第52話
文字数 3,083文字
翌日職員室へ行くと、石坂に「昨日は来なかったね」と言われた。
「すみません。友達の事で色々あって.....」
理子は頭を下げた。
「いや、謝る事は無いよ。君がここへ来なければならない義務は無いんだから。ただ、一昨日の話しに懲りてしまったんじゃないかと、ちょっと心配になってね」
「いえ、そんな事はありません。そもそも私の方から色々聞いたんですし」
理子はそう言うと、斜め前の席へ目をやった。
諸星の席だ。いなかった。
「諸星先生は、今日は出張でいないよ」
石坂の言葉に理子はちょっと驚いた。
理子の様子をすぐに把握している。
この人の前では油断できないと思った。
これでは理子が蒔田を気にしているのを感じるのも無理はないかもしれない。
「諸星先生、いらっしゃらないんですか。ちょっと、つまんないかも?」
「あの先生がいるとね、賑やかで仕事にならないんだよ。陽気で楽しいんだけど、困る時もあってねぇ」
「そうなんでしょうね。お喋りですよね。勉強を教えて欲しくて行っても、なんか半分以上はお喋りなんですよね。凄く面白いし参考になる事も多いんだけど、肝心な事が.....」
「そうだね。この間は僕もお喋りが過ぎてしまったようで、進まなかったよね。今日は頑張ろう」
そう言ってくれて助かった。
前回の話しの続きが始まったらどうしようかと思っていた。
興味はあるが、聞くのが怖い部分もあった。
相手は教師と言えども男だ。本人からして、そう言っている。諸星先生も言うように、少しは用心した方が良いだろう。
「今日は公式をどれだけ制覇したか、ちょっと試そう」
石坂は次々と質問を始めたので、理子はそれにどんどん答えていった。
最初のうちは良かった。面白いくらいに出て来た。
だが、進むにつれ辛くなってきた。仕舞いには混乱しだした。
「うーん.....、なるほど.....」
石坂はそう言うと、机の上で頬杖をついて、もう一方の手の指を机の上でトントンと叩いた。
何か考えているようだ。
「吉住さん、ゴールデンウィーク中は先に進まずに、復習に徹しなさい。根を詰めないように少しリラックスした気分でやるといい」
「復習、ですか」
石坂の言葉を意外に思った。
「そう、復習。今暗誦した公式の、曖昧だった所はまだやらなくていいよ」
「えっ、だって.....」
そう言われると凄く不安になる。
「心配しなくていい。僕がゴールデンウィーク中に、夏休みまでの数学の具体的な計画を立てておくから。君はそれまでは復習に徹して、気持ちをリフレッシュしておいて欲しい。この休日は、少し楽しく過ごしなさい」
石坂の言葉に戸惑った。
「楽しくって、そんな呑気なことで大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。そう焦らないことだ。遊び相手がいないなら、僕がなってあげるよ」
石坂はそう言うとウインクをした。
思いもよらない言葉と行動に理子は赤くなった。
「君は面白いねぇ。赤くなって、可愛いなぁ」
何故か嬉しそうな顔をしている。
「せ、先生こそ、意外ですよ」
「そうかい?まぁ、教師と生徒は、そう頻繁なコミュニケーションがあるわけじゃないからね。教師の側からは興味のある生徒の事はよく見てるけど、君達の方からは、教壇に立ってる姿くらいしか見れないからねぇ。意外な面は多いかもしれない」
それは確かにそうだ。自分も、蒔田と二人だけの接触が無かったならば、憧れの存在と言うだけで済んでいたかもしれない。
そして今頃はゆきのように、枝本との恋に悩んでいた可能性が高い。
「君はもっと、僕の意外な面を見たいと思わないかい?」
「えっ?」
理子は石坂を見た。いつもと変わらぬ微笑みだったが、質問の意図を図りかねた。
ただ感じるのは危険という信号だ。だがここは職員室だ。
「興味はあります。でもそれは野次馬的な感じでしょうか。私、好奇心旺盛な方なので、色んな事に興味を持っちゃうんです」
理子は努めて平静にそう言った。嘘では無い。
「成る程。そういう事だったら、僕も似たようなものだ。興味の赴くままに追及できたら、こんなに楽しい事はないと思うが、その欲求を満たそうと思ったらリスクを背負う必要がある時もあるよね」
「じゃぁ、先生の意外な面を知りたい場合も、やっぱりリスクはあるんですか?」
「無いとは言えない。だが、それをリスクと思うか否かは人それぞれだろう」
理子は、ふと、この人と何故こんな会話をしているのだろう、と思った。
最初の段階で、適当にはぐらかせば済んでいた事なのに、つい先へと進んでしまった。
何故か心地良い刺激を感じる。
お互いに敢えて核心には触れない会話をしているような気がした。
石坂はいつも柔和で優しい表情をしている。
その表情には安心感がある。だが、そのせいで本心が見えなくもある。
その見えない本心を探りたい衝動に駆られるのだ。何故そんなに知りたいのだろう。
何故、石坂に興味を覚えるのだろう。
