第19話
文字数 6,387文字
文化祭当日。
まだ少し残暑がきついが、天気に恵まれた。
ホームルーム終了後、段取りを皆で確認し合い、九時ジャストに始まった。
花火が上がる。
学校の周辺や、中学の時の友人達を通じて他校へもチラシを配り、しっかり宣伝しておいたせいか、始まったばかりなのに外部の人間が続々とやってきた。
ゆきは小泉と連れ立って教室を出て行った。
頬を染めていて、初々しさが漂っている。
そんな二人を、理子だけでなくクラスート達も横目で見送っていた。
理子は耕介と今日一日のスケジュールや段取り等を確認した後、耕介と別れようとしたら、周囲から声が上がった。
「お二人さん、一緒に行かないの?それとも、どこかで待ち合わせ?」
指笛が鳴った。
むかつく。
いい加減にしてくれ、って感じだ。
「残念でしたー。理子は俺と一緒だよー」
そこへ枝本が割り込んできた。
皆、一斉に驚いた。耕介も驚いている。
「お、お前、いつの間に.....」
「じゃぁ、そういう事でー」
枝本は理子を促した。
理子も枝本の行為に驚いたが、うざい連中にひと泡吹かせたようで、少々気持ち良い。
教室を出た後、枝本がクックック.....と笑っていた。
「あいつら、凄い驚いてたな。一部の連中なんて、トンビにアブラゲさらわれたって感じの顔してた」
「トンビにアブラゲ?」
「そー。あいつら馬鹿なんだよ。結局、羨ましいから、あんな風に冷やかすんだ。気があるならそんな事しないでアプローチすればいいのに。ガキなんだよな」
理子は黙って枝本を見上げた。
何を言っているのかわからない。
その視線に気づいたのか、枝本も理子の方を見た。
「俺も昔はガキだったな」
それだけ言うと、「さぁ、じゃぁ、どこから見る?」と言って、プログラムを開いたのだった。
文化祭の時にはカップルができやすい。クリスマスと似たような精神的欲求があるのだろうか?それとも祭りの高揚感か。
この日は何故かカップルで回りたがる者が多いようだ。
去年は須田先輩と一緒に回った。
須田は優しくて、いつも理子に希望を聞いて、理子の希望を優先してくれた。常に気遣ってくれていた。
今年はなんだか枝本のペースだ。
枝本は一応、理子にも希望を聞くが、互いの希望が一致しない時の決断が早い。
自分の希望を優先すると言うよりは、効率良く回れそうな方を優先していた。
十時半少し前に一緒に作法室へと行き、枝本は正客となって、理子のお手前のお茶を飲んだ。
静謐な時間が流れた。
茶道部のお茶会は盛況だった。どの回も定員十二人満員でしっかり入り、次の回を待つ人間がいる程だった。
知っている相手を前にしていると、さすがに緊張する。
しかも相手は枝本だ。
去年は初めてだった事もあり、何度か途中で次の動作を瞬間的に忘れてしまう事があった。
今年はさすがに、それは無かったのでホッとした。
周囲を見回すと、なんだか男子が多いなと感じた。前の回も男子が多かった気がする。
自分の番が終わり、後片付けと次の回の準備をしてから廊下へ出た。
やっぱり次の回のお客も男子が多い。
校内の生徒もいるが、他校の生徒も多かった。
やはり女子だけの部って、人気があるのだろうか?
