第19話

文字数 6,387文字

 文化祭当日。
 まだ少し残暑がきついが、天気に恵まれた。

 ホームルーム終了後、段取りを皆で確認し合い、九時ジャストに始まった。

 花火が上がる。

 学校の周辺や、中学の時の友人達を通じて他校へもチラシを配り、しっかり宣伝しておいたせいか、始まったばかりなのに外部の人間が続々とやってきた。

 ゆきは小泉と連れ立って教室を出て行った。
 頬を染めていて、初々しさが漂っている。
 そんな二人を、理子だけでなくクラスート達も横目で見送っていた。

 理子は耕介と今日一日のスケジュールや段取り等を確認した後、耕介と別れようとしたら、周囲から声が上がった。

「お二人さん、一緒に行かないの?それとも、どこかで待ち合わせ?」

 指笛が鳴った。
 むかつく。
 いい加減にしてくれ、って感じだ。

「残念でしたー。理子は俺と一緒だよー」

 そこへ枝本が割り込んできた。
 皆、一斉に驚いた。耕介も驚いている。

「お、お前、いつの間に.....」

「じゃぁ、そういう事でー」

 枝本は理子を促した。
 理子も枝本の行為に驚いたが、うざい連中にひと泡吹かせたようで、少々気持ち良い。

 教室を出た後、枝本がクックック.....と笑っていた。

「あいつら、凄い驚いてたな。一部の連中なんて、トンビにアブラゲさらわれたって感じの顔してた」

「トンビにアブラゲ?」

「そー。あいつら馬鹿なんだよ。結局、羨ましいから、あんな風に冷やかすんだ。気があるならそんな事しないでアプローチすればいいのに。ガキなんだよな」

 理子は黙って枝本を見上げた。
 何を言っているのかわからない。

 その視線に気づいたのか、枝本も理子の方を見た。

「俺も昔はガキだったな」

 それだけ言うと、「さぁ、じゃぁ、どこから見る?」と言って、プログラムを開いたのだった。


 文化祭の時にはカップルができやすい。クリスマスと似たような精神的欲求があるのだろうか?それとも祭りの高揚感か。
 この日は何故かカップルで回りたがる者が多いようだ。

 去年は須田先輩と一緒に回った。
 須田は優しくて、いつも理子に希望を聞いて、理子の希望を優先してくれた。常に気遣ってくれていた。

 今年はなんだか枝本のペースだ。
 枝本は一応、理子にも希望を聞くが、互いの希望が一致しない時の決断が早い。
 自分の希望を優先すると言うよりは、効率良く回れそうな方を優先していた。

 十時半少し前に一緒に作法室へと行き、枝本は正客となって、理子のお手前のお茶を飲んだ。
 静謐な時間が流れた。
 茶道部のお茶会は盛況だった。どの回も定員十二人満員でしっかり入り、次の回を待つ人間がいる程だった。

 知っている相手を前にしていると、さすがに緊張する。
 しかも相手は枝本だ。

 去年は初めてだった事もあり、何度か途中で次の動作を瞬間的に忘れてしまう事があった。
 今年はさすがに、それは無かったのでホッとした。

 周囲を見回すと、なんだか男子が多いなと感じた。前の回も男子が多かった気がする。
 自分の番が終わり、後片付けと次の回の準備をしてから廊下へ出た。
 やっぱり次の回のお客も男子が多い。

 校内の生徒もいるが、他校の生徒も多かった。
 やはり女子だけの部って、人気があるのだろうか?

 並んでいる他校の男子が、「ここの茶道部員は可愛い子が多い」と言っていた。
 そういう理由で来るのか。

 廊下に出ると枝本が待っていた。

「足、痺れた~」

 苦笑いしている。

「お茶はどうだった?」

「思っていたより、苦くないんだね。美味しかった」

「それは良かった。薄茶は甘みがあるくらい、美味しいんだよね」

 回し飲みをする濃茶は、ドロっとしていて非常に濃く、()てると言うより練るのだが、とにかく濃いので苦味が強い。
 だが高級な抹茶であれば、苦味の中にも甘味やうま味が感じられる。
 薄茶になると、ふわりと泡立てる事もあり、苦味が弱くて飲みやすい。