心当たりが無いわけではない。矢張り理子は大人の男に憧れる傾向が強い。
懐の深い、広くて大きな男に。
多少の事には動揺しない、力強くて優しい男に。
何を言っても怒らない、どんな本音も受け止めて吸い取ってくれる、幼子のように安心して眠らせてくれる、そんな男を求めているのかもしれない。
こんな心持ちになるのも、やはり育ってきた環境が強く影響しているのか。
両親との関係.....。
父親との関係は悪くないと思う。良好とは言い難いが、それは接する時間が少なかったからだ。
父親は子煩悩な人間なので、理子が幼少の頃の写真を見ると、それは大事そうに理子を抱っこしていた。
だが仕事が忙しく、営業職な為に休日もいない事の方が多い為、遊びに連れて行って貰った記憶が少ない。
可愛がられた感覚が無い。
ただ、母親に酷く怒られている時に、その場にいれば助け舟を出してくれて、それは有難かった。その程度だ。
結局、両親ともに、甘えさせてはもらっていない。
小さい時から、甘えたいのに甘えられない、そのフラストレーションの結果なのかもしれない。
そんな風に自己分析している自分がいた。
石坂に対しては、異性と言うより、頼れる父、もしくは叔父や年の離れた兄のように慕いたいのかもしれない。
そう考えると、理子は自分の異性に対する依存度の高さを自覚し、恥ずかしくなってくる。
情けない。こんな事で本当に自立できるのか。
理子の中には、いつもそういう葛藤があった。
一人の人間として自立したいと願う強い思いと、頼れる人の懐の中でぬくぬくしていたい衝動との間で揺れている。
「もし良かったら、休み中にうちへ遊びに来ないかい?」
石坂の言葉に驚いた。
「心配しなくても、妻も居るから大丈夫だよ。妻の留守中に呼ぶような事はしないから」
そう言って笑った。
奥さんか。憧れの先生を射止めて結婚した女性には、ちょっと興味があった。
「先生、女生徒を家に呼んだりして大丈夫なんですか?奥さんだって良い気持ちしないのでは?」
「大丈夫でしょう。二人きりでなければ。うちは子供がいないから、妻は喜ぶよ」
「そうですか。でも、今回は遠慮しておきます」
「そうかい。残念だなぁ。まぁ、来たくなったらいつでも遠慮しないで来ていいから」
「はい、ありがとうございます」
そうは言ったが、理子は複雑な思いだった。
そもそも、家へ誘われる理由がわからない。
「じゃぁ、勉強の方は程ほどにね。先はまだ長いから焦らずに」
「わかりました」
理子は職員室を後にした。とにかく釈然としない。
石坂とのやり取りが理子の心に波紋を呼んだ。
「すみません。友達の事で色々あって.....」
理子は頭を下げた。
「いや、謝る事は無いよ。君がここへ来なければならない義務は無いんだから。ただ、一昨日の話しに懲りてしまったんじゃないかと、ちょっと心配になってね」
「いえ、そんな事はありません。そもそも私の方から色々聞いたんですし」
理子はそう言うと、斜め前の席へ目をやった。
諸星の席だ。いなかった。
「諸星先生は、今日は出張でいないよ」
石坂の言葉に理子はちょっと驚いた。
理子の様子をすぐに把握している。
この人の前では油断できないと思った。
これでは理子が蒔田を気にしているのを感じるのも無理はないかもしれない。
「諸星先生、いらっしゃらないんですか。ちょっと、つまんないかも?」
「あの先生がいるとね、賑やかで仕事にならないんだよ。陽気で楽しいんだけど、困る時もあってねぇ」
「そうなんでしょうね。お喋りですよね。勉強を教えて欲しくて行っても、なんか半分以上はお喋りなんですよね。凄く面白いし参考になる事も多いんだけど、肝心な事が.....」
「そうだね。この間は僕もお喋りが過ぎてしまったようで、進まなかったよね。今日は頑張ろう」
そう言ってくれて助かった。
前回の話しの続きが始まったらどうしようかと思っていた。
興味はあるが、聞くのが怖い部分もあった。
相手は教師と言えども男だ。本人からして、そう言っている。諸星先生も言うように、少しは用心した方が良いだろう。
「今日は公式をどれだけ制覇したか、ちょっと試そう」
石坂は次々と質問を始めたので、理子はそれにどんどん答えていった。
最初のうちは良かった。面白いくらいに出て来た。
だが、進むにつれ辛くなってきた。仕舞いには混乱しだした。
「うーん.....、なるほど.....」
石坂はそう言うと、机の上で頬杖をついて、もう一方の手の指を机の上でトントンと叩いた。
何か考えているようだ。
「吉住さん、ゴールデンウィーク中は先に進まずに、復習に徹しなさい。根を詰めないように少しリラックスした気分でやるといい」
「復習、ですか」
石坂の言葉を意外に思った。
「そう、復習。今暗誦した公式の、曖昧だった所はまだやらなくていいよ」
「えっ、だって.....」
そう言われると凄く不安になる。
「心配しなくていい。僕がゴールデンウィーク中に、夏休みまでの数学の具体的な計画を立てておくから。君はそれまでは復習に徹して、気持ちをリフレッシュしておいて欲しい。この休日は、少し楽しく過ごしなさい」
