第73話

文字数 4,521文字

 心配そうな宗次に、蒔田はにこやかに答えた。

「それについては、心配には及びません。うちではみんな、彼女を僕より可愛がっていますから。姉なんて、可愛い妹ができたと大喜びしていますし」

「それでももし、将来何かの事で(いさか)いになった時、貴方はどうしますか」

 蒔田は即答する。
 
「勿論、僕は彼女の味方です。僕にとっては、彼女が一番大事ですから」

「肉親よりも?」

「肉親よりも、です」

 蒔田は強い意志を持って、宗次を見つめた。何があっても絶対に揺るがない自信を込めた。

「お父さん。ご両親には本当に申し訳ないんですが、反対されても一緒になります。この愛だけは譲れないんです」

 宗次は蒔田の真剣な眼差しに心が揺れた。
 じっと目の前のテーブルに視線を落としている娘に声をかけた。

「理子は、どうなんだ?反対されても、矢張り一緒になるつもりなのか?」

「ごめんなさい。私も、先生と同じだから。それに私、早く家を出たいし.....」

 理子は呟くように言った。

「お父さん、僕がこんな事を言うのは僭越(せんえつ)かもしれませんが、僕は彼女を、早くお母さんの呪縛から解いてやりたいんです。家にいると、過ぎる程の干渉と監視の目に(さら)されている。そのせいで、彼女は何か事があるとすぐに委縮してしまう習性が付いてしまっています。この間、彼女が風邪で休んだ時に見舞いに伺いました。お母さんは足音を立てないように彼女の部屋へ行き、ノックもせずにいきなりドアを開けられました。そういう事が日常茶飯事だと聞いて、僕は驚きました。お母さんはとても愛情の深い人だとは思います。ですが、その示し方には共感できないものがあります。お父さんには、おわかりかとは思いますが」

 宗次は腕を組んで、目を瞑った。他人にそこまで言われたくは無いが、確かに妻の行動は目に余るものがある。
 だが宗次にはそれをどうにもできなかった。
 激し過ぎる妻を、受け止める事ができずに月日が流れて来たのだった。

「お母さんはきっと、反対するだろうな。この事を知ったら、烈火のごとく怒るだろう。その覚悟はできてるのか?」

 宗次は理子にそう尋ねた。

「覚悟はできてます。それに、怒られるのは、馴れてるし」

 理子は、そう言って微笑んだ。
 蒔田はそんな理子を見て胸が痛くなった。

「お父さん。理子さんは、僕が一生、命を懸けて守りますから」

 蒔田はそう言うと、再び畳に手を着いた。
 そんな二人を見て、宗次は息を吐き、腹を決めた。

「わかりました。私も理子の事は、前から不憫に思ってはいたんですよ。最初の子供という事もあるのでしょうが、家内にとっては、何もかもが初めてでしょう。それだけ、理子には思い入れが強くなるようです。その反面、期待と比例して何故か風当たりも強くて。それに猜疑心がとても強い。自分以外の人間を信じようとはしないんです。それが家族であっても。そういう中で押さえつけられて育ってきたから、理子が早く家を出たいと言う気持ちも理解できます。だからと言って、この若さで結婚と言うのは矢張り抵抗はあるんですが、先生が理子を命懸けで守ってくださるとおっしゃるのなら、私はもう何も言いません」

 宗次の言葉に、蒔田と理子は顔を見合わせた。
 理子の顔が明るくなっている。

「お父さん、ありがとうございます」

 蒔田は手を着いて礼を言った。

「誤解されては困りますから言っておきますが、許しただけであって、賛成しているわけではないですから。理子が不憫だからです。家内は理子をいい大学に入れて、卒業後はいい会社に就職させて、二十代後半くらいに、自分が気に入ったしかるべき相手と結婚させようと思っているようです。その時なら、先生からの申し込みに反対はしないでしょうが、如何せん、若過ぎる。東大に合格したら、とても喜ぶだろうから、その反動の大きさも予想できます。きっと嵐のようになるでしょう。それを思うと、私も恐ろしいです」

 宗次はそう言って、理子を見た。その顔には笑みが浮かんでいた。

「お父さん。娘がいなくなるのではなくて、どうか息子ができると思って下さい。理子さんから聞いてますが、お酒と将棋がお好きだとか。僕はどちらもいけますから、相手をして下さると嬉しいです」

「そうですか。それは嬉しいなぁ」

 宗次は蒔田の言葉に相好を崩した。

「ところで、三月の末に入籍して、住まいはどうするのかな?先生はご長男だから、同居されるんですか?」

 宗次は二人の顔を交互に見た。

「その件ですが、実は彼女の大学と僕の職場の両方が通いやすい場所に、マンションでも買おうかと思っているんです」

 その言葉に宗次は驚きの表情を示した。

「マンションを、買う?賃貸じゃなくて」

「はい。そのつもりです」

「そんな、君、簡単に.....」

 幾らボンボンとは言え、軽率なんじゃないかとの思いが宗次の胸に湧いてきた。
 そんな宗次の胸中を察したのか、理子が言った。

「お父さん、驚くのも無理無いわよ。私も驚いたから。でも先生、お金持ちなのよ。ローンを組まなくても買えるお金を持ってるそうなの」

 宗次は大手ハウスメーカーの営業マンである。
 宅地建物取引主任者の資格も当然持っている。所謂(いわゆる)、宅建で、不動産業務を行う場合に必要な資格である。

 これを持っていれば、不動産屋として独立する事もできる。
 長年、この道で生きて来たので不動産関係については当然、詳しい。だからこそ、蒔田の簡単な言い様に不安を覚えるのだった。

