第26話

文字数 5,616文字

 とうとう、現実を拒否して非現実の恋の道を選んでしまった、と思った。

 あの時、自分を庇うように両手を広げた蒔田の後で、理子は自分が好きなのはやっぱり蒔田しかいないと思ったのだった。
 もうこれは、どうしようもない。
 自分の心なのに止められない。

 しかも、告白したくてもできない。
 したら嫌われるに決まっている。
 ただ思い続けるだけの、見込みの無い恋。考えただけで泣けてくる。

 誰にも言えない。
 常にポーカーフェイスで隠し続けなければならない。
 少なくとも卒業するまでは。

 唯一望みがあるとすれば、卒業してからだろう。
 石坂先生の所のように。東大に合格すれば、先生もきっと喜んでくれるだろう。
 その後も先輩として、何かと相談に乗ってくれると思われる。
 チャンスがあるとしたら、その時だけだ。

 部屋のドアがノックされた。

「理子ちゃん、あたし」

 ゆきだった。理子はドアを開けた。

「理子ちゃん、大丈夫?」

 ゆきは心配そうな顔をしていた。

「ごめんね。いきなり先に走って帰ってきちゃって」

「ううん。あの二人には驚いたよね。困ったでしょう。無理無いよ」

 二人はベッドに腰を下ろした。

「理子ちゃんはさぁ、枝本君の事を好きなわけじゃないの?」

「好きだけど.....」

「好きだけど?」

「他に好きな人がいる事に気づいちゃったんだ」

「ええー?それって、あたしの知ってる人?」

 理子は少し考えて、頭を振った。

「それ以上は、聞かないで。私の片思いだから」

「そっか.....」

 ゆきは悲しそうな顔をした。

「あたしさ、枝本君に理子ちゃんの事で時々相談を受けてたの。理子ちゃんも満更じゃないと思ってたから色々アドバイスしちゃってたんだけど、良くなかったみたいだね。ごめんね」

 枝本がゆきに相談していたと聞いて驚いた。
 はっきりと告白されてはいないが、これまでの行動を見れば、その気持ちは推測できたろう。

 ただ理子は、そういう行動から相手の気持ちを推測して、結論づけるのが嫌いだった。
 人の気持ちほど不確かなものはない。
 勝手にそう思い込んで、後でしっぺ返しを喰らうのではないかと不安になるのだった。
 結局は臆病なのだ。

 蒔田にしても同じことだ。
 彼の色んな行動から、色んな事が推測できる。
 だがどれも一つの可能性に過ぎない。結論づける事はできないのだ。
 でも、もう走り出してしまった。止められない。

「ゆきちゃんは悪くないよ。私がゆきちゃんでも、同じ事をしたと思うし。だから気にしないで」

 ゆきはそっと理子の手を握ってきた。

「理子ちゃんの恋、実るといいね」

「.....ありがとう」

 理子はゆきを見て笑顔を浮かべた。
 まず無理な話だが、友を思うゆきの心は嬉しかったから。


 翌朝、理子はいつも通りに二人に接した。二人の事は好きだ。
 だから気まずい関係になりたくなかった。
 理子のいつも通りの様子に、二人は一応安心したような表情になった。
 嫌われる事は無かったのが分かって、ひとまず安心と言ったところだろう。

 倉敷の二日目も無事に過ぎ、三日目の京都へ向かう途中で姫路城に寄った。
 ここが、歴好きの理子達の最大の楽しみだった。

 大きくて広い。外敵を防ぐ為にあらゆる仕掛けがなされており、天守閣へも簡単には行けない。ハードな道乗りだ。
 ここは山登りよろしく、個人のペースで登閣することにした。

 城には本当に心惹かれる。
 姫路城は時代劇で江戸城としてよく登場する城だ。実際の江戸城とは趣は違う。
 四百年もの間、本当によく残っていてくれたと思う。感謝の念が湧いてくる。

 維新の時に多くの城が廃城になり、取り壊された。
 残った城も戦争で燃えたものもある。
 天守閣のある城で昔のまま現存しているのは、僅かに十二しかなく、その他は復興、復元されたものなのである。

 姫路城は昔のまま現存している貴重な城で、その規模からしても最大である。
 世界遺産になるのも当然かと思われる。
 まさに、圧巻だった。

 本丸は六階建てなので、最上階の天守閣まで登るのは一苦労だが、その景観は素晴らしい。

 素晴らしい姫路城を後にして、一行は京都に向かった。到着したのは夕方だ。
 見学は翌日になる。
 京都では、京都国際ホテルが宿泊先だった。

 二条城を目の前にした、日本庭園のあるホテルだ。
 江戸時代には旧福井藩邸のあった場所であり、平安時代には堀川天皇の里内裏があった場所でもある。

 初日の倉敷の夜から、蒔田とはメールのやり取りもしていないし、集合時くらいしか顔を合わせていなかった。
 この状況を辛く感じる。

 先生の顔をもっと見たい。
 先生ともっと話したい。

 自分の気持ちを自覚した途端、そういう欲求が以前よりも高まってしまっていた。

 蒔田はどこへ行っても目立っていた。
 必ず現地の女性たちの目を引いた。
 こっそり接触を図るのは無理だろう。
 そう思うと、もう早く帰って、またいつもの生活に戻りたくなってきた。

