第99話

文字数 4,088文字

 翌朝、すっきりと目が覚めた。
 軽くストレッチをした後、着替えて階下へ降り、暖房を入れて朝食と弁当の支度を始める。
 六時に父が起きて来た。

「おはよう。どうだ?いよいよだな」

「うん。いよいよ。でも、まだ始まりなんだよね」

 理子はそう言って、父にホットミルクを渡した。

「先生は、何て言ってる?」

「焦らず落ち着いてやれば、大丈夫だろうって」

「そうか。なら、その通りにやるしかないな。気休めを言う筈は無いんだから、大丈夫と言われたら大丈夫なんだと、お父さんは思う」

「うん。ありがとう。お父さんの言う通りだと思う。頑張るね」

「しっかりな」

 父はそう言って、家を後にした。

『気休めを言う筈は無い』と言った父の言葉が胸に沁みた。

 七時になって、理子が家を出ようとしていた時に、母が起きて来た。いつもより早い。

「大丈夫?忘れ物は無い?しっかりね」

 振り返ると、心配そうな表情をした母がそこにいた。

「大丈夫。忘れ物は無いから。じゃぁ、行ってきます」

 理子は笑顔で家を出た。

 自転車で駅まで行き、電車に乗る。学生が多いのは受験生のせいだろう。
 電車が会場の駅へ近くなる程、混雑は増し、それに比例するように理子の心も緊張してきた。
 みんな同じ駅で降り、同じ場所へ向かうので、道に迷う心配は無かったが、なんだか足元が妙に寒い。

 昨日は穏やかで暖かい一日だったが、今日は曇天のせいか昨日より気温が低い。
 晴れて来なければ気温も上がらないだろう。

 会場の入口にある掲示板を頼りに、教室へと移動する。教室へ着くと、まだ、まばらな感じだ。
 理子は普段から遅刻をするのが嫌いなので、いつでも必ず時間よりもかなり早く行く。今回は三十分前だ。

 人との待ち合わせの時には十分前で、学校も始業の三十分前に登校している。とにかく早く目的地に到着しないと落ち着かないので、十分時間に余裕が有っても、一刻も早く着きたい衝動に駆られ、自然足早になるのだった。だから理子は歩くのが速い。

 会場の入り口では人が多かったので緊張したが、教室へ来てみると思っていたより少ないので、緊張の糸が少し緩んだ。
 だが時間の経過と共に増えてくる様を見て、再び少しずつ緊張が高まって来た。

 理子の席は前から三分の一ぐらいの場所か。
 時々振り返って後を見ると、当たり前だが確実に増えている。
 理子は鞄から筆記用具を出した。その時、スマホのメール音が鳴ったので開けてみたら、蒔田からだった。胸の鼓動が高まる。

  “おはよう。体調はどうだい?
   緊張した時には、君の首元と
   腕に手を当てるといい。俺の
   鼓動を感じる筈だ。俺はいつ
   でも、君のそばにいるから。”

 理子はジッと、そのメールを見続けた。とても嬉しかった。
 そろそろ会場に到着して、緊張し始めている頃に違いないと思って、メールをくれたのだろう。いつでも自分を思ってくれている、と実感する。

  “メール、ありがとうござい
   ます。緊張しだした時だっ
   たから、勇気づけられまし
   た。先生を感じながら、頑
   張りますね。じゃぁ、これ
   で、電源切ります”

 理子は、そう返信してから、スマホの電源を切った。


 午後の試験が始まった頃、理子は体調が変化してきたのを明確に感じた。午前中の後半あたりから、兆しを感じてはいたのだが、それが確実になってきたようだ。
 原因は寒さだ。

 暖房は入ってはいるが、長時間座ったままである為、足元からの冷えがきつい。
 冷え性なわけではない。だが高校の教室と違って広い為、暖房が入っていても足元は暖かくならないのだった。

 上半身は丁度良いと思う。
 これ以上暖かくなったら頭の働きが鈍くなるだろう。また、暖房を強くしてもらった所で、上ばかりが温まって、足元は変わらないに違いない。

 そのうちに、下からの冷えが上にまで伝わってきて、全体的に寒気を感じるようになり、終いには頭痛がし始めて来た。
 このくらいの頭痛なら、試験に差障りは無い。だが、酷くなってきたら困る。

 理子は休み時間に頭痛薬を飲んだ。早めに手を打っておかないと、後に響くかもしれないと思ったからだ。
 それから軽い運動をして体を中から温めて着席すると、コートを足に巻きつけた。膝の上に掛けてはいたが、スースーして矢張り寒かったからだ。巻きつけると大分違う。

 これから英語の試験だ。リスニングがある。一番集中を要求される。
 それに、試験は今日で終わりではない。まだ明日がある。明日まで響いては大変だ。明日は一日、理科と数学だからだ。


 その後、試験は何とか無事に終了した。早めに手を打っておいたせいか、悪化せずに何とか持ちこたえる事ができて、理子はホッとした。だが、寒い。
 体の芯まで冷えてしまったように感じる。

