第56話

文字数 4,259文字

 理子が迷っていると、いきなり蒔田は真顔に戻った。

「それで、遊びに来ないかっていつ誘われたんだ?」

「一昨日です。諸星先生は出張でいらっしゃいませんでした。前回、お喋りし過ぎて勉強が進まなかったから、今日は頑張ろうって事で、公式をどれだけ覚えたか暗誦させられたんです。私、最初のうちは調子良かったんですけど、段々怪しくなってきて、最後は混乱してきちゃって」

「成る程。それで石坂先生は、連休中のリフレッシュを勧めてきたんだな」

「はい。今後のスケジュールを連休中にたてておいて下さるそうです」

「そうか。それで?」

 蒔田の目は鋭かった。

「この連休中は楽しく過ごしなさい、もし遊び相手がいないなら、僕がなってあげるよ、ってウィンクされちゃいました」

 蒔田は切れ長の美しい目を大きく見開いた。

「職員室なのにか」

「そうです。私、思わず赤くなってしまいました。そしたら、可愛いなぁって.....」

 理子が赤くなって俯いた。その様子が蒔田の心を逆なでした。

「それで?」

「それこそ、普段聖人君子のような雰囲気の人ですから、意外に思ったので、そう言ったんです。そうしたら、『君はもっと、僕の意外な面を見たいと思わないかい?』っておっしゃられて」

 それを聞いて蒔田は、フンと馬鹿にしたように笑った。
 腹を立てているのだ。理子にではなく石坂に。
 なんてヤツだ。
 紳士ヅラして、妻帯者でありながら女生徒にそんなちょっかいを出すとは。

「それで理子は何て答えたんだ」

「.....好奇心旺盛なので、興味はありますと答えました」

「なるほど。それで石坂先生は?」

「自分も同じだと。興味の赴くままに追及できたら、こんなに楽しい事は無いけど、欲求を満たそうと思えばリスクを伴う場合もあると」

「リクスか。一体、どんなリスクなんだろうな?」

「わかりません。先生の意外な面を知りたい場合もリスクはあるのかって訊ねたら、無いとは言えないけど、それをリスクと思うか否かは人それぞれだって」

「また、意味深だな」

「はい。私もそう思います。それで、そのあと、もし良かったら遊びに来ないかって誘われたんです」

「それでお前は、昨日言ったように答えたわけだな」

「そうです」

 蒔田は眉を寄せて、腕を組んだ。
 何か考えているようだ。
 暫しの沈黙の後に言った。

「それで、お前の真意はどこにあるんだ?その時のお前の気持ちを教えてくれ」

 矢張り、そうきたか、と理子は思った。
 言わずには済ませられないようだ。

「最初の段階で、まともに受け答えせずに、はぐらかすか拒否するかできたのに、そうしなかった。石坂先生の本心に触れたい衝動に駆られて、先へ進んでしまいました。自分でも、どうして石坂先生とこんな会話をしているんだろう?って不思議に思いながら」

「理子は、石坂先生と話していて、どうしたいと思った?石坂先生の懐に飛び込みたいって思ったか?」

 なんて鋭い人なんだろう。
 これだけの話しで理子の核心に触れて来た。
 そこまで理子の心理を読み取っていながら、この人は何故、普段ああも怒るのか。

 その理由は理子も十分承知している筈だ。
 愛するが為だ。頭ではわかっている。
 だが、心が追いついて行かないのだった。

「石坂先生の懐に飛び込みたいんじゃなくて、大人の、懐の深い男性に飛び込みたいって気持ちを持っている事を改めて自覚しました。懐の深い、広くて大きな、多少の事には動揺しない、力強くて優しい男性。何を言っても怒らない、どんな本音も受け止めて吸い取ってくれる、幼子のように安心して眠らせてくれる、そんな男性を」

「それは、俺では無いんだな」

 蒔田をは暗い目でそう言った。

「先生、それは違います。でも私、言ったじゃないですか。私はいつも危うい所に立っているって。これまでは流されないできたけれど、この先もそうである自信はないって」

「でもまだ、流されてはいない。そうだよな?」

「そうです。流されてはいません。私の心は先生だけのものです。胸がときめくのはあなただけ。石坂先生に対しては、優しい父とか叔父とか兄を慕うような、そんな感情しか持ち合わせていません」

 理子は蒔田を見つめた。
 蒔田の瞳が揺れている。心の揺れを現しているように。

「先生.....。悲しい目をしてますね」

 理子の言葉に蒔田は視線を逸らせた。

「怒らないんですか?」

「何故、怒らなきゃならない?俺が怒るような事をしてはいないだろう?」

「そのつもりです。でも、先生は悲しそうな目をしてる。私、先生を傷つけてしまったんでしょう?」

「人を愛すれば、時には傷つくこともあるさ。お前だって、俺を愛するようになって傷ついてきただろう?」

 確かにその通りだ。
 だが考えてみるば、それ程深い傷を負った覚えは無かった。
 小さい傷は受けてきたように思う。でもどれも取るに足らないものだ。
 蒔田に怒られて委縮して、不愉快に思ったり傷ついたりしても、すぐに癒えてしまっている。

 理子は目の前の蒔田を見て思った。
 この人の方が自分より遥かに繊細なのではないかと。

 親との関係で、自分を臆病者で傷つきやすい人間だと思っていたが、逆に、そういう目に遭っている分、他人に対しては鈍感なのではないか。
 蒔田の場合は、愛情の中で純粋培養されてきた分、逆に傷つきやすいのではないか。

