第68話

文字数 6,392文字

 翌日、蒔田は少し早目に家を出た。
 朝から雨だった。
 傘を差していれば濡れる程ではないが、少し肌寒い。どうも今年の梅雨は気温が低めのようだ。病み上がりの理子が心配になった。

 栗山高校へは先に到着した。
 ホッとする。
 雨の中で理子を待たせたくなかった。

 以前五分しか待たないと言ったせいなのか、理子はいつも時間より早くに来ていた。
 その理子は、この日、約束の時間の十五分も前にやってきた。いつも、こんなに早く来ていたのかと驚いた。

 だが今日は、もしかしたら来てくれないかもしれないとう一抹の不安もあったので、理子の姿を見た時、安堵した。
 蒔田は車から降りて、理子を乗せた。理子の表情は相変わらず暗い。

「ごめんな、今日も雨だな。体、大丈夫か?」

「はい。もう平気です」

 理子は静かにそう答えた。
 今日の理子は臙脂色のTシャツの上に赤と白の細かいギンガムチェックの長袖のシャツを着ていて、デニムのひざ丈のスカートを履いていた。
 少女らしくて可愛らしい。赤系を着ているのを見るのは初めてだった。
 シャツの袖は長めで、矢張り手を隠していた。

 蒔田は、あえて車の中では何も訊かなかった。理子は窓の外を眺め、蒔田は黙って運転していた。

「今日は、ご家族は?」

 到着近くになって、理子が尋ねて来た。

「今日は、お袋がいる」

「そうですか.....」

「二人きりの方が良かったか?何なら、母さんに何処かへ行ってもらおうか?」

「そんな、とんでもない」

 そう言って理子は微かに笑った。その様子に蒔田の心は少し癒される。
 やがて車は蒔田家に到着し、母親への挨拶もそこそこに蒔田の自室へ入った。

「あの、お母さんに失礼じゃなかったですか?」

「いや、大事な話しがあるからって、既に話してあるから心配しなくても大丈夫だ」

 蒔田はそう言うと、理子を抱き寄せた。理子は蒔田の腕の中で、心なしか体を固くしているように感じられる。
 暫く抱きしめた後、蒔田はそっと、理子と共にベッドに腰を下ろした。

 理子の手を取る。傷は既にかさぶたになっている。痣も薄紫色だ。
 手首の紫の線も薄くなりかけていた。週明けには目立たなくなるだろう。
 蒔田は理子の二の腕を掴んだ。理子は顔を歪めた。矢張り、ここにも何かありそうだ。

 蒔田は何も言わずに、理子のシャツのボタンを外し始めた。抵抗するかと思ったが、理子は黙ってされるがままになっていた。
 ボタンを全部外し、シャツを肩から下げたら、現れた両方の二の腕に、手で掴まれた痕が残っていた。指の痕が付いている。

 少し時間が経過したからだろう。輪郭はぼやけていたが、どう見ても男の手だ。しかも、かなりの強さで掴まれたのだろう。
 でなければ、こんなにはっきりとした痕は付かない。

 蒔田は動揺した。
 一体理子の身に何が起きたのか。いや、大体の察しはつく。
 つくから動揺するのだった。

 二の腕を強く掴まれ、押し倒された。そして両手を縛られて自由を奪われた。これだけの力がある男だ。両手を縛られたら抵抗できまい。
 想像しただけで恐ろしかった。体が震えて来る。

 ふと視線に気づき、理子を見た。理子は怯えた目で蒔田を見ていた。
 その瞳には涙が滲んでいた。それを見て、蒔田は思い切り理子を抱きしめた。一番傷ついているのは彼女なのだと実感した。

 理子は蒔田の腕の中で泣きながら言った。

「え、枝本君が、助けてくれたの.....」

 その言葉に、蒔田は理子の顔を見た。

「く、口にハンカチを詰められて.....、手首をネクタイで縛られて、馬乗りになられて.....。シャツのボタンを外されて.....。抵抗したら頬をぶたれて.....。もう、駄目かと思ったら、.....枝本君が来てくれて.....、それで助けてくれたの.....」

