第62話

文字数 4,810文字

「先生、ところで、今日会った友達の事なんですけど」

 食事が終わって蒔田の部屋へ入り、落ち着いた時に理子は今日の事を切り出した。
 枝本と話した事は、理子の心を大きく揺らしていた。

「うん。どうだった?」

 まだ何も知らない蒔田は、呑気な様子だ。

「実は、今日会った友達って言うのは、枝本君なんです」

 理子の言葉に、蒔田の顔がピクンと引きつったように見えた。
 だがそれも一瞬の事で、何とも無い顔をしている。

「理子は、今日話すと言って、昨日は敢えて言わなかったよな。俺が怒ると思ったか?」

「いいえ。ただ、.....」

「ただ?」
 理子は黙って俯いた。矢張り、昨日のうちに言っておいた方が良かったのか。

「俺は理子に、何もかも全てを話して欲しいとは思っていない。自分一人の胸の内に秘めておきたい事だって、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。だから、昨日、お前が敢えて言わないでいた事に対して怒ってなんてない。お前はまだ学生だし、友達同士の付き合いがあるだろうから、それを逐一俺に報告する義務は無いんだ。相手が男友達であってもな」

 なんだか、空気が重くなったような気がした。
 怒って無いと言いながら、気分が良さそうには見えない。
 話を聞く前の雰囲気とはまるで違っている。

 どうしたものか、理子は戸惑った。
 結局のところ、蒔田は何が言いたいのだろう。話しを聞きたくないと言うことなのか。

 蒔田は、それ以上何も言わず、だんまりだった。
 その事が理子の気持ちを逆なでした。

 何でいつも、自分ばかりがご機嫌取りをしなければならないのか、そんな気持ちが湧いてきた。
 こんな事で機嫌を悪くされるのが納得いかない。
 理子の中で更に怒りを呼び、フツフツと滾って来た。

 理子は立ちあがった。

「おい、まさか、また帰るなんて言うんじゃないだろうな」

 蒔田が驚いて理子を見上げた。
 
「こんな状態で、帰るなと言う方がおかしいですよ」

 理子は冷たく言い放つと、鞄を持って踵を返した。

「おい、待てよっ」

 蒔田がすぐに理子に追いついて捉まえた。理子はそれを振り払おうとしたが、蒔田の力が強くてできなかった。
 暫く揉み合った後、理子はベッドに押し倒された。両手首を掴まれて抵抗できない。
 理子は蒔田を睨みつけた。その目をまともに受けて、蒔田は怯んだ。

「何故、そんな目で俺を見る?怒ったのか?」

「怒るのは何も先生の専売特許じゃないんですからね」

 理子はそう言った。蒔田は理子の心の中を覗きでもするように、理子を見つめた。

「私もう、先生には何も話さない」

「おい.....」

「だって、聞く耳持たないって態度だったじゃないですか。聞きたくないんでしょ?」

「いや、そうじゃなくて、何も俺に無理して何もかも話さなくてもいいんだって事を言いたかっただけだ」

 その言葉を無視するように理子は言った。

「手を離してくれませんか?とても痛いです」

 理子はまだ、蒔田を睨んでいた。

「帰らないか?」

 質問には返答せず、ただ睨んだままだった。
 蒔田は溜息を一つ吐くと、手を離した。

「私は、話したくない事だったら、例え先生でも話しません。秘密は持ちたくないけど、どうしても秘密にしておいた方がいいと思う事だったら、何も言いません。全く気付かれる事も無いと
思います。石坂先生の事だって、言わずにいても良かった事です。言わないでいたら、私の心をあなたに知られる事は無かったし、そのせいでお互いに傷つくことも無かったです。でも、私は先生に知っていて欲しかったんです。だから、話しました。枝本君と会う事も、事前に話したら、先生は怒るまではしなくても、いい気持ちではないだろうって思いました。会う事を許してはくれても、きっと私と会うまで気を揉むに違いないと思ったから、会った後で話そうって思ったんです。別に、無理してるわけじゃないです」

