第80話

文字数 4,036文字

 二学期が始まった。
 今年の夏は例年に比べると涼しかった事もあり、勉強するには良い夏だったと言えた。
 毎金曜日の補習クラスの存在は、長い休みでダレがちになる受験生にとっては有難い存在だった。

 ペースを乱さず済んだ。夏に行われた模擬試験の結果も、全員が概ね好感触で、指導に当たっている蒔田も、生徒達に手ごたえを感じて気持ちがハイになってきた。

 ここからは模試の結果を踏まえて、答案用紙の書き方や時間配分等、具体的な部分を中心に勉強する事になる。
 全員に志望校に受かって欲しいと願わずにはいられない。
 それ程みんな、よく頑張っていた。

 この夏休み、父親との事で会って以来、理子とは二人きりでは会っていなかった。
 勉強の邪魔をしたくはなかったし、自分も忙しかったのもある。
 理子の方からも、何も言っては来なかった。

 休み中、理子は姉の紫に連れられてウエディングドレスを決めに行ったようだ。とても素敵なドレスを選んでくれたと喜んでいた。
 半日をドレス選びで費やしたわけだが、その事で別段焦ったりもしていなようで安心した。

 別の日は、一日、最上ゆきと熱海まで海を見に行ったと言っていた。それには丸一日を費やしている。
 熱い盛りの真夏日なのに、海を見る為だけにわざわざ熱海まで出かける事には、さすがの蒔田も驚いた。

 去年と一昨年は伊東まで行ったと言う。
 今年は受験があるから熱海にした、と聞いたが、それなら江の島や鎌倉でもいいじゃないかと思うのだが、本人達は伊豆の海を見たいのだと言うのだった。

 そんなに海が好きなのか。
 泳げないのに。
 ハネムーンは海のある場所にしようと蒔田は思った。

 理子は他の日にも、家族の毎年恒例の伊豆高原への二泊三日の避暑にも出かけていた。
 父親の会社の保養所があって、子供の時から毎年行っているそうだ。
 伊豆高原なのでビーチは無い。

 保養所は海に近い場所にあるから海がよく見え、夜は潮騒が煩くて、なかなか寝付けないのだと言う。
 今年は潮騒の音を聞きながら、先生の事を思っていた、とメールが来た時、蒔田の胸は嬉しさに熱くなった。

 こうして長い夏休みを、理子は有意義に過ごしたようだ。
 受験生にとっては最大の夏とも言えるが、切羽詰まった感は全く感じられなかった。逆に余裕すら感じられる。模試の結果も上々だった。
 油断はできないが、この分でいけば合格への確かな手応えを感じられる。

 月末に文化祭がある。
 三年生は殆どのクラスが展示なのに、蒔田のクラスは意外にも、自主ビデオを制作して上映する事になった。
 受験の意識が高いクラスなだけに、この提案には蒔田も驚いた。

「今年最後だからこそ、何か形になる物を残したいです。ありきたりの展示なんかじゃなくて」

 その意見に、多くの者が賛同した。
 ドキュメンタリー作品として、全員が一、二分程度の学校生活の様子を撮影し、それを五十分程度に編集すると言うものだった。

 学校内の事柄であれば何を撮っても構わない。勿論、倫理に抵触する内容は禁止である事は言うまでも無い。
 人であろうと、風景であろうと、物であろうと、何でも構わない。

 だがそうすると、作品としての出来は全て編集にかかってくると言える。
 編集次第で、ただのつまらない記録映画になるか、面白いドキュメンタリーになるかが決まってしまう。
 その編集の仕事を、生徒達は蒔田に振って来た。

「もし、つまらない作品になってしまったら、責められるのは編集した人間ですから、それを誰かに押しつけるのは可哀そうじゃないですか。そのショックで受験に失敗したら大変だし」

 そう言われて、蒔田は辟易とした。
 蒔田だって忙しい。それこそ、つまらない作品になったら、責められるのは自分ではないか。

「俺はやりたくない」

 蒔田ははっきりと断った。

「ええーっ?」
 
 ブーイングだ。どの顔も不服そうにしている。

「お前らの文化祭だろう。お前らがやりたくてやるのに、何で最後の編集を俺に投げるんだよ」

「でも、先生…」

「でもじゃない。俺だって忙しいんだ。自分達で全部できないなら、最初からやるな」

 結局、生徒達は自分達で編集する事になった。
 誰が編集するか希望者を募ってみたら、数人が手を挙げた。その中に、理子がいて驚いた。
 東大を受験すると言うのに、そんな事をして大丈夫なのか?

 茶道部と合唱部の練習もある。合唱では、今年もソロをやると言っていた。
 思いも寄らない事だったから、つい理子を凝視してしまった。

 理子は蒔田の驚いた視線を受けて、にっこりと微笑んだ。それを見て慌てて視線を逸らす。
 撮影は九月半ばまでで、編集はそれからやる。
 撮影の順番はクジで決めた。

 蒔田はその日、理子にメールした。

  “編集なんて引き受けて、
   大丈夫なのか?”