並んでいる他校の男子が、「ここの茶道部員は可愛い子が多い」と言っていた。
そういう理由で来るのか。
廊下に出ると枝本が待っていた。
「足、痺れた~」
苦笑いしている。
「お茶はどうだった?」
「思っていたより、苦くないんだね。美味しかった」
「それは良かった。薄茶は甘みがあるくらい、美味しいんだよね」
回し飲みをする濃茶は、ドロっとしていて非常に濃く、点 てると言うより練るのだが、とにかく濃いので苦味が強い。
だが高級な抹茶であれば、苦味の中にも甘味やうま味が感じられる。
薄茶になると、ふわりと泡立てる事もあり、苦味が弱くて飲みやすい。
「だけど、お茶を点ててる姿、良かった。女の子らしくて」
「えっ?やだ。恥ずかしいじゃん.....」
枝本の思わぬ言葉に赤面する。
「やっぱり、伝統文化っていいよね。日本女性らしさを感じる」
「枝本君は、そういう方が好きなの?」
「特にそういう方がいいってわけじゃないよ。良さっていうのは色々あるから。その内の一つに過ぎないよ。日本の文化や歴史も、良い面と悪い面と両方あるし」
「うん、そうだよね」
偏りのない意見に共感した。
それから二人は再びあちこちを回りだした。
各クラス、各部、趣向を凝らしてあって面白い。
それにしても人が多い。大盛況だ。
途中で自分たちのクラスに寄ったが、思っていたよりも人気があった。
水風船と綿菓子なんて、お祭りらしい出し物だが、かなりの賑わいだ。
朝二人が教室を出た時にいなかったメンバーが、二人が一緒なのに驚いていた。
特に女子の中には、不審そうな視線を寄こす者もいた。
少しだけ恐ろしく感じる。
午後一時には、理子の合唱部のコンサートが音楽室で開かれる。
今回理子は、合唱の後にソロで歌うので大緊張だ。
ソロで歌う事は、実は誰にも話していない。部員以外は知らない。
枝本は当然のように一緒に音楽室に入った。入口にプログラムが置いてある。それを見て、驚いていた。
その枝本を尻目に、理子はさっさと楽屋である音楽準備室へと入った。
既に殆どのメンバーが集まっており、発声練習を始めていた。
今回ソロで歌うのは、三年生の女子と、理子だけだ。
三年生は今年最後だから抜擢されたが、二年の理子も抜擢されるとは思っていなかったし、人前でソロで歌うのは非常に恥ずかしくて断ったのだが、顧問の音楽教師の強い勧めで歌う事を決心した。
歌うのはシューベルトの「ます」と、パイジェロの「うつろな心」だった。
「ます」はドイツ語で、「うつろな心」はイタリア語で歌う。
やがて開演時間がやってきた。
顧問教師を筆頭に、準備室から順番に出る。
ピアノの横に三列で並んだ。理子は真ん中だった。指揮は顧問の教師で、ピアノは別の教師が担当した。
ピアノの前奏の間、何となく、教室内を見回す。思っていたより入っていた。
ゆきも小泉と一緒に来ていた。耕介もいたし、茂木までいた。
枝本は一番前の席に座っていた。
見知らぬ顔も多いが、先生方も数人きていた。
その中に蒔田を見つけて、理子は心臓が止まるほど驚いた。
一番後ろの窓際にいた。緊張感が一挙に高まる。
合唱の方はまだいい。だが、ソロだ。
どうしよう?先生の前で歌うの?
途中で帰ってくれたらいいのに。
そんな事を思いながらも、何とか集中するように努めたが、歌っているそばから、緊張が更に高まっていく。
合唱が終わった時には、足が震えてきていた。
最初に歌うのは三年生だった。
先輩はシューベルトの「野ばら」と、フォスターの「夢路より」を歌った。
どちらも、ドイツ語と英語の原語だ。
自分の番がどんどん迫ってくる。
体中が震えてきた。
先輩が終わり、酷く緊張した状態で、前へ出た。
見ないようにしていたのにも関わらず、つい、蒔田の方を見てしまった。
おまけに目が合ってしまった。
慌てて逸らしたが、蒔田は微笑んでいるように見えた。
理子が歌っているのを、蒔田は一度聞いている。
だが、あの時はポップスの弾き語りだ。今回は声楽曲なわけで、歌い方からして全然違う。上手く歌えなかったら、弾き語りの時よりも恥ずかしい。
理子は何とか心を落ち着かせ、ピアノの方へ向いて頷いた。