 本が読みたい。ピアノを弾きたい。歌を歌いたい。
 先生と色んな話をしたい。
 全部ここでは出来ないことだった。

 そう言えば、「バビロンの夕陽」の感想レポートを出したまま、その感想を先生から聞いていなかった。
 あの本についても、もっと色々な事を話したい。

 理子は夕食の後、ホテルの日本庭園を散策した。とても綺麗な庭だった。
 目の前の二条城はライトアップされていて美しい。
 池の前でぼんやりしていたら、枝本に声を掛けられた。

「どうして、ここに?」

 理子は不思議に思った。

「ごめん。理子の姿が見えたから、どこへ行くのかと付いて来たんだ」

「そう」
 
 理子は素っ気なくそう言うと、再び池を見た。

「理子、この前はごめん。勝手に断りも無く手を繋いだから、あんなことになってしまって」

「ううん」

 理子は首を振った。

「俺、改めて言う。理子が好きだ」

 その言葉に理子は枝本の方を振り向いた。

「でも私、他に好きな人が」

「わかってる。でも、言わずにはいられないんだ。自分の気持ちを隠しておけない」

 理子の胸が、ズキンと痛んだ。
 かつて、あれほど恋焦がれた相手だ。嬉しく思う気持ちもある。
 それでも応える事はできないのだった。

「ごめんなさい。それから、ありがとう」

 それしか言えない。

「一つ聞きたいんだけど」

「なにかな」

「理子の好きな人って、同じ学校の生徒?」

「ううん。相手は高校生じゃないの」

「えっ?じゃぁ、大学生?」

「ううん。.....社会人。大人なの。だから、片思いなんだ」

 理子は寂しげに言った。

「告白は?」

「しない。彼女がいるし」

「それでも好きなの?諦められないの?」

 理子は枝本を見た。

「考えてみたら、枝本君の時と同じだね。あの時も、枝本君には彼女がいたのに、わかっていて尚、好きだった。諦められなかった」

 そうだ。諦めないでいたら、叶ってしまった。
 だから、今が絶望的であっても、未来の事はわからない。

「いつから好きなの?」

「わからない。気づいたのは最近かな」

「そっか。理子は昔から一途な所があるもんな。だけど、俺も、理子に好きな人がいるとわかっても、好きであることに変わりは無いから。理子の気が変わるのを待ってるよ」

「本当にごめんね。その人がいなかったら、きっと枝本君を好きになってたと思う。だって、好きな気持ちのままサヨナラしちゃったんだもん。枝本君が転校してきた時には、胸がキュンとしたんだよ」

 そう。今だって、まだ好きな気持ちはある。
 自分の心持次第で、枝本と付き合う事も可能だ。

 蒔田の事を強制的に思い切って、無理やり枝本の方へ意識を向ける事はできる。最初は辛いだろうが、その内に枝本をもっと好きになって、蒔田の事を完全にふっ切ることができるのではないかとも思う。

 だが自分の心に嘘をつきたく無かった。

「そう言ってくれて嬉しいよ。告白したけど、これからもこれまでのように付き合ってくれるよな」

「うん、勿論。色々ありがとう」

 枝本は笑って手を上げると、ホテルの方へと戻って行った。
 もっと早くに告白されていたら、どうだったろう。付き合っただろうか。

 考えてみたがわからなかった。ただ、去年の春から同じ高校だったら、きっと枝本と付き合っていただろう。
 そこへ蒔田が現れたら?
 やっぱり、自分の心は蒔田に奪われてしまうのだろうか。

「理子.....」

 池の向こう側の茂みから、自分を呼ぶ声が聞こえた。
 鼻にかかった、少し低めの美声。

 この声は。

 薄暗闇の中に、ぼんやりとした人影が現れた。

「先生.....!」

 理子は心臓が止まりそうなほど、驚いた。

「すまない。女子共が煩いから落ち着きたくて、こっそりここまで来て池を見てた。そこへお前がやってきた。声を掛けようとしたら、枝本が来たのが見えたんで、隠れたんだ」

 薄暗くて蒔田の顔が良く見えない。
 表情が読めない。
 どんな顔で喋っているのだろうか。

 理子のそばには灯篭があるので、蒔田からは理子の顔が良く見えるだろう。
 なんだか恥ずかしくなってきて、いたたまれない。

「あの、.....もしかして話を.....」

「悪い。聞いてしまった」

 蒔田の言葉に理子はショックを受けた。
 誰にも聞かれたくなかったのに。特に蒔田には。

「理子。こっちへ来ないか?」

 蒔田が優しい声で誘ってきた。そんな声で言われたら行きたくなる。
 行って縋りつきたくなる。

「この状態じゃ、話が遠い。おまけに誰かが来たら怪しまれる」

 先生は、どうしてそんな事を言うの?
 私はただの受け持ちの生徒なのに。
 生徒と恋愛する気はないって沙耶華に言ったんでしょ?
 だから皆に冷たいんでしょ。
 なのに、どうして?

