第33話

文字数 4,147文字

「そうだ。お前に渡そうと思ってた参考書や問題集があるんだ」

 蒔田はそう言うと、書棚の端の方からゴソゴソと紙の手提げ袋を取り出して持ってきた。中を見ると、ギッシリ入っている。重そうだ。

「俺のお勧めだ。ただ、問題集は、それを早めに一通りやったら、最新のやつを買え」

「はい、わかりました」

「わからない所があったら、聞いてくれ。学校の先生方に聞いてもいい。教科書じゃなくても聞きに来れば教えてくれる筈だ」

「はい」

「あとな。生半可な勉強じゃ難しい大学ではあるが、だからと言って勉強漬けになるな。この時期じゃないと経験できない事も多い。遊びからも得るものはたくさんある。それに、メリハリも大事だ。一日の勉強時間は三~五時間で十分だ。効率良くやる事が大事だからな」

「私の成績で、その程度の勉強時間で、本当に大丈夫なんでしょうか?」

「発想の転換を心がけるんだ。文系はまず大丈夫だろう。あとは如何に理系を克服するかだな。お前の好きな歴史の勉強法を参考にするといい」

 歴史の勉強法か。なる程。既に英語の学習には取り入れている。
 如何に工夫して覚えるか、なのだろう。

「あとは、迷った時には俺に聞け。俺がついてる。俺が合格させてやる」

 蒔田は力強く言った。そんな蒔田を頼もしく思う。
 蒔田の腕が伸びてきて、理子を抱き寄せた。鼓動が激しくなって、体が固くなった。

「これからは毎週ここへ来い。俺が家庭教師してやる」

 理子は頭を振った。

「ダメです。そんなの、贔屓(ひいき)じゃないですか」

「他の生徒にだって、それぞれ親身に面倒見てるけどな」

「でも.....」

「『でも』じゃないだろう。俺がお前に会いたいんだ。こうして、お前の存在を体で感じたいしな」

 低い声で『体で感じたい』なんて言われて、胸の動悸が更に速くなった。顔も体も熱い。

「先生といたら、お喋りばっかりして、勉強が(はかど)らない気がします」

「それは甘いな。俺はスパルタだぞ」

「スパルタなんですか?」

「そうだ。しっかり言われた通りに勉強しないと、罰を与える」

「罰?」

 理子は驚いて、蒔田の腕の中で彼の顔を見上げた。素敵な顔が近すぎて息が止まりそうな程ドキドキした。

「そう。野球拳と一緒だな。一枚ずつ、衣服を剥ぐ」

「ええーっ!」

 蒔田はニヤリと笑った。
 これはきっと悪い冗談だ。この人はこうやって、私をからかって楽しんでるんだ。

「そんな事をされたら、私きっと泣いちゃいます」

「大丈夫。俺はもう、理子の涙には馴れた。剥かれて泣く理子を見るのも、オツだ」

 目が笑っている。やはり完全に、おちょくられている。

「そうですか。それじゃぁやっぱり、安心してここへは来れませんね。自宅で勉強しないと」

 理子はそう言うと、にっこりと笑った。

「そんな事を言うヤツは、今ここで罰を与える」

 蒔田は真面目な顔をしてそう言った。

「えっ?」

 理子が驚いた顔をすると、

「お前、今の自分の状況がわかってないよな。お前は今、俺の腕の中なんだぞ」

 そう言われて、胸がキューンとした。
 そうだった。さっきからずっと、抱きしめられたままだった。

 理子を抱く蒔田の腕の力が強まった。理子はドキリとした。

「この、減らず口め」

 そう言うって、蒔田は顔を寄せて来て理子に口づけした。

 息苦しくなるほど激しくて、理子の胸は高鳴り、そして戸惑った。
 激しく吸われ、唇が少し開いた。そこへ蒔田の舌が入り込んできた。

 理子はビクッと震えた。
 蒔田はしつこくて、理子は声にならない声が出た。段々我慢できなくなってきて、手で蒔田を
押し離そうとしたが、蒔田の腕は緩まなかった。
 
 いつ終わるのだろう。長いキスだ。
 体が熱い。頭もぼーっとする。気絶しそうだ。
 やっと蒔田の唇が離れた時、理子は唇が痺れているのに気付いた。

「理子」

 頭上から優しくて熱い声が呼ぶ。
 目をそっと開いたら、熱い目が自分を見つめていた。

「唇が赤くなって、色っぽい」

 蒔田はそう言って微笑んだ。
 理子はそれに対して言い返そうと口を開きかけたが止めた。何か言ったら、またされそうな気がしたからだ。
 もう、これ以上は耐えられない。逃げてしまいそうだ。
 黙って俯く。

「顔をよく見せてくれないかな」
 
そう言われたので、素直に従った。本当は恥ずかしくて従いたくなかったのだが。

「珍しく素直だな」

「先生.....、そろそろ私を解放してくれませんか」
 
 理子の声は掠れていた。
 
「いやだ。もっとこうしていたい」

 声に熱を帯びているように感じられた。

「じゃぁ、力を緩めて下さい。息苦しくて窒息しちゃいます」

 理子にそう言われて、蒔田は慌てて腕を緩めた。

「ごめん、ちょっと強く抱きしめ過ぎた。それに、この態勢はちょっと辛いよな」

 蒔田はそう言うと、椅子に座って理子を自分の膝の上に横座りさせた。

「せ、先生?」

 理子は慌てた。

「本当はこのまま抱っこして、ベッドへ連れていきたいんだけどな」

 理子は体が熱くなった。
 これまでずっと、遠くからそっと気付かれないように見ていた人が、こんなにも近くにいる。
 体が触れて、抱きしめられて.....。
 両思いになったのは嬉しいけれど、一挙に縮まった距離に戸惑いを覚え、体が震える。