ピアノの前奏が始まる。
「ます」の前奏は短い。四小節で曲に入る。しかもテンポが早いので、すぐに始まる。とにかく、歌うことだけに集中しなければ。
原語で歌うのは難しい。発音もさることながら、感情表現がし難いのだ。
日本語なら、歌いながら歌詞の意味が自分にも聞き手にもストレートに入ってくるが、原語は意味をわかっていても歌ってる時はどうもピンとこない。
特に「ます」は、川魚の鱒が釣られる様子を見ている人間の、情景描写と感想が混じっている上にテンポが早いから、細かい表現をしにくい。
どこでどう歌うのか、事前によく考えて決めておいて、その上でしっかり練習しないとならなかった。
理子は練習した通りに歌うよう、ひたすら心がけて歌った。
迷っていたら中途半端なものになってしまう。
周囲の事なんて無視して、ただひたすらに歌う事に集中する。
そうしてなんとか「ます」を歌い終わり、その頃には気持ちも大分落ち着いてきた。集中できてきているような気がする。
次の「うつろな心」は恋の歌だ。
恋煩いで、心がうつろになってしまった、というような意味の歌だ。
テンポはゆっくりで、短い曲だった。
この曲はただひたすらに、うつろな心の感情で歌えばいいので、「ます」よりは楽だ。
情感の変化があまりない。
如何に恋煩いのうつろな心で歌えるか、それしかない。
原語で歌うので、ドイツ語やイタリア語がわかる人間か、歌曲が好きな人間にしか、意味はわからないだろう。プログラムに大意は書いてある。
この曲も前奏が短く、すぐに始まった。
高音から始まる。
綺麗な曲なので好きだった。
一生懸命情感を込めて歌い、終わった時に思いのほか拍手が多くて嬉しかった。
やっと緊張から解き放たれた気持ちになる。
とにかく何とか歌えたことで、理子自身も満足した。
全員で挨拶をして、コンサートは終了した。
部員や顧問もみんな褒めてくれて有難かった。
興奮が冷めないまま、理子はすぐに準備室を出た。
二時からお茶のお手前がある。急いで行かないとならない。
枝本には話してあるので、一人で走るように作法室へと向かった。
客足は、午前中よりは減った感じだ。並んでいる様子はない。
これなら午前中より、少し落ち着いた気分でお手前ができそうだ。
自分の番まで二十分はあるので、水屋の仕事をしながら息を整えた。
まだ鼓動が激しかった。
人前と言うだけでも緊張するのに、とんでもない本番だったとつくづく思う。
お手前は大体二十分少々で終わるので、間の十分間で、お客の入れ替えと準備をする。
理子の前の番が終わって入れ替えに入った時、歓声が上がったのが伝わってきた。
受付係の女子が飛ぶように入ってきて、「蒔田先生が来た!」と言った。
ええ~?なんでぇ~?
どうして、またなの~?
とことん、ついてない。
偶然なんだろうか?
だとしたら最悪だと思った。
合唱部はプログラムの時間を見てきたのだろう。
担任なので、まぁ、来るのも理解できるが、お茶会の方は、理子のお手前の時間は枝本以外には誰にも教えていない。部員に聞いたとは思えないし。
水屋の方からそっと部屋を覗くと、案内係が正客を勧めていた。
(ひょえぇ~。正客?)
私のお茶を先生が飲むの?
うわぁ~、どうしよう?
まぁ、どこに座られていても、点てている姿を見られるのは恥ずかしい。
緊張して手を滑らせたりして、失敗しなければ良いのだが。
室内も、受付件待合用の教室の方も、蒔田の存在にざわめいていた。
普段接する機会が少ない一年生などは、顔を紅潮させて見惚れているし、他校の女生徒も顔を赤らめてヒソヒソと話していた。
この回は午前と違って、男女半々だった。石坂先生も来ていた。
気楽にできそうだと思っていたのに、とんでもなかった。
朝より緊張してきた。しかも、今さっき歌を聞かれたばかりだ。
蒔田先生は、私が登場したら驚くだろうか?
そう思いながら、時間がきたので入口に正座して、扇子を前へ置き、おじぎをした。
顔を上げた時に、何気なくチラッと蒔田を見たら、全く驚いた様子が無かった事に、理子の方が驚いた。
(まさか、私って知ってた?)
