第89話
文字数 4,650文字
「私も、あなたの彼女と同じように、担任の先生を好きになったの。誘ってきたのも、向こうよ」
彰子の言葉に、蒔田は何と答えたら良いのかわからなかった。
「あなたは幸い独身だけど、私の先生は違った。結婚してるのは最初から知ってたから憧れていただけだったんだけど、何度も何度も『好きだ』って言われて。放課後、誰もいない教室に呼び出されて、ものにされちゃったわ。それからは愛人の道をまっしぐら」
彰子の話しに二人とも何も言えない。
「その先生には、気を付けた方がいいわ。生徒にとっては、教師の存在って特別だから」
「わかった。言いにくい事を話してくれて、ありがとう」
「いいえ。どうせ、もう過去の事だから」
「あ、あの.....」
古川が遠慮勝ちに口を挟む。
「その先生とは、どうなったのかな?」
「妻と別れて、私が卒業したら結婚するって言ってたのに、私が卒業したら県外へ引っ越して行って、それきりよ。酷いでしょ」
「それは、酷い」
「お前.....、在学中にそんな事がありながら、東大へ合格したんだな」
蒔田がつくづく感心したような口ぶりで言った。
「なんかお前はやっぱり、彼女と似てる」
「あらっ。それって、どういう意味?」
「最初に会った時、お前は媚びない目で俺を見てた。俺は、それに興味を持ったんだ。そんな目で俺を見る女に出会った事が無かったから。彼女も同じだった。あまり飾らない所も似てるし、頭がいい所も似てる。嫉妬しない所も同じだし、サバサバしている所も似てる」
「そうなんだ。それを聞くと嬉しいけど、それでも貴方は、私を愛さなかった。彼女を愛して。その違いは何なのかしらね」
「そう言われると、俺も困るんだ。その違いは何なんだろうな」
「彼女がピュアだからじゃないのか」
古川が言った。
「それって、私に対して酷く無い?」
彰子が古川を睨みつけた。
「いや、ごめんごめん。彰子ちゃんがピュアじゃないとかって意味じゃないんだよ。何ていうか、さっき、蒔田が彼女を染まらない女だって言っただろう。その辺に理由があるんじゃないかと.....」
「古川の言いたい事、何となくわかるよ。俺もそう思う。彰子は、サバサバしてるし意志も強いが、どこか脆い所があって結局は染まるんだ。だが彼女は、脆さを抱えて流されそうでいながら、決して流されない。染まらない。最初、彼女の事を色が無いと思った。どの色でも表現でき
なかったからだ。だが最近気付いた。その時々によって色が変わる玉虫色なんだってね。そこに俺は惹かれたんだ」
玉虫色か。さっき彼女を見て、捉え難さを感じたのも、そういう事なのだろうか。
「そう言えば、この間もそう言ってたよな。じゃぁ、素直で従順そうに見えるけど、違う面もたくさんあるって事か」
蒔田は笑う。
「素直で従順なんて、とんでもない。俺は最初、彼女の事を何て扱いにくい女なんだって思ったんだぜ。天の邪鬼のひねくれ者だ」
「へぇー。そんな風には見えないけどな」
「そうだろう。そんな風には見えないんだ。そう思っていると、足元をすくわれる。俺は何度、すくわれた事か」
「それは、面白い。お前がねぇ」
「そう。この俺が。でもって、すくわれるたびに、気持ちが深まってくんだ。彼女を知る程、愛情が深まる。今じゃすっかり、完全なるヘナチョコさ」
「はははっ。クールな男も今じゃヘナチョコか。どうだ?ヘナチョコになった感想は」
「こんな嬉しい事は無い。愛し合えるって、最高だな」
「うへっ。駄目だ、こりゃぁ。当てられるだけだから、そろそろ帰ろう、彰子ちゃん」
そう言うと、古川は腰を上げた。
「お前ら、来てくれてありがとうな。最初はちょっと焦ったが、信用できるお前らだもんな。来てくれて嬉しいよ。誰にも言えない恋だから、ずっと我慢してきたんだ。だからつい、饒舌になってしまった。聞いてもらって良かったよ」