「すみません。自慢するわけでは無いのですが、少々株式投資をしてまして、かなりの金額を持っているんです。持っているのですから、ローンを組む必要も無いですし、良い物件があれば、わざわざ賃貸で住む必要も無いですよね。生活の方は、僕の教師としての微々たる収入でやって
いくので、贅沢はさせてあげられませんが、住まいの心配くらいはかけずにやりたいと思いまして」

 宗次にとっては、信じられないような話しだ。まるで狐につつまれているような気がしてきた。

「その、因みに、どの辺にどのくらいの物件を考えてるんですか」

「田園都市線なら、彼女が東大に通うのにも、僕が職場へ通うのにも丁度良いと思っています。たまプラーザか、その前後の駅から近くて、100平米以上、できれば120平米くらいあればいいんですが」

 宗次は目を剥いた。
 この男は世間知らず過ぎる、と思った。
 その界隈で、駅から近くてそんなに広い物件なんて、早々無いし、あっても高額だ。

「先生、それは無茶な話しだ。そもそも、まだ若いのに、分不相応じゃありませんか」

「おっしゃる事はよくわかります。あくまでも希望ですから。最優先にされるのは場所です。通勤通学に便利な場所でないと困りますから。その上で、できるだけ広い面積を望んでいます。リビングや寝室の他に、各々が勉強できる独立した部屋が欲しいんですよ。それと、できたらグランドピアノを買ってやりたいので、そのピアノが置ける広さは欲しいと」

 その言葉には、理子も驚いた。
 父と娘は顔を見合わせた。

「マンションを買うだけじゃなくて、グランドピアノまで買うんですか」

 父は半ば呆れ顔で言った。

「彼女の話しですと、妹さんもピアノを習っているそうじゃないですか。そうなると、ピアノを頂くわけにはいかないので、彼女が弾く為のピアノが必要です。どうせ買うなら、彼女が以前から欲しがっているグランドを買ってやりたいと思いまして」

「せ、先生のお気持ちはわからないでもないが、それこそ分不相応でしょう。買うにしてもアップライトで十分じゃないですか。音楽家になるわけではあるまいし」

「彼女はよく、合唱部の部活の後に残って、学校のピアノを弾いていました。家にピアノがあるのにです。それはグランドピアノで演奏したいからなんですよ。家庭の事情で、ピアノを買われたのも遅かったようですし、お金が無ければ無理して買いはしませんが、あるんですから買ってやりたいんです。それに僕も音楽を趣味にしているので、彼女のピアノで一緒に演奏したいんですよ。楽器は予算が許す限り、良い物を入手するに越した事はありません。将来の子供の為にもなりますし」

 理子は蒔田の言葉を嬉しく思った。合唱部の練習の後に理子が学校のピアノを弾いている理由は、正に蒔田が言った通りだ。
 だがそれを蒔田に話した事は一度も無かった。それなのに、察していてくれた。

 本当に蒔田の勘の良さには感心する。言わなくてもわかってくれる事に感動するのだった。

「貴方には呆れますな。そんなことでは、理子の為に身上(しんしょう)を潰しますよ」

「そうですよ、先生。先生の気持ちはとっても嬉しいけど、もしかして先生って、経済観念が薄いんじゃないかって、心配になってきちゃいます」

 蒔田は二人にそう言われたが、どうも二人の言う事にぴんとこない。
 使っても困らない程あるのに、何故ちょっと使う事にこんなに驚くのだろう。
 しかも無駄な物に費やすのではなく、必要な物を買うだけなのに。

「そんなに、心配なさらなくても大丈夫ですから。投資で成功できるくらいですから、お金の勘定には自信があります。幾ら使えば幾ら残るかくらい、ちゃんとわかっています。いい気になって使い切るような馬鹿な真似はしませんから大丈夫ですよ」

 蒔田はそう言って笑った。
 だがそうは言われても、貧乏な庶民の宗次にとっては心配だ。

 若いうちからそんなに贅沢をして大丈夫なのだろうか?
 金持ちとは言っても、人生何があるかわからない。転落しないとは限らない。
 そういう時、若いうちから贅沢に馴れていると、耐えられない恐れがある。

「お父さん。心配しないで下さい。僕は十分、(わきま)えているつもりですから。彼女を不幸にするような事は決してしませんから」

「だからと言って、あまり娘を甘やかさないで下さい。まだ若いんだから、本人の為にも良くないでしょう」

「わかりました。胸に刻んでおきます。自信はありませんが」

 そう言って、蒔田は笑った。
 どうも、理子が喜ぶ事なら何でもしてやりたい思いに駆られてしまうのだ。
 そんな蒔田の顔を見て、宗次は矢張り不安を覚える。

「住まいの件ですが、良ければ知り合いの不動産屋を紹介しましょうか。うちはハウスメーカーで一戸建てが専門なのでマンションは扱ってないんだが、仕事関係で知り合いならたくさんいるので」

「それは助かります。是非、お願いしたいです」

 蒔田はそう言うと、慌てて懐から自分の名刺を出した。

「すみません、もっと早くにお渡しするべきでしたのに」

「いえいえ、こちらこそ」

 宗次も慌てて名刺を出して交換した。

「いずれ、父の方からもご挨拶に伺いたいと申してました」

「先生のお父さんが?」

「大切な事ですから。まだ未成年の娘さんを頂くわけですし、しっかり自分からも挨拶したいと」

「そうですか。わかりました」

 こうして会見は終わった。
 当初はどうなる事かと思ったが、最終的には和やかな雰囲気で終わったので、蒔田は胸を撫で下ろした。
 これで、まずは最初の山を越えた感じだ。
 片親だけでも承知していてくれると、精神的に大きく違う。
 理子も安心して勉強に打ち込めるに違いない。
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