もしそうなら、何故知ってるのだろう?納得がいかない。
いかないが、始めるしかない。
水屋に戻り、まず水差しを持って部屋へ入る。
まっすぐ正面へ歩き、窯の左横へ置く。立ち上がって、踵を返し、しずしずと水屋へ戻る。
次は懸垂と柄杓、そして茶碗と棗。
全部揃った所でしっかり座り、居住まいを正す。
左腰に挿してある袱紗を取り、捌 く。
一連の行為を流れるようにこなす。
目の前に蒔田が座っている。
理子は手元を見ているので、蒔田の膝あたりしか視界には入ってこない。
それだけが救いだ。
少々緊張するのは、お抹茶を茶碗へ入れた後にそそぐ湯だ。
入れすぎないように注意した。
茶筅で最初に「い」の時を書くように茶碗の端をなぞり、それから縦に手首を振って点てる。
蒔田が飲むんだと思うと、力が入る。
しっかり泡立った所で、「の」の時を書くようにして茶筅を静かにあげた。
理子は体の向きを変え、茶碗を手に取って回し、蒔田の前に置いた。
蒔田は次の客に軽く会釈をすると、長い手を伸ばし、一端自分の前へ茶碗を置いておじぎをした。
見たところ、心得ているように感じられた。
お茶を点てている間にお菓子が出されるが、その時の作法もスムーズだったように思えた。
蒔田は再び茶碗を手に取ると、左へ二回、回した。
茶碗を回すのは、茶碗の正面の模様を避ける為だ。
亭主が回すのは、お客に茶碗の正面を向ける為である。
飲む時は、その正面を避けるのが礼儀とされている。回す回数は表・裏や流儀によって多少異なる。
理子は伏せ目がちに、蒔田の様子を観察していた。動作が慣れている。
どうやら嗜 みがありそうだ。
お茶は三回で飲み干す。
最後に飲み干す時に、蒔田の喉が見えた。右側の首すじに、黒子があるのに気付いて、ドキっとした。
蒔田の茶碗が返された。それを引き取って、洗う。その手が震えた。
茶碗を手に取った時、蒔田の手のぬくもりが残っているように感じたからだ。
朝、枝本に点てた時とは、明らかに違う感触だった。
どうしてこんなにも、心が揺さぶられるのだろう。
それに、蒔田が口を付けた部分に神経が集中した。
ドキドキする。
自分の手元を蒔田がじっと見ているのを感じた。
見られている。
それだけで緊張した。
この瞬間に、二人だけの時間と空間があるような感じがしたのだった。
茶碗を洗い、茶筅を洗い、入ってきた時と逆の順番で道具を持って水屋へ戻る。
最後に、茶室の入口で扇子を置いて深々とお辞儀をして終了だ。
理子は最初から最後まで、蒔田とは目を合わせなかった。
合わせていたら、頭が真っ白になって、何もできなかっただろう。
お辞儀が終わって、完全に水屋に下がった時、物凄い緊張から解き放たれた感じがして、部屋の隅に頽 れた。普段よりも緊張して、余計に足が痺れたような感じだ。
「大丈夫?理子?」
皆に介抱された。
「そりゃ、緊張するよね。蒔田先生なんだもん」
皆が口々に言う。
「ついてるんだか、ついてないんだか、わからないよねぇ」
その言葉には納得だ。
理子はそこで暫く休んでから、廊下へ出た。もう誰もいない。ホッとした。
だけど、どうして蒔田先生に心を乱されるのだろう。
相手は教師なのに。
大人で住む世界が違うのに。
自分で否定しても否定しても、否定しきれない想いがあるように感じた。
会わなければ、多分大丈夫だと思う。
これ以上気持ちが進む事はないだろう。
だが担任だから、否が応でも毎日会う。
おまけに、こうして、何かと接触がある。
本当なら、少しでも先生とのふれあいが多い方が嬉しい。