「そうか。まぁ、誰にも話せないもんな。折角、愛するようになったのに。俺達は、絶対に秘密は守るから、また話したくなったらいつでも話せよ。お前が楽しそうに語るのを聞くのは嬉しいからさ」
「ありがとう」
病室を出て行く二人をベッドの上から見送りながら、蒔田は満ち足りていた。
「あら?もう帰えられたんですか?」
戻って来た理子が不思議そうに病室内を見回した。
「うん。ごめんな。一人で食事に行かせて」
「いえ、全然。だって、どうせ私しかいないし」
理子はベッドのそばの椅子に腰かけた。
「楽しかったですか?」
「ああ。色々話せて楽しかったよ」
「それは良かったですね」
蒔田が本当に楽しそうな顔をしているので、理子は安心した。
友人の古川は、本当に面白い人だ。あの人には、蒔田も何でも話せるようだ。
蒔田にとって初めての女性だと言う、彰子を紹介された時には、さすがの理子も面食らった。確かに話しに聞いてはいたが、まさかここへ現われて紹介されるとは思ってもいなかった。
蒔田は、彼女には好意を持ってはいたが、結局愛せなかったと以前言っていた。
確かに蒔田の苦手な華美な雰囲気の女性とは違って、知的で地味な感じだった。
「理子は、彼らと会って緊張した?」
「そうですね。突然だったので。でも日曜日だから、こういう事もあるんでしょうね」
「彰子の事、どう思った?」
蒔田の目に僅かに不安げな影を感じる。
「どうって言われても.....。先生があんな風に紹介されるから、どう対応したらいいのか困りました」
「そうか。でも君は、顔色一つ変えずに余裕かましてたじゃないか」
「余裕って.....。じゃぁ、違う態度の方が良かったですか?もっとビックリすれば良かったんでしょうか?」
「普通の女の子なら、ビックリしたり恥ずかしがったりするんじゃないのか?」
「すみません。普通の女の子じゃなくて」
「いや、いいさ。それより、どう思った?彼女の事」
「いやに気にされますね。どんな答えを先生は期待されてるんでしょうね」
「期待なんかしてないよ。君がどう思ったのかを知りたいだけだ。いちいち絡まないで教えてくれないか」
「難しい質問をされるからです。知的な感じの人ですよね。でも、どこか寂しそうな印象を受けました」
「寂しそうか。確かにな。それで、やっぱり全然、嫉妬はしなかったのか?」
「期待してないとか言いながら、やっぱり、そういう答えを期待されてるんじゃないですか」
理子は軽く、蒔田を睨んだ。
「だから、期待なんてしてないって。ちょっと聞いてみただけだよ。それで、他には?」
「あの人は、まだ先生の事が好きなのかな。私に嫉妬してるのが伝わってきました。優しい、いい人のようだから、ちょっと申し訳ないような気持ちになりました」
「そうか。やっぱり君は敏感だな」
蒔田は溜息を吐くように、そう言った。
「先生も酷な事をされますよね。先生だって、感じてたんでしょう?なのに、随分とあけすけに色々とおっしゃってましたよね」
「いいのさ、あれで。彰子も頭のいい、敏感な女だ。俺の真意を汲み取ってくれてると思う」
それはそうかもしれない。だが、同じ女性として、その心を思うと胸が痛い。見込みが無い事をはっきりと示された時の心の痛みは、理子も経験しているからよくわかる。
「ところで、話が変わるんだが」
「はい。何でしょう?」
「石坂先生の事なんだ」
その言葉に、理子はドキリとした。
「どうかしましたか?」
「あれから、どう?何か、言われた?」
蒔田は心配そうに訊ねて来た。
「この間、私がここへ来た日に言われました」
「何て」
「私に対して、興味の段階を越えて、ひとつの想いになってしまっている、って」
「何だって?職員室でか?」
「はい」
「そもそも、何でそんな話しになったんだ」
「文化祭の合唱のソロの話しからですよ。あの時、校長の握手がきっかけで、みんなが握手を求めてきたじゃないですか。あの話しになって、あの時は僕もしたかったのに出来なくて残念だったって」