 蒔田は理子の言葉に愕然とした。

「相手は、渕田か」

 理子は頷いた。

「れ、歴研の部活が終わって.....、忘れ物に気付いて教室に.....、取りに.....」

 理子はその時の事を詳しく話した。それを聞いて、蒔田は激しい怒りが湧いてきた。

「怖かった.....、凄くっ」

 理子はそう言うと、蒔田に泣きながら抱きついた。蒔田はその体を強く抱きしめた。

「ごめんな、.....助けてやれなくて。同じ校内にいたと言うのに」

 理子は激しく頭を振った。
 蒔田は、いつも一緒にいてやれない自分をもどかしく思った。
 しかも、何かあってもすぐにこうして抱きしめてやれない。人目を気にしなければならない関係を、今日ほど恨めしく思うことはない。

 昨日の枝本を思い出した。
 異常に思える程、怒っていた。事情を知れば納得な事だった。あいつが心配して教室まで行かなければ、理子は渕田に犯されていただろう。考えただけでゾッとする。

 暴力によって無理やり、理子の心と体を凌辱するなんて絶対に許せない。
 かろうじて無事ではあったが、理子はどんなに怖い思いをした事か。
 怪我だってしている。

「渕田の席は、昨日、一番後ろに移動させたから、取りあえずは安心していい」

 蒔田は理子を抱きしめながらそう言った。理子は体を小刻みに震わせていた。理子の恐怖がそのまま体を通して伝わってくるようだった。

 ただ押さえつけただけではなく、口にハンカチを詰めて手を縛るなんて、卑劣極まりない。
 それだけでも、恐怖は倍増しただろう。

 そんな事をしておいて、渕田の様子はいつもと変わらなかったのだ。
 逆に、席替えに対して睨みつけて来た。なんて傲岸不遜なヤツなんだ。

 あいつはこの事を、武勇伝のように人に話したりはしないだろうか。
 自分の行為がバレたら、テニス部の試合には出れなくなるだろう。
 だが、理子を窮地に追い込む為に、自分の事は伏せておいて噂を流す事は可能だ。

 何か手を打たなければと、蒔田は思った。
 いずれにせよ、このままでは蒔田の気が済まない。

 蒔田はまだ泣いている理子を優しくベッドへと横たえた。
 涙に濡れた頬に口づけする。顔に幾つかある小さい傷は、抵抗してできた傷だろう。
 口を強く押さえつけられたと言っていた。おまけにぶたれている。
 蒔田はそっと傷口を舐めた。

「先生.....」

 理子が掠れた声で蒔田を呼んだ。

「んっ?」

 蒔田は理子の顔を見た。悲しい目をしている。

「もし、私が無事じゃなかったとしても、.....こうして優しくしてくれた?」

「何言ってるんだ。当たり前じゃないか。どんな事があっても、俺はお前を離しやしない」

「他の男に穢されても、平気なの?.....抱けるの?」

 蒔田の心は暗くなる。できれば考えたくない事だった。

「無事だったんだから、いいじゃないか。仮定話しほど馬鹿げたものは無いと言ってただろう?」

「でも.....」

 理子の悲しそうな顔を見て、蒔田は答えるしかないと思った。

「じゃぁ正直に言う。平気じゃないよ。平気なわけがない。愛する女をそんな目に合わされて、平気でいられるわけが無いだろう?今だって、心が煮え滾ってる。だが、それは理子のせいじゃない。100%、理子のせいじゃないんだ」

 理子は潤んだ瞳でじっと蒔田を見つめている。

「それに、無理やり凌辱されたからと言って、穢されたなんて思う必要もない。そんな考えは馬鹿げてる。それよりも問題は心だよ。心が深く傷つけられる。それが一番悲しい。俺は、全身全霊を込めて、癒してやりたいよ。だから、自分を追い込むな。俺だって、お前を俺の手で守ってやれなかった事が悔しくて、悲しいんだ」