「先生、ごめんなさい。私、本当に我儘ですね。自分の満たされない思いばかりに凝り固まって、愛する人を傷つけてしまいました」

「理子、お前は悪くないさ。お前の素直な心を受け止めきれない俺がいけないんだ」

「先生、自分を責めないで下さい。先生は全然悪くないんだから」

「いや.....」

 蒔田は膝の上に肘を付くと、両手で頭を抱えた。
 理子の胸は切なくて、締め付けられた。
 やりきれない。
 どうしたらいいのだろう。
 何て言ったらいいのだろう。

 理子は立ちあがると、蒔田のそばへ行った。膝の前に(ひざまず)く。
 そっと膝の上に手を乗せた。
 それに気付いた蒔田が、顔を上げて理子を見た。

「先生、お願いだから悲しまないで。私が愛してるのは先生だけなのよ?大人の男性に惹かれはしても、異性としてじゃない。どんなに優しい人であっても、私が愛するのは先生だけなの。そもそも石坂先生に興味を持ったのだって、奥さんが元教え子だったからってだけなのよ。私達の関係に照らし合わせて興味を持っただけなの。もし、先生と出会わなかったとして、石坂先生に口説かれても、異性としては好きにはならない。逆にもっと警戒したと思う。私がつい好奇心を持ってしまうのは、教師として女生徒にどんな気持ちを抱くのか、それだけなのよ。何故なら、
あなたが教師だから。これから先も、毎年毎年新しい女生徒と出会うわけでしょ。担任だったり顧問だったりしたら深く関わる事になるわけだし。最近のあなたの様子を見たら、心がざわついてしまって。本当は妬いてるとか何とか言われるのが嫌だったから、こんな事は言いたく無かったんだけど.....」

 蒔田は理子の手を取ると立ちあがった。理子も一緒に立ちあがる。
 優しく抱き寄せられた。

「理子は、怒らない男がいいんだろう?」

 理子は蒔田を見上げた。さっきのような悲しい目はしていなかったので、取りあえずは安心した。

「そりゃぁ、怒られるよりは怒られない方がいいです。怒られるのが好きな人なんています?」

「理子がお母さんの顔色を窺いながら毎日を過ごしている事は、俺にもわかってる。だけどな。俺とお前のお母さんを一緒にしないでくれ。俺が怒るのは、全部お前を愛するが為に湧いてくる嫉妬の感情からだ。お前を思う通りにさせられないからじゃない。お前とお母さんの関係は支配と被支配だ。でも、俺とお前の関係は違う。愛し合う関係だ。人間には感情がある。喜怒哀楽があるんだ。怒るのは当たり前の事だ。怒らない人間なんていやしない。そんなのは、感情の薄い人間か、怒っていないように見せかけて内心では怒ったり傷ついたりしてるかのどちらかだ。そういう人間は、その時は怒っていなくても、いつか爆発する。爆発した時は恐ろしいぞ。お前は、そういうヤツがいいのか?」

 理子は頭を振った。

「お前は怒られたら本心を見せられなくなるって言ったが、それは違う。じゃぁ、俺が我慢して怒らなかったら、どうなんだ?俺の本心はお前には伝わらなくなる。二人して、そうやって感情をオブラートに包むようにして何になる?愛を育みあえるのか?俺はそうは思わない。お前はこれまでの家庭環境のせいで、一方的に怒られるのに慣れ続けて来た。だから、俺に怒られて自然と受け身になってしまっているんだ。そうして、自分の中に不満を抱え込む。そのフラストレーションを他で晴らそうとしたから、今回の事のようになったんじゃないかと思う。そんなお前の状態に気付けなかった俺にも責任がある。いつも一方的に怒って来たからな。だけどお前も我慢することは無いんだ。お前だって、もっと怒ってもいいんだ。俺が怒った事で腹が立つなら、はっきりそう言え。喧嘩になったっていいじゃないか。俺はお前の裸の心をもっと見たい。知りたいんだ。その時は怒ったり動揺したり悲しんだりするかもしれないが、最終的には俺はお前の全てを受け止める。だから、畏れる必要はない」

「でも私、先生を悲しませたり傷つけたりしたくない」

「お前の気持ちはわかるし、嬉しく思うが、最終的にわかり合えれば、傷なんて無くなるんじゃないか」

「私、思ったの。これまで、先生より私の方がたくさん傷つけてきたんじゃないかって。私が負った傷なんて、全部大した事無かった。でも、先生は私より深傷を負ってるんじゃないの?」

「馬鹿言え。そんなわけないだろう。俺の方が大人だ。だが、そう思うなら、俺を癒してくれないか」

 蒔田はそう言うと、唇を寄せて来た。
 激しく濃厚だった。
 全ての感情をぶつけられている、そんな感じがするキスだった。

 蒔田はいつになく、激しく理子の体を攻めてきた。
 あまりにも刺激的で、理子は全身を震わせた。
 腰がよじれてきて、恥ずかしい気持ちと快楽とが入り混じり、頭が混乱した。

 いつもと違う体勢も取らされた。
 執拗に攻め立てて、理子は自分が欲望の海に漂っている小舟のような気がした。
 蒔田の大きな波が押し寄せては理子を呑み込む。

 この人は、一体どこへ行きたいのだろう?
 そんな疑問が時々よぎる。
 やがて、大きな波に呑み込まれ、理子はそのまま気絶した。
 そんな理子を、蒔田は抱きしめた。
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