相手が同じ高校生だったなら、毎日、こういうふれあいが嬉しくて仕方なかったろう。
嬉しいだけで、憧れだけで済むのなら良いが、このままでいったら、本気になりそうで怖くなる。
叶わぬ恋に本気になっても、辛い思いをするだけだ。
相手にされない事はわかりきっている。
そんな事を思いながら、理子は枝本が待っている場所へと向かうのだった。
まだ少し残暑がきついが、天気に恵まれた。
ホームルーム終了後、段取りを皆で確認し合い、九時ジャストに始まった。
花火が上がる。
学校の周辺や、中学の時の友人達を通じて他校へもチラシを配り、しっかり宣伝しておいたせいか、始まったばかりなのに外部の人間が続々とやってきた。
ゆきは小泉と連れ立って教室を出て行った。
頬を染めていて、初々しさが漂っている。
そんな二人を、理子だけでなくクラスート達も横目で見送っていた。
理子は耕介と今日一日のスケジュールや段取り等を確認した後、耕介と別れようとしたら、周囲から声が上がった。
「お二人さん、一緒に行かないの?それとも、どこかで待ち合わせ?」
指笛が鳴った。
むかつく。
いい加減にしてくれ、って感じだ。
「残念でしたー。理子は俺と一緒だよー」
そこへ枝本が割り込んできた。
皆、一斉に驚いた。耕介も驚いている。
「お、お前、いつの間に.....」
「じゃぁ、そういう事でー」
枝本は理子を促した。
理子も枝本の行為に驚いたが、うざい連中にひと泡吹かせたようで、少々気持ち良い。
教室を出た後、枝本がクックック.....と笑っていた。
「あいつら、凄い驚いてたな。一部の連中なんて、トンビにアブラゲさらわれたって感じの顔してた」
「トンビにアブラゲ?」
「そー。あいつら馬鹿なんだよ。結局、羨ましいから、あんな風に冷やかすんだ。気があるならそんな事しないでアプローチすればいいのに。ガキなんだよな」
理子は黙って枝本を見上げた。
何を言っているのかわからない。
その視線に気づいたのか、枝本も理子の方を見た。
「俺も昔はガキだったな」
それだけ言うと、「さぁ、じゃぁ、どこから見る?」と言って、プログラムを開いたのだった。
文化祭の時にはカップルができやすい。クリスマスと似たような精神的欲求があるのだろうか?それとも祭りの高揚感か。
この日は何故かカップルで回りたがる者が多いようだ。
去年は須田先輩と一緒に回った。
須田は優しくて、いつも理子に希望を聞いて、理子の希望を優先してくれた。常に気遣ってくれていた。
今年はなんだか枝本のペースだ。
枝本は一応、理子にも希望を聞くが、互いの希望が一致しない時の決断が早い。
自分の希望を優先すると言うよりは、効率良く回れそうな方を優先していた。
十時半少し前に一緒に作法室へと行き、枝本は正客となって、理子のお手前のお茶を飲んだ。
静謐な時間が流れた。
茶道部のお茶会は盛況だった。どの回も定員十二人満員でしっかり入り、次の回を待つ人間がいる程だった。
知っている相手を前にしていると、さすがに緊張する。
しかも相手は枝本だ。
去年は初めてだった事もあり、何度か途中で次の動作を瞬間的に忘れてしまう事があった。
今年はさすがに、それは無かったのでホッとした。
周囲を見回すと、なんだか男子が多いなと感じた。前の回も男子が多かった気がする。
自分の番が終わり、後片付けと次の回の準備をしてから廊下へ出た。
やっぱり次の回のお客も男子が多い。
校内の生徒もいるが、他校の生徒も多かった。
やはり女子だけの部って、人気があるのだろうか?
