第93話

文字数 4,606文字

 おやつの後に勉強を見て貰って、理子は病院を後にした。
 来週の日曜まで蒔田の顔を見れないと思うと、寂しい。
 外へ出ると、まだ明るいのに既に秋の夕暮れを体に感じた。それが寂しさを一層募らせる。

 何処かからか銀木犀の香りが微かに漂ってきた。
 いい香りだ。この先この香りを嗅いだら、きっとこの年の、この秋の出来ごとを思い出すことだろう。

 横浜駅から電車に乗り換えた時、理子は思わぬ人物と遭遇した。
 多田哲郎だ。
 中2の夏ごろから高1の夏まで、ずっと片思いだった相手だ。

「よぉ、理子!久しぶりじゃん」

「哲郎.....」

 彼に彼女ができて、それを報告され、きっぱり諦めた高1の夏から、同じ高校にいながら殆ど会う事が無かった。
 高校では同じクラスに一度もならなかったのと、何故かいつも教室が遠かったのもある。
 数えてみれば二年も会っていない。たまに彼女と一緒に帰っている姿を見かける程度だった。

 高校へ入学して哲郎に彼女が出来るまでの間は、哲郎は教科書を忘れると理子の所へ借りに来ていた。理子も忘れた時には借りに行く。
 そういう時、休み時間が終わるまでよくお喋りをしたものだ。

 哲郎はギャクの好きなよく喋る男で、中学で同じクラスで同じ班だった時は、毎日電話で一時間も喋っていた。
 哲郎には五つ年上の兄がいて、時々電話口に出ては取りついでくれていたが、毎日かかってくるものだから、「彼女からだぞー」と、電話口の向こうでよく言われた。

 それを聞いて、理子は嬉しくなったものだった。
 哲郎の方は「彼女じゃないよ」と必死に否定していて、照れている様子が目に浮かぶようだった。

 理子はパッと見、地味だし、大人しくしていると目立たない。
 顔立ちは整ってはいるものの、平凡な部類だろう。
 理子と枝本が互いに互いの心を探りながら想いを伝えられずにいた時に、二人の関係が周囲の噂になっていた。
 その噂は他のクラスにまで及んでいたようで、哲郎も聞いていたそうだ。

 あの枝本の彼女って、どんな子?と思って、わざわざ理子達のクラスまで見に来たらしい。
 そんな話しを仲良くなってから電話で聞いた。
 その時に哲郎は、「その時は正直なところ、どこがいいんだろう?って思ったんだけど、今ならわかる」と言った。

 その言葉を聞いた時、理子はとても嬉しくなって、胸が高鳴った。
 既にその時には哲郎の事が好きだったからだ。
 好きな相手に異性として良く評価されたのだから、嬉しくない訳がない。

 だが、それから間もなくして、ショックな事を告げられた。
 思い出してみれば、秋だった。

「俺、彼女ができたんだ。理子に一緒に喜んで貰いたくて、まだ誰にも言って無いんだ。まず一番に理子に報告しようと思ってさ」

 暗闇の底に付き落とされた様な気分だったが、悟られぬように、「それは良かったねー。やったじゃん。おめでとう!」

 そう明るく返した。そうするしかなかった。

 相手は隣のクラスの女子で、小学五、六年生の時に同じクラスだった子だ。
 地味で少し大人びた感じの痩せた女の子で、同じクラスだった時のいい印象は無い。
 あまり好きではない相手だったから、ああいう子が好みなんだと思うと余計に悲しかった。

 それからは、哲郎とは少しずつ疎遠になるが、同じ班でいる間は、それ以降も毎日電話で話していた。

「彼女とより理子との方が長電話」と笑いながら言っていた。

 その電話も、班が別々になったら無くなった。用事のある時にかかってきたりもしたが、激減だ。
 更に翌年にはクラスが変わった。
 
 受験の時、哲郎も同じ高校を受験する事を知って、大喜びした。
 また同じクラスになれるかもしれない。そしたら、また哲郎と楽しい時間を過ごせる。
 哲郎と彼女は、付き合い始めてから一年くらいで別れていた。