 おまけに、ベッドへ連れていきたい、なんて言われて、どうしたら良いのか混乱するばかりだ。
 そんな理子に蒔田は再びキスをした。
 今度のキスは甘かった。

 蒔田は理子の頭を撫でた。なんだかそれが心地良い。
 頭を撫でられるのは好きだ。深い安心感を与えてくれる。
 だが子供の時に親に頭を撫でられた記憶がない。抱きしめられた記憶もない。

 そもそも、褒められた事さえ無かった。甘えさせてもらった記憶もない。
 物心ついた頃から、理子自身も甘えた事が無かった。
 自分から甘えたら、「甘えるんじゃない」と拒絶されそうなものを感じていたからだ。

 この人には甘えられるだろうか?甘えてもいいのだろうか?

 ついつい反抗したり天の邪鬼になったりして、素直になれなかったりするけれど。
 理子が男の強引な面に惹かれるのは、自ら行動できないからなのではないだろうか。

 蒔田が頭を撫でていた手で、理子の髪先を握り、自分の鼻へと持ってゆき嗅いだ。

「いい匂いがする.....」

 理子はカーッとなった。それだけの行為に、何故こんなにも体が熱くなるのか。

「せ、先生。重くないですか?そろそろ足、厳しいんじゃ?」

「そうだな~。お前、意外と重たいもんな」

 そう言いながら笑っている。

「酷い人ですね」

「はははっ、まぁ、そういう事だから、このままベッドへ運んでもいいか?」

 爽やかな笑顔で、そんな事を言うのか。

「ベッドへ運ばれる理由が無いです」

「おっ、また減らず口が出て来たな」

 そう言われて理子は思わず身構えた。

「しょうがないな。お前はまだウブだもんな。今日は諦めるか」

 そう言うと、蒔田は理子を下ろした。
 理子はホッとした。やっと楽に呼吸ができる。

「先生、私そろそろ帰らないと.....」

「理子、お前案外冷静だな。俺はまだ帰したくないんだけどな」

「先生。私が毎週ここへ来たら、結局のところ集中して勉強できないです」

「男女の愛を勉強できる」

 真面目な顔をしている。
 目の前にいる人は大人の男だ。
 子供の理子は、それを受け止めきれずに戸惑うばかりだ。

「先生。私、先生のような大人の男性と今まで付き合った事がないので、どうしたらいいかわかりません。正直なところ、怖いです.....」

 理子の言葉に、蒔田は少なからず衝撃を受けた。蒔田自身、まともに女性を好きになった経験が無い事もあって、自分の気持ちがストレートに出てしまう事に時々戸惑っていた。
 相手が自分と同世代なら問題はないのだろうが、六つも下の女子高生であり、教え子だ。

「ごめん。すまなかった。俺もちょっと調子に乗り過ぎた」

 蒔田は理子の手を取って、握りしめた。それだけで理子は赤くなる。

「すぐに赤くなるんだな。(うい)やつめ」

「初やつって、それってまるで時代劇みたいじゃないですか」

「だって、お前は理子姫だから」

「もう。理子姫はやめて下さいって言ったのに」

「いいじゃないか、たまには。髪が長いせいもあるのかな。姫と言われるのは」

「じゃぁ、私は先生を殿とお呼びしましょうか?」

「殿、か。それもいいかもな。そうすると、歴研の連中は家臣だな」

 そう言って、楽しそうに笑った。

『歴研の連中は家臣』の言葉に、理子も思わず噴き出した。

「だけど俺が殿なら、お前は俺の言う事に何でも従わないといけなくなるぞ」

 悪ふざけの笑顔になっている。

「じゃぁ、殿とはお呼びしません」

 そう笑顔で返す。

「生意気なやっちゃ」

 やはり蒔田と一緒にいると楽しい。
 時々見せる、大人の男に対する畏れも感じるが。

「さて。本当にそろそろ帰さないといけないな」

 蒔田はそう言うと立ち上がった。いざ帰るとなると、寂しい。
 このままずっと、一緒にいたい。
 明日からまた、ただの担任と教え子に戻らなければならないのかと思うと、辛い。

 二人は自然と手を繋いで部屋を出た。蒔田のぬくもりを感じる。
 心が温まる。

「お邪魔しました」

 理子は家族に丁寧にお礼の挨拶をした。

「あら、もう帰っちゃうの?もう少しゆっくりしていってもいいのよ」

 母の博子が名残惜しそうな口ぶりでそう言った。

「彼女のうち、結構厳しいから」

「そう。躾のしっかりしたご家庭なのね。じゃぁ、また、是非遊びに来てちょうだいね。私達は大歓迎だから。マーの下にもう一人女の子が欲しかったんだけど、生憎、出来なかったのよ。紫も妹が欲しいって言ってたわよねぇ」

「そうなのよ。弟なんて、つまらないんだもの。ねぇ、理子って呼んでもいいかしら?」

 紫は優しく言った。

 「はい」

 理子の声は明るかった。綺麗な姉だ。はきはきしていて、とても憧れる。理子もこういう姉がずっと欲しいと思っていた。

「じゃぁ理子。マーに何か悪さされて困ったら、いつでも私に言ってちょうだい。私がマーの毒牙からあなたを守ってあげる」

「おいおい、姉さん。やめてくれよ、そんな事言うのはー」

 姉弟のやり取りを、理子は微笑ましく眺めた。いい姉弟だな。
 理子は蒔田に連れられて、蒔田家を後にした。車で家の近くまで送ってもらう。

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