「だけど、お茶を点ててる姿、良かった。女の子らしくて」

「えっ?やだ。恥ずかしいじゃん.....」

 枝本の思わぬ言葉に赤面する。

「やっぱり、伝統文化っていいよね。日本女性らしさを感じる」

「枝本君は、そういう方が好きなの?」

「特にそういう方がいいってわけじゃないよ。良さっていうのは色々あるから。その内の一つに過ぎないよ。日本の文化や歴史も、良い面と悪い面と両方あるし」

「うん、そうだよね」

 偏りのない意見に共感した。

 それから二人は再びあちこちを回りだした。
 各クラス、各部、趣向を凝らしてあって面白い。

 それにしても人が多い。大盛況だ。
 途中で自分たちのクラスに寄ったが、思っていたよりも人気があった。
 水風船と綿菓子なんて、お祭りらしい出し物だが、かなりの賑わいだ。

 朝二人が教室を出た時にいなかったメンバーが、二人が一緒なのに驚いていた。
 特に女子の中には、不審そうな視線を寄こす者もいた。
 少しだけ恐ろしく感じる。

 午後一時には、理子の合唱部のコンサートが音楽室で開かれる。
 今回理子は、合唱の後にソロで歌うので大緊張だ。
 ソロで歌う事は、実は誰にも話していない。部員以外は知らない。

 枝本は当然のように一緒に音楽室に入った。入口にプログラムが置いてある。それを見て、驚いていた。
 その枝本を尻目に、理子はさっさと楽屋である音楽準備室へと入った。

 既に殆どのメンバーが集まっており、発声練習を始めていた。
 今回ソロで歌うのは、三年生の女子と、理子だけだ。
 三年生は今年最後だから抜擢されたが、二年の理子も抜擢されるとは思っていなかったし、人前でソロで歌うのは非常に恥ずかしくて断ったのだが、顧問の音楽教師の強い勧めで歌う事を決心した。

 歌うのはシューベルトの「ます」と、パイジェロの「うつろな心」だった。
「ます」はドイツ語で、「うつろな心」はイタリア語で歌う。

 やがて開演時間がやってきた。
 顧問教師を筆頭に、準備室から順番に出る。
 ピアノの横に三列で並んだ。理子は真ん中だった。指揮は顧問の教師で、ピアノは別の教師が担当した。

 ピアノの前奏の間、何となく、教室内を見回す。思っていたより入っていた。
 ゆきも小泉と一緒に来ていた。耕介もいたし、茂木までいた。
 枝本は一番前の席に座っていた。

 見知らぬ顔も多いが、先生方も数人きていた。
 その中に蒔田を見つけて、理子は心臓が止まるほど驚いた。
 一番後ろの窓際にいた。緊張感が一挙に高まる。

 合唱の方はまだいい。だが、ソロだ。
 どうしよう?先生の前で歌うの?
 途中で帰ってくれたらいいのに。

 そんな事を思いながらも、何とか集中するように努めたが、歌っているそばから、緊張が更に高まっていく。
 合唱が終わった時には、足が震えてきていた。

 最初に歌うのは三年生だった。
 先輩はシューベルトの「野ばら」と、フォスターの「夢路より」を歌った。
 どちらも、ドイツ語と英語の原語だ。

 自分の番がどんどん迫ってくる。
 体中が震えてきた。

 先輩が終わり、酷く緊張した状態で、前へ出た。
 見ないようにしていたのにも関わらず、つい、蒔田の方を見てしまった。
 おまけに目が合ってしまった。

 慌てて逸らしたが、蒔田は微笑んでいるように見えた。
 理子が歌っているのを、蒔田は一度聞いている。
 だが、あの時はポップスの弾き語りだ。今回は声楽曲なわけで、歌い方からして全然違う。上手く歌えなかったら、弾き語りの時よりも恥ずかしい。

 理子は何とか心を落ち着かせ、ピアノの方へ向いて頷いた。
 ピアノの前奏が始まる。
 「ます」の前奏は短い。四小節で曲に入る。しかもテンポが早いので、すぐに始まる。とにかく、歌うことだけに集中しなければ。

 原語で歌うのは難しい。発音もさることながら、感情表現がし難いのだ。
 日本語なら、歌いながら歌詞の意味が自分にも聞き手にもストレートに入ってくるが、原語は意味をわかっていても歌ってる時はどうもピンとこない。