並んでいる他校の男子が、「ここの茶道部員は可愛い子が多い」と言っていた。
そういう理由で来るのか。
廊下に出ると枝本が待っていた。
「足、痺れた~」
苦笑いしている。
「お茶はどうだった?」
「思っていたより、苦くないんだね。美味しかった」
「それは良かった。薄茶は甘みがあるくらい、美味しいんだよね」
回し飲みをする濃茶は、ドロっとしていて非常に濃く、
だが高級な抹茶であれば、苦味の中にも甘味やうま味が感じられる。
薄茶になると、ふわりと泡立てる事もあり、苦味が弱くて飲みやすい。
「だけど、お茶を点ててる姿、良かった。女の子らしくて」
「えっ?やだ。恥ずかしいじゃん.....」
枝本の思わぬ言葉に赤面する。
「やっぱり、伝統文化っていいよね。日本女性らしさを感じる」
「枝本君は、そういう方が好きなの?」
「特にそういう方がいいってわけじゃないよ。良さっていうのは色々あるから。その内の一つに過ぎないよ。日本の文化や歴史も、良い面と悪い面と両方あるし」
「うん、そうだよね」
偏りのない意見に共感した。
それから二人は再びあちこちを回りだした。
各クラス、各部、趣向を凝らしてあって面白い。
それにしても人が多い。大盛況だ。
途中で自分たちのクラスに寄ったが、思っていたよりも人気があった。
水風船と綿菓子なんて、お祭りらしい出し物だが、かなりの賑わいだ。
朝二人が教室を出た時にいなかったメンバーが、二人が一緒なのに驚いていた。
特に女子の中には、不審そうな視線を寄こす者もいた。
少しだけ恐ろしく感じる。
午後一時には、理子の合唱部のコンサートが音楽室で開かれる。
今回理子は、合唱の後にソロで歌うので大緊張だ。
ソロで歌う事は、実は誰にも話していない。部員以外は知らない。
枝本は当然のように一緒に音楽室に入った。入口にプログラムが置いてある。それを見て、驚いていた。
その枝本を尻目に、理子はさっさと楽屋である音楽準備室へと入った。
既に殆どのメンバーが集まっており、発声練習を始めていた。
今回ソロで歌うのは、三年生の女子と、理子だけだ。
三年生は今年最後だから抜擢されたが、二年の理子も抜擢されるとは思っていなかったし、人前でソロで歌うのは非常に恥ずかしくて断ったのだが、顧問の音楽教師の強い勧めで歌う事を決心した。
歌うのはシューベルトの「ます」と、パイジェロの「うつろな心」だった。
「ます」はドイツ語で、「うつろな心」はイタリア語で歌う。
やがて開演時間がやってきた。
顧問教師を筆頭に、準備室から順番に出る。
ピアノの横に三列で並んだ。理子は真ん中だった。指揮は顧問の教師で、ピアノは別の教師が担当した。
ピアノの前奏の間、何となく、教室内を見回す。思っていたより入っていた。
ゆきも小泉と一緒に来ていた。耕介もいたし、茂木までいた。
枝本は一番前の席に座っていた。
見知らぬ顔も多いが、先生方も数人きていた。
その中に蒔田を見つけて、理子は心臓が止まるほど驚いた。
一番後ろの窓際にいた。緊張感が一挙に高まる。
合唱の方はまだいい。だが、ソロだ。
どうしよう?先生の前で歌うの?
途中で帰ってくれたらいいのに。
そんな事を思いながらも、何とか集中するように努めたが、歌っているそばから、緊張が更に高まっていく。
合唱が終わった時には、足が震えてきていた。
最初に歌うのは三年生だった。
先輩はシューベルトの「野ばら」と、フォスターの「夢路より」を歌った。
どちらも、ドイツ語と英語の原語だ。
自分の番がどんどん迫ってくる。
体中が震えてきた。
先輩が終わり、酷く緊張した状態で、前へ出た。
見ないようにしていたのにも関わらず、つい、蒔田の方を見てしまった。
おまけに目が合ってしまった。
慌てて逸らしたが、蒔田は微笑んでいるように見えた。
理子が歌っているのを、蒔田は一度聞いている。
だが、あの時はポップスの弾き語りだ。今回は声楽曲なわけで、歌い方からして全然違う。上手く歌えなかったら、弾き語りの時よりも恥ずかしい。
理子は何とか心を落ち着かせ、ピアノの方へ向いて頷いた。