 哲郎は彼女がいても、たまに理子と帰ったり、廊下で仲良く話したりしていた為、噂になったりもした。
 彼女と別れたのはそれが原因では無かったようだが、哲郎がフリーになった事を、内心ではひどく嬉しく思っていたのだった。

 朝霧高校へ入学し、最初のうちはよく互いの教室を行き来していた。
 生憎、同じクラスにはならなかったが、登校時に一緒になる事はよくあった。理子はそんなひと時を幸せに感じていた。

 とても気があって、話しも合い、喋り出せばきりが無い程、延々と続く。
 そんな二人の間に、同じ中学出身の友人達が入って来るようになった。
 哲郎は落研に入る程、笑い話が好きで、明るく活発なので自然と周囲に人が集まって来る。

 丸顔で、丸い眼鏡をかけていて、愛嬌のある顔をしていた。背も高い。
 中学の時に身長を伸ばしたくてバレー部に入り、念願通りに背が伸びて、その時も理子に報告してきて一緒に喜んだ。

 中間テストも終わり、梅雨に入り、もうすぐ哲郎の誕生日がやってくる。
 これまでプレゼントなんて一度もした事は無かったが、今年はあげてみようかな、と思っていた矢先だ。

「理子、聞いてくれ。俺、また彼女ができたんだ!」

 久しぶりにかかってきた電話で、そう言われた。
 また、こんな目に遭わされるとは。

 理子が哲郎を好きである事を知らないのだから、仕方が無い。
 哲郎は、今時珍しい、話しの合う女らしくない女の友達だと理子の事を思っているようだ。
 だから中学で彼女ができた時も、彼女への誕生日プレゼントの相談をしてきた。

 理子にとってみれば、たまったものではなかったが、理子の気持ちを知っていれば、哲郎もそんな事はしなかっただろう。
 だが理子は、気持ちを伝えて敬遠されるよりは、まだ友達でいられた方が良いと思って、ずっと告白せずに友達で居続けたのだ。

 彼女の報告を受けて思う。
 私は永遠に、女友達のままなんだ。
 しかも学校やクラスが遠くなれば、そのまま疎遠になる程度の友達なんだ。

 多分、私とはいつも馬鹿話で盛り上がってるから、異性に対する気持ちなんて湧いてこないんだろう。
 もう、耐えられない。これ以上、こんな目には遭いたくない。
 いつまで経っても女の子として見て貰えないのをわかっていて、仲良くなんてしていられない。

 哲郎も新しい環境にすっかり慣れて、理子との時間は減っていた。
 教科書を借りに来る事も減ってきたし、たまに遊びに行くと、同じクラスの生徒達と盛り上がっていて、入りにくくなっていた。

 潮時なのかもしれない。

 理子は哲郎への思いに踏ん切りを付ける為、最初で最後の誕生日プレゼントを渡した。落研用の手ぬぐいだ。
 それを理子から渡された時、哲郎は茹で蛸みたいに真っ赤になって、手刀を切って受け取った。

 それから理子は、哲郎の許へは二度と行かなかった。
 文化祭の時にも、落研は避けた。結局三年間、一度も行っていない。

 最初の年、文化祭が終わった後にメールが来た。「来なかったな」とあった。理子は返事をしなかった。既に、須田先輩と付き合っていた。

 メールを貰うと心は少し揺れたが、クラスが違うと言うのはこういう時にはありがたい。
 おまけに一年生の教室は半分ずつ、一階と二階に分かれていて、哲郎は一階のクラスで理子は二階のクラスだった。
 故意に行き来しなければ、顔を合わす事は滅多にない。

 哲郎の誕生日以来、そういう環境は諦めるのを助けてくれていた。
 須田先輩に交際を申し込まれた時には、哲郎の事など全く思い起こす事も無かった。
 文化祭の時には意識して落研を避けていたが、それ以外の時では理子の中での哲郎の存在は皆無に等しかった。もはや忘れ去られた存在となっていた。