 特に「ます」は、川魚の鱒が釣られる様子を見ている人間の、情景描写と感想が混じっている上にテンポが早いから、細かい表現をしにくい。
 どこでどう歌うのか、事前によく考えて決めておいて、その上でしっかり練習しないとならなかった。

 理子は練習した通りに歌うよう、ひたすら心がけて歌った。
 迷っていたら中途半端なものになってしまう。
 周囲の事なんて無視して、ただひたすらに歌う事に集中する。

 そうしてなんとか「ます」を歌い終わり、その頃には気持ちも大分落ち着いてきた。集中できてきているような気がする。

 次の「うつろな心」は恋の歌だ。
 恋煩いで、心がうつろになってしまった、というような意味の歌だ。
 テンポはゆっくりで、短い曲だった。

 この曲はただひたすらに、うつろな心の感情で歌えばいいので、「ます」よりは楽だ。
 情感の変化があまりない。
 如何に恋煩いのうつろな心で歌えるか、それしかない。

 原語で歌うので、ドイツ語やイタリア語がわかる人間か、歌曲が好きな人間にしか、意味はわからないだろう。プログラムに大意は書いてある。

 この曲も前奏が短く、すぐに始まった。
 高音から始まる。
 綺麗な曲なので好きだった。
 一生懸命情感を込めて歌い、終わった時に思いのほか拍手が多くて嬉しかった。

 やっと緊張から解き放たれた気持ちになる。
 とにかく何とか歌えたことで、理子自身も満足した。
 全員で挨拶をして、コンサートは終了した。

 部員や顧問もみんな褒めてくれて有難かった。
 興奮が冷めないまま、理子はすぐに準備室を出た。
 二時からお茶のお手前がある。急いで行かないとならない。

 枝本には話してあるので、一人で走るように作法室へと向かった。
 客足は、午前中よりは減った感じだ。並んでいる様子はない。
 これなら午前中より、少し落ち着いた気分でお手前ができそうだ。

 自分の番まで二十分はあるので、水屋の仕事をしながら息を整えた。
 まだ鼓動が激しかった。
 人前と言うだけでも緊張するのに、とんでもない本番だったとつくづく思う。

 お手前は大体二十分少々で終わるので、間の十分間で、お客の入れ替えと準備をする。
 理子の前の番が終わって入れ替えに入った時、歓声が上がったのが伝わってきた。
 受付係の女子が飛ぶように入ってきて、「蒔田先生が来た!」と言った。

 ええ~?なんでぇ~?
 どうして、またなの~?

 とことん、ついてない。
 偶然なんだろうか?
 だとしたら最悪だと思った。

 合唱部はプログラムの時間を見てきたのだろう。
 担任なので、まぁ、来るのも理解できるが、お茶会の方は、理子のお手前の時間は枝本以外には誰にも教えていない。部員に聞いたとは思えないし。

 水屋の方からそっと部屋を覗くと、案内係が正客を勧めていた。

(ひょえぇ~。正客?)

 私のお茶を先生が飲むの?
 うわぁ~、どうしよう?

 まぁ、どこに座られていても、点てている姿を見られるのは恥ずかしい。
 緊張して手を滑らせたりして、失敗しなければ良いのだが。

 室内も、受付件待合用の教室の方も、蒔田の存在にざわめいていた。
 普段接する機会が少ない一年生などは、顔を紅潮させて見惚れているし、他校の女生徒も顔を赤らめてヒソヒソと話していた。

 この回は午前と違って、男女半々だった。石坂先生も来ていた。
 気楽にできそうだと思っていたのに、とんでもなかった。
 朝より緊張してきた。しかも、今さっき歌を聞かれたばかりだ。

 蒔田先生は、私が登場したら驚くだろうか?

 そう思いながら、時間がきたので入口に正座して、扇子を前へ置き、おじぎをした。
 顔を上げた時に、何気なくチラッと蒔田を見たら、全く驚いた様子が無かった事に、理子の方が驚いた。

(まさか、私って知ってた?)