 蒔田をはそう言うと、理子の唇に自分の唇を重ねた。
 理子は震えている。
 怖いのだろうか.....。

 そっと舌を入れてみた。理子の舌先があたる。
 その舌先に舌を絡めた。理子は大人しく、蒔田に従っていた。必要以上に怯えてはいないようで、安心した。

 蒔田はTシャツの上から、理子の体を撫でた。まだ少し震えている。
 シャツの下に手を入れたら、ビクンと体が大きく揺れた。

「大丈夫か?」

 心配になった。

「大丈夫です.....」

 か細い声で理子が答えた。

「なぁ、理子。無理しなくてもいいんだぞ」

「先生.....」

 蒔田の言葉に、理子は切なげな表情をした。

「嫌な時は嫌だって言っていいんだ。それでも俺は聞かない時もあるけどな」

 そう言って、笑う。少しでも理子の心を軽くしてやりたかった。

「先生、ありがとう.....。先生のエクボ、見たいな。見せて」

 思いもよらない理子の要求に、蒔田は驚いた。

「こんな時に、エクボかよ」

「うん。だって、先生のエクボ、素敵なんだもん。エクボを見ると、心が軽くなるの」

 蒔田は軽く溜息をついた。そう言われたら、見せるしかない。
 蒔田は理子に向かって、エクボができる笑みを浮かべた。可笑しな事なんて無いのに、無理に笑う。

 それを見て理子も笑った。手を出してきて、人差し指で蒔田のエクボをツンツンしだしす。
 蒔田は笑顔を保ったまま、突かれるに任せていた。
 理子は嬉しそうな顔をしている。
 暫く突いて満足したのか、手が蒔田の髪に触れてきた。

「先生の髪、柔らかい.....」

 そう言って自分を見る理子は、とても澄んだ瞳をしていた。それを見て蒔田はたまらなくなった。
 自分が最も大切にしている宝物を傷つけ、奪おうとした渕田に憎しみが湧いてきた。
 そして、たまらなく理子を抱きたくなった。

 蒔田は自分の髪を触る理子の手を取ると、その傷ついた甲に口づけた。
 もう一方の手も取り、同じように口づける。その行為に、理子は頬を染めた。
 そんな理子が更に愛おしくなる。

 唇を重ね合わせ、そっと胸元に手をやった。理子の体は一瞬震えたが、それは恐れからでは
ないようだった。
 蒔田は唇を徐々に下へと移動させた。
 首筋を唇でそっとなぞると、理子から甘い吐息が漏れた。舌で舐めると、更に息が上がる。

 シャツの下に手を入れて、直接理子の肌を撫でた。
 なんでこんなに滑らかなのだろう。
 誰にも見せたくない、触れさせたくない。

 Tシャツを脱がせて、下着も取った。真っ白い体の中で、二の腕の痣が余計に目立ち、痛々しい。唇と舌で隈なくなぞる。
 蒔田の顔が肩にさしかかった時、肩甲骨の上辺りに痣があるのを見つけた。押し倒された時にできたものと思われた。再び怒りが湧いてくる。
 そして、急に心配になった。
 
「理子、お前、頭を打ってないか?」

「えっ?」

 いきなりの質問に理子は戸惑いの表情を見せた。

「押し倒された時、頭は大丈夫だったか?」

「多分.....。意識ははっきりしてたし、多分大丈夫かと」

 蒔田は理子の頭を抱えると、手で一通り瘤ができていないか確認した。
 大丈夫なようでホッとする。体の所々に出来ている痣を見て、急に心配になったのだ。
 ホッとしたところで、蒔田は再開した。

 理子の体中に口づける。
 理子の体が中から熱くなってくるのを感じた。
 唇を這わすたびに喘ぎ声が漏れる。理子の声は普段から高くて美しい。その声に甘さが加わちり、蒔田を一層掻き立てる。

 蒔田は理子と繋がった時、できるだけ長く中にいたいと、いつも思う。
 ずっと繋がっていたい。
 片時も離したくない。常にそばにいたい。

 いっそこのまま、さらってしまえないものか。
 誰も知らない場所へ二人で逃げてしまいたい。
 そんな思いに駆られるのだった。


 理子は蒔田に会うのが怖かった。
 見舞いに来た蒔田を見た時、心臓が止まるかと思った。
 まさか、自宅まで訪ねてくるとは全く思っていなかった。

 これが本当にただの風邪で休んでいたのだとしたら、とても嬉しかったのに。
 だが、自分の目の前にいる蒔田を見ていると、その腕の中に飛び込みたい衝動に駆られた。
 蒔田には知られたく無い。先生が知ったら、どう思うだろう?
 こんな私を嫌がらないだろうか?疑心暗鬼になる。