 その哲郎に、こんな風に電車の中で会おうとは。
 修学旅行の時でさえ、見た記憶が無い。

「元気してたぁ?」

 昔と全く変わらぬ瓢軽さだ。目の前にすると矢張り少し緊張して胸が高鳴る。
 理子は黙って頷いた。

「すっげー久しぶりだよな。同じ学校にいるのに、全然、顔見ない」

「だよねー」

「今日はどうした?電車で会うなんて奇遇だよな」

「うん。ちょっと用事でね。哲郎は?」

 お互いに一人である。遊びに行ったとは思えない。

「専門学校の見学会に」

「専門学校?」

 哲郎の言葉に理子は驚いて、相手の顔をまじまじと見た。
 なぜ哲郎が専門学校なんだ。
 中学の時には、理子より成績は良かった筈だ。だから朝霧を受験すると聞いた時には驚いたくらいだったのに。

「俺、調理師になろうと思ってさ」

 そう言って、はにかんだような笑みを浮かべた。
 哲郎が料理好きな事は、理子も承知している。
 同じ班になった時に、よく自分の弁当を作ってきていたし、たまにおかずを貰ったりして、美味しかったのを思い出した。

 だがまさか、進学せずに調理師とは。

「昔から料理が好きだったのは知ってるけど、なんか勿体ない気がする.....。進学してからだって、出来るんじゃないの?」

「俺、勉強、嫌いなんだ。高校へ入ってから、やる気がどんどん薄れてきちゃってさ。入りたい大学も無いし、料理以外でやりたい事も無い。だから高いお金出して行ったって、無駄だろ?」

 そう言う哲郎を、理子は複雑な思いで見つめた。
 中学の時は学級委員長をやっていて、勉強もできて、みんなから一目置かれていた。
 彼と同じクラスになり、最初に同じ班になったが為に、理子は変われた。
 何でも率先してリーダーシップを発揮し、哲郎が作る波の上にいつの間にか理子は乗っかっているような感じだった。

 勉強にも、学級活動にも、全てにおいてやる気を増し、頑張ってこれたのは、哲郎のお陰だ。
 同じ大学へ進学する事はなくても、同じように大学生になるのだろうと、勝手に思っていた。
 こんなにも早い段階で、全く違う道へと別れて行くことになるとは想像もしていなかった。

 存在を遠く感じた。なんだか寂しさが湧いてくる。

「彼女とは?」

「続いてるよ。彼女もお前と同じように、勿体ないって言ってた。女ってみんな同じ事言うのかな。お袋もだよ。兄貴は賛成してくれてるけど」

「そっか。やりたい事があるなら、それが一番なのかな」

「そうだろう?やりたい事だから打ち込めるし、頑張れるんだ。お前はやっぱり大学受験?」

「うん。そうなの」

「英文科に行ってプロモーターになりたいって言ってたよな。ロックミュージシャンを呼びたいって」

「はははっ。その夢はとっくに断念しました。私、日本史の勉強をするの」

「日本史?日本史か。それいいな。日本史なら俺もやりたいかも」

 中2の春、学校行事で縄文時代の遺跡へ行き、勉強の成果を研究発表する学年イベントがあった。
 哲郎と理子の班はクラスの代表になった。
 毎日遅くまで頑張ったのを思い出す。

 その後もグループで近くの空き地へと発掘に行き、縄文土器のかけらを見つけて楽しんだりしていた。だから哲郎も歴史には興味を持っている。

「興味があるなら、調理師の勉強しながら趣味でやればいいじゃん」

「そうだな。わかんない所があったら、理子に聞くかも。そん時はよろしくな」

「うん、勿論。哲郎も一人前の料理人になったら、御馳走してよ。昔から哲郎の料理、好きだったんだから」

「おうよ!」

 理子の言葉に、哲郎は胸を叩いた。
 その後二人は、下車駅へ着くまで取りとめのない話しをし、電車を降りて別れた。

「受験、頑張れよ!」

「そっちこそ」

 哲郎との別れに、理子はひとつの時代の終焉を感じるのだった。
 銀木犀が微かに香っていた。
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