 もしそうなら、何故知ってるのだろう?納得がいかない。
 いかないが、始めるしかない。

 水屋に戻り、まず水差しを持って部屋へ入る。
 まっすぐ正面へ歩き、窯の左横へ置く。立ち上がって、踵を返し、しずしずと水屋へ戻る。
 次は懸垂と柄杓、そして茶碗と棗。
 全部揃った所でしっかり座り、居住まいを正す。

 左腰に挿してある袱紗を取り、(さば)く。
 一連の行為を流れるようにこなす。
 目の前に蒔田が座っている。
 
 理子は手元を見ているので、蒔田の膝あたりしか視界には入ってこない。
 それだけが救いだ。
 少々緊張するのは、お抹茶を茶碗へ入れた後にそそぐ湯だ。
 入れすぎないように注意した。

 茶筅で最初に「い」の時を書くように茶碗の端をなぞり、それから縦に手首を振って点てる。
 蒔田が飲むんだと思うと、力が入る。

 しっかり泡立った所で、「の」の時を書くようにして茶筅を静かにあげた。
 理子は体の向きを変え、茶碗を手に取って回し、蒔田の前に置いた。
 蒔田は次の客に軽く会釈をすると、長い手を伸ばし、一端自分の前へ茶碗を置いておじぎをした。
 
 見たところ、心得ているように感じられた。
 お茶を点てている間にお菓子が出されるが、その時の作法もスムーズだったように思えた。

 蒔田は再び茶碗を手に取ると、左へ二回、回した。
 茶碗を回すのは、茶碗の正面の模様を避ける為だ。
 亭主が回すのは、お客に茶碗の正面を向ける為である。

 飲む時は、その正面を避けるのが礼儀とされている。回す回数は表・裏や流儀によって多少異なる。

 理子は伏せ目がちに、蒔田の様子を観察していた。動作が慣れている。
 どうやら(たしな)みがありそうだ。

 お茶は三回で飲み干す。
 最後に飲み干す時に、蒔田の喉が見えた。右側の首すじに、黒子があるのに気付いて、ドキっとした。

 蒔田の茶碗が返された。それを引き取って、洗う。その手が震えた。
 茶碗を手に取った時、蒔田の手のぬくもりが残っているように感じたからだ。

 朝、枝本に点てた時とは、明らかに違う感触だった。
 どうしてこんなにも、心が揺さぶられるのだろう。
 それに、蒔田が口を付けた部分に神経が集中した。

 ドキドキする。

 自分の手元を蒔田がじっと見ているのを感じた。
 見られている。
 それだけで緊張した。
 この瞬間に、二人だけの時間と空間があるような感じがしたのだった。

 茶碗を洗い、茶筅を洗い、入ってきた時と逆の順番で道具を持って水屋へ戻る。
 最後に、茶室の入口で扇子を置いて深々とお辞儀をして終了だ。

 理子は最初から最後まで、蒔田とは目を合わせなかった。
 合わせていたら、頭が真っ白になって、何もできなかっただろう。

 お辞儀が終わって、完全に水屋に下がった時、物凄い緊張から解き放たれた感じがして、部屋の隅に(くずお)れた。普段よりも緊張して、余計に足が痺れたような感じだ。

「大丈夫?理子?」

 皆に介抱された。

「そりゃ、緊張するよね。蒔田先生なんだもん」

 皆が口々に言う。

「ついてるんだか、ついてないんだか、わからないよねぇ」

 その言葉には納得だ。

 理子はそこで暫く休んでから、廊下へ出た。もう誰もいない。ホッとした。
 だけど、どうして蒔田先生に心を乱されるのだろう。
 相手は教師なのに。
 大人で住む世界が違うのに。

 自分で否定しても否定しても、否定しきれない想いがあるように感じた。
 会わなければ、多分大丈夫だと思う。
 これ以上気持ちが進む事はないだろう。

 だが担任だから、否が応でも毎日会う。
 おまけに、こうして、何かと接触がある。
 本当なら、少しでも先生とのふれあいが多い方が嬉しい。
 相手が同じ高校生だったなら、毎日、こういうふれあいが嬉しくて仕方なかったろう。

 嬉しいだけで、憧れだけで済むのなら良いが、このままでいったら、本気になりそうで怖くなる。
 叶わぬ恋に本気になっても、辛い思いをするだけだ。
 相手にされない事はわかりきっている。

 そんな事を思いながら、理子は枝本が待っている場所へと向かうのだった。
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