ると、八時になろうとしていた。九時には帰って来れるだろう。

「先生、気を付けてね」

 理子が心配そうに言った。蒔田はそんな理子に、軽く口づけた。

「じゃぁ、行って来る」

 蒔田は理子を置いて部屋を出た。後ろ髪が引かれる。だが今夜から、ここへ帰って来るのだ。理子の許に。そう思うと胸が高鳴るのだった。


 マンションを出てから二十分少々で家に着いた。

「ただいま」

 声を掛けると、中から母が出て来た。

「理子ちゃんは?一緒じゃないの?」

「うん。疲れたから留守番するって」

「あら、大丈夫なの?一人で」

「俺もそう思って、一緒に連れて来たかったんだけどな。本当に疲れてる様子だったから。今日は朝から緊張と興奮の連続だったし。急な事で、午後は買い物三昧だったし。心身ともに疲れてると思うよ」

「そうね。何だか可哀そうだわ。あなた、しっかり支えてあげなさいよ」

「うん、わかってる。そういうわけだから、今日は取りあえず必要な物だけ持って、さっさと向こうへ戻るから。遅くなって彼女に心配かけたくないし」

 蒔田はそう言うと自分の部屋へ行き、二、三日分の着替えと通勤に必要な物を鞄に詰めた。本も何冊か持って行く。きっと、理子が喜ぶだろう。

 荷物を持って階下へ降りると、丁度父の雅人が帰ってきた所に遭遇した。

「あ、おかえり」

「雅臣か。どうした。荷物を取りに来たのか?」

「そうなんだ。取りあえず、二、三日分。土曜日にまた来るよ。今度は引っ越しの準備で」

「理子ちゃんはどうした。一緒じゃないのか」

「向こうで留守番してる。疲れてるみたいだから」

「そうか。今日は大変だったな。お前も疲れただろう」

「まぁね。俺は精神的に疲れたな。最後は凄かったよ。まるで頑固おやじが卓袱台をいきなりひっくり返すが如くって剣幕になっちゃって。強烈な個性の持ち主なのはわかってたし、彼女からも聞いてはいたけど、実際に目の当たりにすると迫力が違う」

「仮にもお義母さんになる人のことを、頑固おやじはないだろう」

「例えだよ、例え。だけど、父さんと母さんには申し訳ないと思ってる。俺が、何とか取りなせておけてれば良かったんだけど、墓穴掘っちゃったみたいで」

「いや、いいさ。子供の為に親が骨を折るのは当たり前だ。きっと、お前が出来過ぎてるのが気に入らなかったんじゃないのか?」

「やっぱり、そうなのかなぁ。あ、それで相談なんだけどさ。最初の予定では入籍は二十八日って思ってたんだけど、思わぬ事になっちゃったから早めようかと思うんだけど、父さんはどう思う?俺は、入籍してから同居したかったんだ。そういうけじめは、しっかり付けておきたかったって言うか。未入籍のまま一緒に暮らすのに抵抗があるんだよ」

「常識の枠に捉われない、合理的で進歩的な性格の癖に、変な所で堅いんだよな、お前は」

「これで案外、小心者なのさ。なるべく人から後ろ指を指されるような事はしたくないと言うか、付け込まれるような事はしたくないと言うか。だから、結婚の条件に東大合格を付けたのさ。不合格だったら延期。俺のせいで不合格だったなんて、言われたく無かったからね。結局、弱いんだよ、俺は」

「お前の気持ちもわかるがな。まぁ、それはそれでいいだろう。入籍の件だが、早くなっても構わないんじゃないか。ただ、もう少し待ってみるんだ。もう少ししたら向こうのお義母さんも気持ちが落ち着いてきて、考えが変わるかもしれない。それに、俺達も挨拶に行くから、その時にまた状況が変わる可能性もある。焦って逆に、お義母さんの心を逆なでしないとも限らないからな」

「わかった。じゃぁ、焦らずに暫く様子を見てみるよ。ありがとう、父さん」

 蒔田は奥にいる母にも声を掛けて、自分の家を出た。
 そして、新しい自分の家へと向かうのだった。
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