  “多分…。好きなんです、
   そういう事。
   最初で最後だから楽しみです”

 理子の返事を見て、度胸のあるヤツだと思った。
 そう言えば、写真を撮るのが好きだと言っていたと、姉の紫から聞いた。
 それを聞いて、紫が結婚祝いに一眼レフを買ってやる約束をしたが、ついでに高級なレンズまで買ってやるハメになったと笑っていた。

 それにしても何だか不安になってくる。
 彼女の事だから気を抜いているわけでは無いだろう。
 だが、この余裕な感じは一体なんなのだろう?
 もしかしたら、不安の裏返しなのだろうか。


 理子は文化祭のビデオ撮影で、自分の番が回って来た時、蒔田との思い出の場所を撮影した。
 教室、職員室、図書室、音楽準備室、体育館、職員玄関、校長室、二人で歩いた廊下…。
 ありきたりの風景だが、理子の目から見たアングルで撮った。

 これらの風景を映画の中に散りばめたい。そう思って編集を買って出た。
 立候補をした中に、岩崎もいたので心強い。

 元々、写真やビデオ撮影は大好きで、家でも自分が殆ど担当している。
 父の宗次もそういった事が好きだった。だが、母は撮られるのが嫌いだ。
 撮られるのが嫌い、と言う点では、理子も同じだった。
 撮られるより、撮る方が面白い。撮られるのが嫌いなのは自分に自信が無いからだ。写った自分が気に入らない。

 今年の夏休みは、理子にとっては辛い日々だった。
 週一の補習クラスがあったのが救いと言えた。
 何が一番辛かったかと言えば、家にいる事だ。

 まだ中2の妹、優子は、毎日のように友達と遊びに出ていた。
 理子と優子は四つ違いで、小学校は二年間だけ一緒に通った。
 優子が学校に入って一緒に遊ぶ仲良しの友達ができるまでは、理子がいつも連れて歩いていた。

 黒目勝ちで色白の可愛い妹だったので、友達の家へ連れて行っても喜ばれた。
 この妹と理子は仲が良い。
 喋り出すのが遅く、勉強も利発とは言えない、のんびりした妹の世話を、理子はいつも焼いてきた。

 母も、この成長の遅かった娘が生まれてからは彼女にかかりきりで、理子は早くから放っておかれた。
 苛めにしても、優子が小2の時に苛めに遭った時、母は学校へ怒鳴りこんで行った。
 理子が受けた仕打ちに比べれば大した事では無く、本人も逆に迷惑だったと後から言っていた。

 普段の生活でも、母は妹には甘い。
 ピアノにしても、優子が習いたいと言い出してから買ったのだった。
 経済的な理由もあって、理子が習い始めた時は安い電子ピアノだった。それでも大変な中、買ってくれて習わせてくれたのだから感謝しなければならない。

 受験にしても、理子は県立高校一本で滑り止めの私立の併願は無しだった。
 その為に、確実に入れる所と言うことで、ランクを二つも下げて朝霧高校になった。大学も同じだ。国公立一本のみ。

 妹は学力が劣る事もあってか、今から私立の滑り止めを考えているようだ。
 母の話しだと、三年になったら家庭教師を雇うかもしれないとの事だった。

 こうやって考えてみると、姉妹での不公平感は拭えない。それでも理子は、母に不満は持っても妹への愛情には微塵も翳りが無かった。
 母に対しても、高校の事に関してだけは、ランクを下げて朝霧へ入学したからこそ、蒔田と出会う事ができたのだから感謝している。

 三者面談の時に蒔田から色々と言われた母だったが、結局のところ、あまりこれまでとは変わっていない。
 母はいつもそうなのだ。言われた最初のうちは実践していたが、すぐに元に戻った。

 中学へ進学して給食から弁当になった時も、弁当を作ったのは最初の一週間だけだった。
 後は殆どがパンで、時々気が向いた時やたまたま早く起きられた時に、前日の残り物があれば、それを詰める、そういう弁当だった。

 そんな調子だから、食事に関しては特に気を使われてはいなかった。
 朝食は相変わらず理子が作る。
 夏休みに入ってからは、昼食も理子が作った。
 あり合わせの材料で簡単な物を作るのだが、人に作らせておきながら、内容や味に母は煩く文句をつける。

 それに対して文句を言うと、「親に対して何を言う」とか、「居候の癖に生意気な」と、怒られる。
「この家にいる限り、この家の決まりに従ってもらう」といつも豪語している。
「この家の決まり」とは、母が一人で勝手に決めた決まりで、その時の気分によって変わる場合が多い。

 蒔田から言われて、唯一改善されたのはノックだった。
 あれ以来、母はノックをしてからドアを開けるようになった。だが、ドアの前へ来るまでは、相変わらずの忍び足だった。

 何故、足音を忍ばせてやってくるのか、理解できない。
 娘が部屋で一体何をやっているのか。
 本当に勉強をしているのか。疑っているとしか思えない。

 ノックも無しに、いきなりドアを開けられていた時は、毎度の事ながら心臓がドキっとして本当に迷惑だったので、取りあえずノックをしてくれるようになって、少しは落ち着いた。
 それでもノックはいきなり来るわけだから、あまり心臓に良いとは言えない。

 この母と、毎日二人だったのだ。


 
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