「何で、そんな事を言い出すんだ。本気なのか」
「本気みたいですよ。私が自分との事を考えてくれるのなら、妻とは別居するっておっしゃいましたから」
理子の言葉に、蒔田の顔は蒼白になった。
「頭が、変になったんじゃないのか?あの先生は」
「私も、同じように思いました。どうしてそこまで考えるようになるのか不思議です。しかも、職員室ですよ。あの時の職員室は、先生の事で女生徒達が大勢詰めかけていたので、騒然としてたんです。諸星先生も校長室でしたし。だから、誰も私達の事に気付かない状態だったんですよね」
蒔田が戦慄きながら言った。
「それで君は、どうしたの?」
理子は笑って言った。
「畏れるに足りません。しっかり撃退しておきましたから、大丈夫ですよ、心配されなくても」
「どういう意味だい?」
「あの先生は、結局のところ臆病者です。少しずつ小出しにしながら、私の気を引こうとするけど、行動には絶対に移せない。相手の気持ちや覚悟を確認してからでないと駄目なんですよ。まぁ、そういう人で良かったですけどね。渕田君みたいに直接行動に出て来られたら大迷惑だし。
だから、しっかり引導を渡しておきましたから。最後には『君には数学以外では勝てないみたいだね』ですって。情けない人ですよね。笑っちゃいます」
蒔田は理子の話しに唖然とした。
『数学以外では勝てない』か。
その言葉は、それだけ理子を思っている事の証しじゃないか。
理子に惚れた人間は、結局は、みんなそうやって理子には勝てなくなるのだ。
まさに惚れた弱みだ。それなのに理子は、石坂を『情けない人』呼ばわりだ。
蒔田は石坂に同情した。
「どうしたんですか?心配ないですよ?まさかまた、焼きもち?」
「いや.....。君の言葉を聞いて安心した。だが、君の言い様 を聞いて、なんだか石坂先生が可哀そうになってきちゃってね」
「あら。先生にしては、珍しい事をおっしゃるんですね」
理子は、ここまで言えば蒔田も嫉妬したりしないだろうと踏んで言ったのだった。どうやら功を奏したらしい。
「同じ男として、同情したのさ。それだけだよ」
「先生。私、もしかして石坂先生は、奥さんと上手くいってないのかな?と思ってお訊きしたんです。そうしたら、上手く言ってるって。愛情はこれまでと変わらないのに、そこに君が入り込んできたって。不思議に思いました。奥さんを愛しているのに、そこへ他の女性が入り込んでくるって、どういう事?って。石坂先生は、多分、奥さんが全てでは無いからなんだろうって。結婚された時から全てでは無かったそうです。この人となら穏やかな家庭を築いていけると思って一緒になったんだそうです。だから、時々心が寄り道をしてしまうって。結婚の形って、人それぞれでしょうけど、私はちょっと悲しくなりました」
「そうか。まぁ、どういう気持ちで結婚を決意するのかは、本当にそれぞれだからなぁ。配偶者が全てではなくたって、寄り道をしない人間もたくさんいる。逆に、最初は全てであっても、時間の経過と共に、そうでなくなる場合も数多い。こればっかりはな」
「先生は?」
理子は射すような目で、真っすぐに蒔田を見つめて言った。
「俺は、最初から最後まで、君が全てだ。君も同じだと信じてる」
その言葉に、理子は嬉しそうに笑った。
蒔田はそんな理子をたまらなく愛しく思った。
体が不自由なのが恨めしいが、そのお陰で、こういう時間を理子と持てているのだ。
幸福な時間だった。
全てを忘れて、この時間だけを満喫したいと、心から思うのだった。
彰子の言葉に、蒔田は何と答えたら良いのかわからなかった。
「あなたは幸い独身だけど、私の先生は違った。結婚してるのは最初から知ってたから憧れていただけだったんだけど、何度も何度も『好きだ』って言われて。放課後、誰もいない教室に呼び出されて、ものにされちゃったわ。それからは愛人の道をまっしぐら」
彰子の話しに二人とも何も言えない。