 理子の話しを聞いて、蒔田は体を起こすと理子の隣に座った。

 蒔田は、またやってしまったと後悔した。
 ついさっきまで、下で理子の両親の話しをしていて、自分達は愛し合ってるから全てを許せると言っていたばかりだ。

 理子は男女の愛に一抹の不安を抱いたままだ。
 それなのに、こんな些細な事で理子を怒らせてしまった。
 彼女は俺に不信感を抱いたんじゃないだろうか。そんな思いが湧いてきた。

「悪かった。すまない」

 蒔田は謝った。

「私達って、何か会うたびに喧嘩してませんか?私、こんなの嫌。両親の、喧嘩とは言えない喧嘩を毎日のように見て育ってきたから、本当に喧嘩は嫌なんです」

 蒔田が理子を見ると、理子は泣いていた。静かに涙を零していた。
 蒔田は手を伸ばして、理子の頬を伝う涙を拭った。

「理子、本当にごめん。でも、こんなのは喧嘩とは呼べないよ。喧嘩とは呼べないが、お前に悲しい思いをさせてしまったのは確かだよな」

 そう言うと、理子の唇に唇を重ねた。

「俺が大人げなかった。相手が耕介とかなら、全然気にならないんだが、枝本と聞くと、どうしても胸がざわつく。お前にとっては、多分今でも、特別な相手だろうから」

 理子は驚いたように蒔田を見つめた。

「これからは、俺がこういう事で機嫌を損ねても、真剣に受け止めずに流してくれ。どうせ、一時的な事なんだから。枝本の事となると心穏やかではいられないが、お前の心を疑っているわけじゃない。お前の気持ちはよくわかってるつもりだ。それでも、平静ではいられない馬鹿な俺なんだ。そんな俺を赦してくれないか」

 理子は、ふっ、と笑みを浮かべた。

「わかりました。私もさっさと話しを先に進めれば良かったんです。だって、枝本君との話しって言うのは、小泉君とゆきちゃんの事なんですから」

 理子の言葉に蒔田は驚いた。なぜ枝本と、わざわざ会って話す事があるのかと疑問に思っていたからだったが、そういう事だったのか。

「先生。枝本君からメールを貰った時に、電話で話せないかって返事したんですよ。でも、二人の事で立ち入った話しになるから、できれば会って話したいって返事が戻って来たんです。最初に先生にそう言えば良かったのかもしれませんが、余計な気わずらいをさせたくなかったんです。先生だって、気になっちゃうでしょ?」

「そうか。そう聞くと、やっぱり俺って馬鹿だな。もっとしっかり話しを聞くべきだったのに、勝手にへそ曲げて、お前に悲しい思いをさせてしまったな」

 理子は体を起こすと、立ちあがって元の椅子へと腰を落ち着けた。
 蒔田はベッドに座ったままだ。

「先生.....。あの二人は、多分、もう駄目なのかな」

 理子は、枝本から聞いた話しをした。

「どうしてなのかな。枝本君は、小泉君の気持ちもわかるって言ってたけど、私にはわからない。女だから?」

「うん.....、それもあるかもな。前にも言ったが、最上はあまりにも相手に与え過ぎてしまった。まぁ、俺も、ああいう女が好みの癖に、今さら何を言ってるとは思うけどな。でも多分、最上は小泉の予想以上に依存性が高かったんだろうな」

「でも、それがゆきちゃんなんじゃ.....」

「だから、それじゃぁ、駄目なんだ」

 蒔田が強く言った。

「儚げな所が彼女の魅力とも言える。だが、だからと言って自分を無くして全て相手に委ねるのは、はっきりいって愚かな事だ。結果的に、弄ばれるだけだ。勿論、小泉は、最初からそんな気は全く無かったろう。好きだったから付き合い始めたし、セックスもした。でも、あまりにも相手任せってのは、無責任過ぎないか?自分の事くらいは自分で責任を持てないようでは、他人と付き合う資格はない。甘えるのと依存するのとは違うんだ。何もかも言いなりじゃぁ、まるで人形と変わらないじゃないか。人形と付き合っていて、楽しいか?」