石坂の言葉に戸惑った。
「楽しくって、そんな呑気なことで大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。そう焦らないことだ。遊び相手がいないなら、僕がなってあげるよ」
石坂はそう言うとウインクをした。
思いもよらない言葉と行動に理子は赤くなった。
「君は面白いねぇ。赤くなって、可愛いなぁ」
何故か嬉しそうな顔をしている。
「せ、先生こそ、意外ですよ」
「そうかい?まぁ、教師と生徒は、そう頻繁なコミュニケーションがあるわけじゃないからね。教師の側からは興味のある生徒の事はよく見てるけど、君達の方からは、教壇に立ってる姿くらいしか見れないからねぇ。意外な面は多いかもしれない」
それは確かにそうだ。自分も、蒔田と二人だけの接触が無かったならば、憧れの存在と言うだけで済んでいたかもしれない。
そして今頃はゆきのように、枝本との恋に悩んでいた可能性が高い。
「君はもっと、僕の意外な面を見たいと思わないかい?」
「えっ?」
理子は石坂を見た。いつもと変わらぬ微笑みだったが、質問の意図を図りかねた。
ただ感じるのは危険という信号だ。だがここは職員室だ。
「興味はあります。でもそれは野次馬的な感じでしょうか。私、好奇心旺盛な方なので、色んな事に興味を持っちゃうんです」
理子は努めて平静にそう言った。嘘では無い。
「成る程。そういう事だったら、僕も似たようなものだ。興味の赴くままに追及できたら、こんなに楽しい事はないと思うが、その欲求を満たそうと思ったらリスクを背負う必要がある時もあるよね」
「じゃぁ、先生の意外な面を知りたい場合も、やっぱりリスクはあるんですか?」
「無いとは言えない。だが、それをリスクと思うか否かは人それぞれだろう」
理子は、ふと、この人と何故こんな会話をしているのだろう、と思った。
最初の段階で、適当にはぐらかせば済んでいた事なのに、つい先へと進んでしまった。
何故か心地良い刺激を感じる。
お互いに敢えて核心には触れない会話をしているような気がした。
石坂はいつも柔和で優しい表情をしている。
その表情には安心感がある。だが、そのせいで本心が見えなくもある。
その見えない本心を探りたい衝動に駆られるのだ。何故そんなに知りたいのだろう。
何故、石坂に興味を覚えるのだろう。
心当たりが無いわけではない。矢張り理子は大人の男に憧れる傾向が強い。
懐の深い、広くて大きな男に。
多少の事には動揺しない、力強くて優しい男に。
何を言っても怒らない、どんな本音も受け止めて吸い取ってくれる、幼子のように安心して眠らせてくれる、そんな男を求めているのかもしれない。
こんな心持ちになるのも、やはり育ってきた環境が強く影響しているのか。
両親との関係.....。
父親との関係は悪くないと思う。良好とは言い難いが、それは接する時間が少なかったからだ。
父親は子煩悩な人間なので、理子が幼少の頃の写真を見ると、それは大事そうに理子を抱っこしていた。
だが仕事が忙しく、営業職な為に休日もいない事の方が多い為、遊びに連れて行って貰った記憶が少ない。
可愛がられた感覚が無い。
ただ、母親に酷く怒られている時に、その場にいれば助け舟を出してくれて、それは有難かった。その程度だ。
結局、両親ともに、甘えさせてはもらっていない。
小さい時から、甘えたいのに甘えられない、そのフラストレーションの結果なのかもしれない。
そんな風に自己分析している自分がいた。
石坂に対しては、異性と言うより、頼れる父、もしくは叔父や年の離れた兄のように慕いたいのかもしれない。
そう考えると、理子は自分の異性に対する依存度の高さを自覚し、恥ずかしくなってくる。
情けない。こんな事で本当に自立できるのか。
理子の中には、いつもそういう葛藤があった。
一人の人間として自立したいと願う強い思いと、頼れる人の懐の中でぬくぬくしていたい衝動との間で揺れている。
「もし良かったら、休み中にうちへ遊びに来ないかい?」
石坂の言葉に驚いた。
「心配しなくても、妻も居るから大丈夫だよ。妻の留守中に呼ぶような事はしないから」
そう言って笑った。
奥さんか。憧れの先生を射止めて結婚した女性には、ちょっと興味があった。
「先生、女生徒を家に呼んだりして大丈夫なんですか?奥さんだって良い気持ちしないのでは?」
「大丈夫でしょう。二人きりでなければ。うちは子供がいないから、妻は喜ぶよ」
「そうですか。でも、今回は遠慮しておきます」
「そうかい。残念だなぁ。まぁ、来たくなったらいつでも遠慮しないで来ていいから」
「はい、ありがとうございます」
そうは言ったが、理子は複雑な思いだった。
そもそも、家へ誘われる理由がわからない。
「じゃぁ、勉強の方は程ほどにね。先はまだ長いから焦らずに」
「わかりました」
理子は職員室を後にした。とにかく釈然としない。
石坂とのやり取りが理子の心に波紋を呼んだ。