ピアノの前奏が始まる。
「ます」の前奏は短い。四小節で曲に入る。しかもテンポが早いので、すぐに始まる。とにかく、歌うことだけに集中しなければ。
原語で歌うのは難しい。発音もさることながら、感情表現がし難いのだ。
日本語なら、歌いながら歌詞の意味が自分にも聞き手にもストレートに入ってくるが、原語は意味をわかっていても歌ってる時はどうもピンとこない。
特に「ます」は、川魚の鱒が釣られる様子を見ている人間の、情景描写と感想が混じっている上にテンポが早いから、細かい表現をしにくい。
どこでどう歌うのか、事前によく考えて決めておいて、その上でしっかり練習しないとならなかった。
理子は練習した通りに歌うよう、ひたすら心がけて歌った。
迷っていたら中途半端なものになってしまう。
周囲の事なんて無視して、ただひたすらに歌う事に集中する。
そうしてなんとか「ます」を歌い終わり、その頃には気持ちも大分落ち着いてきた。集中できてきているような気がする。
次の「うつろな心」は恋の歌だ。
恋煩いで、心がうつろになってしまった、というような意味の歌だ。
テンポはゆっくりで、短い曲だった。
この曲はただひたすらに、うつろな心の感情で歌えばいいので、「ます」よりは楽だ。
情感の変化があまりない。
如何に恋煩いのうつろな心で歌えるか、それしかない。
原語で歌うので、ドイツ語やイタリア語がわかる人間か、歌曲が好きな人間にしか、意味はわからないだろう。プログラムに大意は書いてある。
この曲も前奏が短く、すぐに始まった。
高音から始まる。
綺麗な曲なので好きだった。
一生懸命情感を込めて歌い、終わった時に思いのほか拍手が多くて嬉しかった。
やっと緊張から解き放たれた気持ちになる。
とにかく何とか歌えたことで、理子自身も満足した。
全員で挨拶をして、コンサートは終了した。
部員や顧問もみんな褒めてくれて有難かった。
興奮が冷めないまま、理子はすぐに準備室を出た。
二時からお茶のお手前がある。急いで行かないとならない。
枝本には話してあるので、一人で走るように作法室へと向かった。
客足は、午前中よりは減った感じだ。並んでいる様子はない。
これなら午前中より、少し落ち着いた気分でお手前ができそうだ。
自分の番まで二十分はあるので、水屋の仕事をしながら息を整えた。
まだ鼓動が激しかった。
人前と言うだけでも緊張するのに、とんでもない本番だったとつくづく思う。
お手前は大体二十分少々で終わるので、間の十分間で、お客の入れ替えと準備をする。
理子の前の番が終わって入れ替えに入った時、歓声が上がったのが伝わってきた。
受付係の女子が飛ぶように入ってきて、「蒔田先生が来た!」と言った。
ええ~?なんでぇ~?
どうして、またなの~?
とことん、ついてない。
偶然なんだろうか?
だとしたら最悪だと思った。
合唱部はプログラムの時間を見てきたのだろう。
担任なので、まぁ、来るのも理解できるが、お茶会の方は、理子のお手前の時間は枝本以外には誰にも教えていない。部員に聞いたとは思えないし。
水屋の方からそっと部屋を覗くと、案内係が正客を勧めていた。
(ひょえぇ~。正客?)
私のお茶を先生が飲むの?
うわぁ~、どうしよう?
まぁ、どこに座られていても、点てている姿を見られるのは恥ずかしい。
緊張して手を滑らせたりして、失敗しなければ良いのだが。
室内も、受付件待合用の教室の方も、蒔田の存在にざわめいていた。
普段接する機会が少ない一年生などは、顔を紅潮させて見惚れているし、他校の女生徒も顔を赤らめてヒソヒソと話していた。
この回は午前と違って、男女半々だった。石坂先生も来ていた。
気楽にできそうだと思っていたのに、とんでもなかった。
朝より緊張してきた。しかも、今さっき歌を聞かれたばかりだ。
蒔田先生は、私が登場したら驚くだろうか?
そう思いながら、時間がきたので入口に正座して、扇子を前へ置き、おじぎをした。
顔を上げた時に、何気なくチラッと蒔田を見たら、全く驚いた様子が無かった事に、理子の方が驚いた。
(まさか、私って知ってた?)