 蒔田にそう言われて、確かにそうかもしれないと思った。

「最上は、もっと成長しないと駄目だな。好きだから、相手の言う通りにしたいって気持ちもわかるが、限度ってものがある。それに、時期も悪いし。このまま距離を置いて冷静になれば、卒業の頃には自然と道が別れてるんじゃないかな。その方が、そんなに辛い思いをしないで済むと思うぞ」

 矢張りそうなるのか。確かに、小泉がそういう気持ちでいる以上、どうしようもない。

「先生。枝本君に言われたんですけど.....」

「何を?」

「簡単に許す女は簡単に捨てられるって。だから、理子も気をつけろって」

 蒔田は笑った。

「気をつけろも何も、もう既に、やっちゃってるじゃないか」

「小泉君は、ゆきちゃんとのエッチが楽しくないって。枝本君が言うには、飽きたんだろうって。手に入れた事で興味も半減したからだって」

「まぁ、若い男は、まず性欲ありきだからな。ただ入れて、その時だけいい気持ちになるだけだ。あっと言う間に終わる。所詮は、それだけの事だ。なすがままになってる女だったら、飽きられやすいとは思うぞ」

 蒔田のあけすけな言い方に、理子は何と答えたら良いかわからない。

「あの、.....全部知ったら興味が無くなるって枝本君が.....」

「それは、その通りだな。人間、恋愛に限らず、知らないから好奇心を持って探究する。知ってしまえば、それで終わりだろう?」

「それじゃぁ、やっぱり、いつか飽きる時がくるんでしょうか?」

「そう簡単に考える所が子供なんだよ。大人であっても、そう考える人間が多いけどな。だけどな。人間ってのは複雑だ。本当に全てを知る事が出来ると思うか?俺からすると、知った気でいるだけだと思うが。要は思いこみだ。歴史を勉強して人間像を語るのに共通したものがある」

「そっか。きっと、こういう人物に違いないと勝手に決め付けてるって事ですね。意外性を考慮せずに」
 蒔田は笑顔になる。

「そうだ。お前にならすぐに通じると思ったよ。最上だって、小泉に完全に依存している彼女だけが、彼女の全てじゃないだろう?俺なら、もっと色んな姿を見たいと思う。その為にあれこれ試すだろう。でも、まだ高校生の小泉には、それは無理なんだろうな。重たいと感じるのも、仕方ない。受験の事もあって余裕が無いからだ。これも二人にとっては、いい経験になったんじゃないのかな。それぞれが、これからもっといい恋愛をしていけばいいって、俺は思うが」

 矢張り二人はこのまま別れて行く運命なのか。
 でも、これを機に、ゆきにはもっといい相手といい恋愛をして欲しいと思う。
 だが、暫くは辛いに違いない。初めての相手でもあるわけだし、簡単には忘れられないだろう。

「何を考えている?」

 急に黙り込んだ理子に、蒔田はそう尋ねた。

「いえ…、ゆきちゃんにとっては、小泉君は初めての相手だから、きっと辛いだろうな、と思って」

「それは、人それぞれなんじゃないか?」

「えっ?」

「初めての相手だからって、特別な思い入れをしない女だっていると思うぞ」

「それは、そうかもしれませんけど、ゆきちゃんは、違うと思います」

「ふぅーん。まぁ、理子がそう思うって事は、理子がそういう女だからなんだろうな」

「なんで、そんな事を.....」

「そうだそうだ。自分の言葉に激しく同意だ。その証拠に、枝本は理子にとって特別な存在じゃないか」

「あのぉ、一人で言って一人で納得しないで欲しいんですけど」

 蒔田は理子を見て笑った。
 
「お前、枝本に、俺に気をつけろって言われたんだろ?他に何を言われた?」

「えっ?」

 理子は、なぜ蒔田が笑っているのかがわからない。ある種、不気味だ。

「教えてくれ。凄く知りたい」

 矢張り笑っている。知りたいと言われたら、隠してはおけない。
 だが.....。

「言いたくない事は、無理して言わなくてもいいって、さっきおっしゃったような.....」

 ついまた、天の邪鬼が頭を(もた)げてしまった。

「言いたくない事なのか?」
 
 蒔田が睨みながら言う。
 なぜ、睨む。結局、こうなんだ、この人は。
 仕方なく理子は折れた。
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