 理子はさっさと片付けてコートを着ると、足早に教室を出た。人でごった返している。
 誰かと顔を合わすかと、朝も帰りも思ったが、結局誰とも顔を合わさなかった。

 電車に乗ってからスマホの電源を入れると、LINEが何件か入っていた。
 枝本と岩崎とゆきからだった。

 枝本と岩崎は昼休みの時間帯で、午前中の様子を訊ねてきていた。ゆきの方は、試験終了後、間もない時間で、矢張り結果を訊ねたものだった。
 理子は三人に返信した。その後の枝本と岩崎とのやり取りで、三人の教室がそんなに遠くない事を知り、明日は昼休みに一緒にお昼を食べようという事になった。
 茂木の事を訊ねたら、茂木は棟が違うから無理だとの事だった。

 家へ帰ると、玄関を開けて入った途端、母が奥から駆け寄って来た。

「どうだった?」

 とても心配そうな顔をしている。

「うん。まぁまぁじゃないかな。ただ、会場が思っていたよりも寒くって参っちゃった。教室が広いんで、足元が凄く冷えるの。でもって、時間が長いでしょ。その内に寒気がしてきちゃって.....」

「ちょっと、大丈夫なの?風邪でも引いてない?」

「多分、大丈夫かと。でも、風邪引いたって受験には関係ないけどね。熱が出ても行くし」

 とにかく、まずは暖まりたい。お風呂の用意がまだだったので、理子はすぐに支度して、湯がいっぱいになるまで、こたつの中にくるまった。

 明日はしっかりと寒さ対策をして行かねばならない。
 一応、帰りに駅前の店で使い捨てカイロを幾つも購入してきた。
 コタツの中でぬくぬくしていたら、家の電話が鳴った。母は夕食の支度中なので出られない。理子もコタツから離れたく無く、妹を催促して出させたら、子機を持ってやってきた。

「お姉ちゃん、蒔田先生から.....」

 ええー?理子は慌てて飛び起きた。
 何で、先生から電話が?しかも、家の電話に.....。

「もしもし.....。吉住です」

 恐る恐る出た。

「よぉ、理子。驚いたか?」

「はい。とても.....」

 スマホですら滅多に電話しないのに。だがこうやって家の電話で話すと、スマホとはちょっと感じが違うんだな、と思った。

「俺も驚いた。今電話に出たのは?」

「妹ですけど.....」

「そうか。声がよく似てるんだな。間違えるところだった」

「ああ~。よく言われるんです。生ではそれ程でもないんですけど、電話だとそっくりだって。外からかけると、親も間違える事があります」

「そうだったのか。いや、良かった。間違えなくて」

 スマホを持つ前は友人からもよく間違えられていたし、今でも妹の友人に間違えれらる事が度々である。

「実はまだ、学校なんだ。学校からかけてる」

「えっ?そうなんですか?」

 理子が時計を見たら、もうすぐ八時になる。こんな時間に、まだ学校にいるのか。

「今日はセンター試験って事で、今日の結果を受け持ちの生徒達から聞いて、アドバイスなり励ましなりをしろって校長命令でな。だから、三年の担任はみんな居残りで電話してるのさ」

 そうだったのか。じゃぁ、この電話も、自分だけに掛けて来ているわけでは無いと言うことか。

「それで、どうなんだ?体調の方は。岩崎から聞いたぞ。午後から調子が悪かったみたいだって」

「今は何とか平気です。教室が広いせいで足元が凄く寒くて。今日は曇りだったから、外の気温も上がりませんでしたよね。まさか、あんなに底冷えするとは思って無くて。甘かったです」

 理子は、午後の体調の変化を詳しく話した。

「そうか。女の子は確かに冷えるよな。俺は男だから、そこまで気付かなかった。済まなかったな。明日は今日より暖かくして行くんだ。上は厚着し過ぎないで、脱ぎ着で調節できるようにして、下は厚手のタイツとか靴下とかで対応するといい。ハイソックスを持参して、冷えるようなら、そこへカイロを入れるんだ。試験中だけだから、恥ずかしくないだろ?」

 成る程。そういう手もあるか、と理子は感心した。

「それで、肝心の試験の方はどうだったんだ?」

「問題無いと思います。午前中は得意の社会と国語でしたし、午後の英語も大丈夫でした」

「そうか。じゃぁ、明日の理数が勝負どころだな。気持ちの方はどうかな。苦手意識があるだけに、怖気づいたりするんじゃないかと、若干心配してるんだが」

「大丈夫です。今更怖気づいても損するだけですから。今朝のメールで、肝が据わりました。凄く、嬉しかったです」

 理子は電話口で(ほの)かに赤くなった。
 蒔田のメールを貰ってから、理子は試験中、何度も自分の首元と左腕に手をやった。
 ペンダントに触れると蒔田の愛を感じる。

 そして、先月貰ったブレスレット。
 Mが揺れると、小さなダイヤが光を反射して光る。光るたびに胸がときめく。

「そうか。それは良かった。じゃぁ、今夜はしっかり暖まってから寝るんだぞ」

 電話から聞こえてくる蒔田の声が、とても暖かい。理子の心も温まって来る気がする。
 電話を切ってコタツから出る。ちょうど風呂も用意ができたようだ。
 妹の優子が言った。

「蒔田先生って、すっごい声が素敵だね」

 妹の言葉に理子は笑って答えた。

「見た目も凄い、素敵な人だよ」

 その素敵な人が、春には義兄になると知ったら、さぞや驚くだろうと、理子はこっそりと笑った。

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