もしそうなら、何故知ってるのだろう?納得がいかない。
いかないが、始めるしかない。
水屋に戻り、まず水差しを持って部屋へ入る。
まっすぐ正面へ歩き、窯の左横へ置く。立ち上がって、踵を返し、しずしずと水屋へ戻る。
次は懸垂と柄杓、そして茶碗と棗。
全部揃った所でしっかり座り、居住まいを正す。
左腰に挿してある袱紗を取り、
一連の行為を流れるようにこなす。
目の前に蒔田が座っている。
理子は手元を見ているので、蒔田の膝あたりしか視界には入ってこない。
それだけが救いだ。
少々緊張するのは、お抹茶を茶碗へ入れた後にそそぐ湯だ。
入れすぎないように注意した。
茶筅で最初に「い」の時を書くように茶碗の端をなぞり、それから縦に手首を振って点てる。
蒔田が飲むんだと思うと、力が入る。
しっかり泡立った所で、「の」の時を書くようにして茶筅を静かにあげた。
理子は体の向きを変え、茶碗を手に取って回し、蒔田の前に置いた。
蒔田は次の客に軽く会釈をすると、長い手を伸ばし、一端自分の前へ茶碗を置いておじぎをした。
見たところ、心得ているように感じられた。
お茶を点てている間にお菓子が出されるが、その時の作法もスムーズだったように思えた。
蒔田は再び茶碗を手に取ると、左へ二回、回した。
茶碗を回すのは、茶碗の正面の模様を避ける為だ。
亭主が回すのは、お客に茶碗の正面を向ける為である。
飲む時は、その正面を避けるのが礼儀とされている。回す回数は表・裏や流儀によって多少異なる。
理子は伏せ目がちに、蒔田の様子を観察していた。動作が慣れている。
どうやら
お茶は三回で飲み干す。
最後に飲み干す時に、蒔田の喉が見えた。右側の首すじに、黒子があるのに気付いて、ドキっとした。
蒔田の茶碗が返された。それを引き取って、洗う。その手が震えた。
茶碗を手に取った時、蒔田の手のぬくもりが残っているように感じたからだ。
朝、枝本に点てた時とは、明らかに違う感触だった。
どうしてこんなにも、心が揺さぶられるのだろう。
それに、蒔田が口を付けた部分に神経が集中した。
ドキドキする。
自分の手元を蒔田がじっと見ているのを感じた。
見られている。
それだけで緊張した。
この瞬間に、二人だけの時間と空間があるような感じがしたのだった。
茶碗を洗い、茶筅を洗い、入ってきた時と逆の順番で道具を持って水屋へ戻る。
最後に、茶室の入口で扇子を置いて深々とお辞儀をして終了だ。
理子は最初から最後まで、蒔田とは目を合わせなかった。
合わせていたら、頭が真っ白になって、何もできなかっただろう。
お辞儀が終わって、完全に水屋に下がった時、物凄い緊張から解き放たれた感じがして、部屋の隅に
「大丈夫?理子?」
皆に介抱された。
「そりゃ、緊張するよね。蒔田先生なんだもん」
皆が口々に言う。
「ついてるんだか、ついてないんだか、わからないよねぇ」
その言葉には納得だ。
理子はそこで暫く休んでから、廊下へ出た。もう誰もいない。ホッとした。
だけど、どうして蒔田先生に心を乱されるのだろう。
相手は教師なのに。
大人で住む世界が違うのに。
自分で否定しても否定しても、否定しきれない想いがあるように感じた。
会わなければ、多分大丈夫だと思う。
これ以上気持ちが進む事はないだろう。
だが担任だから、否が応でも毎日会う。
おまけに、こうして、何かと接触がある。
本当なら、少しでも先生とのふれあいが多い方が嬉しい。
相手が同じ高校生だったなら、毎日、こういうふれあいが嬉しくて仕方なかったろう。
嬉しいだけで、憧れだけで済むのなら良いが、このままでいったら、本気になりそうで怖くなる。
叶わぬ恋に本気になっても、辛い思いをするだけだ。
相手にされない事はわかりきっている。
そんな事を思いながら、理子は枝本が待っている場所へと向かうのだった。