「その先生には、気を付けた方がいいわ。生徒にとっては、教師の存在って特別だから」
「わかった。言いにくい事を話してくれて、ありがとう」
「いいえ。どうせ、もう過去の事だから」
「あ、あの.....」
古川が遠慮勝ちに口を挟む。
「その先生とは、どうなったのかな?」
「妻と別れて、私が卒業したら結婚するって言ってたのに、私が卒業したら県外へ引っ越して行って、それきりよ。酷いでしょ」
「それは、酷い」
「お前.....、在学中にそんな事がありながら、東大へ合格したんだな」
蒔田がつくづく感心したような口ぶりで言った。
「なんかお前はやっぱり、彼女と似てる」
「あらっ。それって、どういう意味?」
「最初に会った時、お前は媚びない目で俺を見てた。俺は、それに興味を持ったんだ。そんな目で俺を見る女に出会った事が無かったから。彼女も同じだった。あまり飾らない所も似てるし、頭がいい所も似てる。嫉妬しない所も同じだし、サバサバしている所も似てる」
「そうなんだ。それを聞くと嬉しいけど、それでも貴方は、私を愛さなかった。彼女を愛して。その違いは何なのかしらね」
「そう言われると、俺も困るんだ。その違いは何なんだろうな」
「彼女がピュアだからじゃないのか」
古川が言った。
「それって、私に対して酷く無い?」
彰子が古川を睨みつけた。
「いや、ごめんごめん。彰子ちゃんがピュアじゃないとかって意味じゃないんだよ。何ていうか、さっき、蒔田が彼女を染まらない女だって言っただろう。その辺に理由があるんじゃないかと.....」
「古川の言いたい事、何となくわかるよ。俺もそう思う。彰子は、サバサバしてるし意志も強いが、どこか脆い所があって結局は染まるんだ。だが彼女は、脆さを抱えて流されそうでいながら、決して流されない。染まらない。最初、彼女の事を色が無いと思った。どの色でも表現でき
なかったからだ。だが最近気付いた。その時々によって色が変わる玉虫色なんだってね。そこに俺は惹かれたんだ」
玉虫色か。さっき彼女を見て、捉え難さを感じたのも、そういう事なのだろうか。
「そう言えば、この間もそう言ってたよな。じゃぁ、素直で従順そうに見えるけど、違う面もたくさんあるって事か」
蒔田は笑う。
「素直で従順なんて、とんでもない。俺は最初、彼女の事を何て扱いにくい女なんだって思ったんだぜ。天の邪鬼のひねくれ者だ」
「へぇー。そんな風には見えないけどな」
「そうだろう。そんな風には見えないんだ。そう思っていると、足元をすくわれる。俺は何度、すくわれた事か」
「それは、面白い。お前がねぇ」
「そう。この俺が。でもって、すくわれるたびに、気持ちが深まってくんだ。彼女を知る程、愛情が深まる。今じゃすっかり、完全なるヘナチョコさ」
「はははっ。クールな男も今じゃヘナチョコか。どうだ?ヘナチョコになった感想は」
「こんな嬉しい事は無い。愛し合えるって、最高だな」
「うへっ。駄目だ、こりゃぁ。当てられるだけだから、そろそろ帰ろう、彰子ちゃん」
そう言うと、古川は腰を上げた。
「お前ら、来てくれてありがとうな。最初はちょっと焦ったが、信用できるお前らだもんな。来てくれて嬉しいよ。誰にも言えない恋だから、ずっと我慢してきたんだ。だからつい、饒舌になってしまった。聞いてもらって良かったよ」
「そうか。まぁ、誰にも話せないもんな。折角、愛するようになったのに。俺達は、絶対に秘密は守るから、また話したくなったらいつでも話せよ。お前が楽しそうに語るのを聞くのは嬉しいからさ」
「ありがとう」
病室を出て行く二人をベッドの上から見送りながら、蒔田は満ち足りていた。
「あら?もう帰えられたんですか?」
戻って来た理子が不思議そうに病室内を見回した。
「うん。ごめんな。一人で食事に行かせて」
「いえ、全然。だって、どうせ私しかいないし」
理子はベッドのそばの椅子に腰かけた。
「楽しかったですか?」
「ああ。色々話せて楽しかったよ」