 その一方で、先生の腕の中で癒されたいとも思うのだった。

 『何があったんだ。俺には話せない事なのか?』

 そう尋ねられた時、迷いが生じた。
 話せない事だ。話したくない。
 でも、このまま隠して付き合ってもいけない。
 だから覚悟を決めた。

 話しを聞いて蒔田がどう思うのか、怖かった。
 既に傷を見た状態で、大体の事を察してしまっている。
 動揺しているのが、見ていてもわかった。

 理子が不安げに見つめていたら、蒔田はそんな理子の気持ちを察したのか、抱きしめて来た。
 ここではっきり言っておかなければ、先生は誤解したまま深く傷つくだろうと思った。
 
 今は、話して良かったと思っている。
 先生は変わらずに、今も自分を愛してくれている。
 ただ、自分の手で守れなかったと言うことに関してだけは、まだ自責の念を持っているようだった。

 理子は蒔田の胸に顔を乗せていた。しっかりした力強い心臓の鼓動が聞こえてくる。それを聞いていると安心感が湧いてくるのだった。
 この人が好きだ。ずっとこの人のそばにいたい。ずっと、こうしていたい。
 この人のぬくもりが私を癒してくれる。離れたくない。

「理子、月曜日は登校できそうか?」

 蒔田が静かな声で聞いてきた。
 理子は考えた。渕田の顔を見たくない。その一言に尽きる。
 あいつに会うのが怖いのだ。席が一番後ろになったのなら、まだ心的負担は和らぐ気はしたが。

「行くのが嫌なら、無理して行かなくてもいいぞ」

「先生?」

「勉強は家でもできるし、行く事でストレスを溜めるのは良く無いからな」

 そう言ってくれるのは有難かったが、多分、母は許さないだろう。
 何とかして登校させようとするだろうし、下手すると受験をさせてもらえなくなる恐れもある。

「先生、私は大丈夫です。それに、このまま行かなくなったら却って(しゃく)だし」

 本当にそうだ。あいつに負けてなんていられない。

「そうか。わかった。少しでも何かあれば、すぐに言うんだ。いいな?」

 理子は頷いた。

「いつでもそばにいてやれない自分が、もどかしいよ」

「先生、それは先生じゃなくても同じです。二十四時間ずっと一緒にいられる人なんていないんだし」

「それはそうだが、それでも例えば、枝本とかなら放課後も一緒にいられるし、家まで送ってやれる」

 蒔田は悔しそうに言った。
 理子は思い出す。枝本に助けてもらった時の事を。

 彼は頼もしかった。渕田が去った後、躊躇いがちに優しく抱きしめてくれた。
 理子は最初戸惑ったが、震えが止まらず、その胸で泣いてしまった。
 枝本の気持ちは知っている。そんな風に自分を抱き止めてくれた彼の気持ちを(おもんぱか)ると、何だか申し訳ないと思う。

「同じ学校の人とか同僚とかでない限り、毎日一緒に帰るとか無理な話しですよ。まぁ近い場所にいる人と恋愛してるのが一番多いかもしれませんけど。そういう点では、私達も近い場所にいる者同士ですけどね」

「そうさ。近い場所なのに、遠いんだ」

『近い場所なのに、遠い』、蒔田のその言葉が胸に沁みる。

「お前が今度の事で、心を閉ざさないでくれて良かった。昨日、お前の家へ行って良かったよ。最初は俺を拒んでたな。あのまま心を開いてくれなかったら、どうしようかと思った」

 そう言いながら蒔田は理子の髪を撫でていた。

「私、とても先生の顔をまともに見れなかった。なんだか怖くて。本当の事を知ったら先生はどう思うだろうって。でも、隠し続ける事なんて無理だし、何も言わずに先生から逃げ回るのも嫌だと思ったから。だって、私には先生しかいないし…」

 蒔田は理子をギュッと抱きしめた。

「それを聞いて、安心したよ。これからも、何があっても俺にだけは心を閉ざさないで欲しい。俺だって、お前しかいないんだから」

 そう言って理子を見つめる蒔田の瞳には、熱い情熱が溢れていた。
 理子は、その想いが嬉しかった。
 自分の居場所はここしか無い。
 この人の中にしか無いのだ。そう改めて実感するのだった。
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