 聞きたくて聞けない言葉を理子は呑み込んだ。

「理子、こっちへ来るんだ」

 蒔田の語調が強くなった。

「来い!」

 その強い言葉に理子は逆らえなくて、蒔田の元へ足を踏み出した。

「まったく、お前には苦労する」

 そばへ来た理子に、蒔田は苦笑しながら言った。
 理子の方は抱きつかないように我慢するので精いっぱいだった。

 蒔田は、話が遠いと言って理子をそばへ呼びつけながら、何も言わない。
 黙って、理子を見ている。
 それに耐えられなくなって、理子の方から言葉を発した。

「あの、先生。初日の倉敷の夜の件、助けてくれてありがとうございました」

「ああ。あれか。あの後、枝本と茂木から詳しい話を聞いた。呆れたよ。あの二人には。だけどお前、もてるな」

「もてるって.....」

「おまけに、二人ともお前好みの眼鏡じゃないか。何も逃げなくてもいいだろうに」

 蒔田の言葉に理子はショックを受けた。
 そうか。この先生にとって、結局私はその程度のものなんだ。

「この間も、さっきも、好きな人がいるって言ってたな。しかも相手は大人で片思い。悪い事は言わないから、諦めろ」

 その言葉に理子は怒りが湧いてくるのを感じた。

「なんで先生にそこまで言われなきゃならないんですか?」

 理子の強い語調に、蒔田はたじろいだ。

「彼女がいるなら、女子高生のお前なんて眼中に無いだろう。辛い思いをするだけだ」

 蒔田が目を逸らして、そう言った。

「余計なお世話です。そんな、追い打ちをかけるような事を言わないで下さい」

 泣きたくなってくる。当の本人からこんな事を言われるとは。

「失礼します」

 理子はもう、これ以上一緒にいるのが耐えられなくて、その場を離れようとした。

「待ってくれ!」

 だが、蒔田が理子の手首を掴んで、それを止めた。理子は驚いた。
 蒔田がそのまま腕を引いて、理子を引き寄せたので、危うく蒔田の胸にぶつかりそうになった。胸の動悸が一挙に速くなる。

「すまなかった。こんな話をする為に、お前をここへ呼んだんじゃない」

 蒔田は理子の手を離すと、そう言った。
 理子はまともに顔を見れなくて俯いた。

「理子。俺の方を見てくれないか。お前の顔をもっとよく見せて欲しい」

 その言葉に理子の胸は締め付けられた。

(どうして?)

 乱れる心を抑えながら、平静を装う。

「だめだめ、そんなにじっくり人様に見せるような顔じゃないから」

 理子は高鳴る胸の鼓動を鎮めるように、わざとおちゃらけて言った。
 それに半分は本気だ。美しい人に晒せるような顔ではない。

「ケチるなよ。俺が見たいって、言ってるんだ。素直に見せた方が身の為だぞ」

 この人って、結局のところ、強引だ。

「私は見せたくないです。素直に従った方が身の為ですよ」

 理子も負けていない。つい対抗してしまう。

 蒔田はハァ~と、大きく息を吐きだした。

「お前、本当に生意気だな。いいか、これは担任命令だ。俺の方を見るんだ」

「担任だからって、それは横暴じゃないですか?そんな権利ないと思いますけど」

 理子はあくまでも突っぱねる。

「あまり減らず口をたたくな。その口を塞ぎたくなる」

 えっ?
 その言葉に、理子は思わず蒔田の顔を見てしまった。

「やっと、見てくれた」

 蒔田はそう言うと、優しい目で理子を見つめた。

 理子は、その視線から目を離す事ができなかった。
 二人は黙ったまま、長い間見つめあった。

 近くで虫が鳴いている。
 遠くからは、ざわめきが伝わってくる。
 だが二人の周囲は、ひっそりとしていた。

 端正な顔立ち、長い首、こんなに近くで正面から正視するのは初めてだ。
 自分の胸の鼓動の音で、耳がおかしくなるのではないかと思った。
 蒔田は一体、何を考えているのだろう。

 蒔田の視線が理子を離した時、理子はほっとした。

「悪かった。だが、これでようやくわかったよ」

 蒔田は伏せ目勝ちに、僅かに笑いながら言った。
 先生は一体何を言っているのだろう。理子には分からない。

「お前はもう、部屋へ帰れ。引き止めて、済まなかった」

 理子は不審に思ったが、従う事にした。

「先生.....」

「んっ?」

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 その声は優しく、笑顔はせつなそうに見えた。
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