「それは良かったですね」
蒔田が本当に楽しそうな顔をしているので、理子は安心した。
友人の古川は、本当に面白い人だ。あの人には、蒔田も何でも話せるようだ。
蒔田にとって初めての女性だと言う、彰子を紹介された時には、さすがの理子も面食らった。確かに話しに聞いてはいたが、まさかここへ現われて紹介されるとは思ってもいなかった。
蒔田は、彼女には好意を持ってはいたが、結局愛せなかったと以前言っていた。
確かに蒔田の苦手な華美な雰囲気の女性とは違って、知的で地味な感じだった。
「理子は、彼らと会って緊張した?」
「そうですね。突然だったので。でも日曜日だから、こういう事もあるんでしょうね」
「彰子の事、どう思った?」
蒔田の目に僅かに不安げな影を感じる。
「どうって言われても.....。先生があんな風に紹介されるから、どう対応したらいいのか困りました」
「そうか。でも君は、顔色一つ変えずに余裕かましてたじゃないか」
「余裕って.....。じゃぁ、違う態度の方が良かったですか?もっとビックリすれば良かったんでしょうか?」
「普通の女の子なら、ビックリしたり恥ずかしがったりするんじゃないのか?」
「すみません。普通の女の子じゃなくて」
「いや、いいさ。それより、どう思った?彼女の事」
「いやに気にされますね。どんな答えを先生は期待されてるんでしょうね」
「期待なんかしてないよ。君がどう思ったのかを知りたいだけだ。いちいち絡まないで教えてくれないか」
「難しい質問をされるからです。知的な感じの人ですよね。でも、どこか寂しそうな印象を受けました」
「寂しそうか。確かにな。それで、やっぱり全然、嫉妬はしなかったのか?」
「期待してないとか言いながら、やっぱり、そういう答えを期待されてるんじゃないですか」
理子は軽く、蒔田を睨んだ。
「だから、期待なんてしてないって。ちょっと聞いてみただけだよ。それで、他には?」
「あの人は、まだ先生の事が好きなのかな。私に嫉妬してるのが伝わってきました。優しい、いい人のようだから、ちょっと申し訳ないような気持ちになりました」
「そうか。やっぱり君は敏感だな」
蒔田は溜息を吐くように、そう言った。
「先生も酷な事をされますよね。先生だって、感じてたんでしょう?なのに、随分とあけすけに色々とおっしゃってましたよね」
「いいのさ、あれで。彰子も頭のいい、敏感な女だ。俺の真意を汲み取ってくれてると思う」
それはそうかもしれない。だが、同じ女性として、その心を思うと胸が痛い。見込みが無い事をはっきりと示された時の心の痛みは、理子も経験しているからよくわかる。
「ところで、話が変わるんだが」
「はい。何でしょう?」
「石坂先生の事なんだ」
その言葉に、理子はドキリとした。
「どうかしましたか?」
「あれから、どう?何か、言われた?」
蒔田は心配そうに訊ねて来た。
「この間、私がここへ来た日に言われました」
「何て」
「私に対して、興味の段階を越えて、ひとつの想いになってしまっている、って」
「何だって?職員室でか?」
「はい」
「そもそも、何でそんな話しになったんだ」
「文化祭の合唱のソロの話しからですよ。あの時、校長の握手がきっかけで、みんなが握手を求めてきたじゃないですか。あの話しになって、あの時は僕もしたかったのに出来なくて残念だったって」
「何で、そんな事を言い出すんだ。本気なのか」
「本気みたいですよ。私が自分との事を考えてくれるのなら、妻とは別居するっておっしゃいましたから」
理子の言葉に、蒔田の顔は蒼白になった。
「頭が、変になったんじゃないのか?あの先生は」
「私も、同じように思いました。どうしてそこまで考えるようになるのか不思議です。しかも、職員室ですよ。あの時の職員室は、先生の事で女生徒達が大勢詰めかけていたので、騒然としてたんです。諸星先生も校長室でしたし。だから、誰も私達の事に気付かない状態だったんですよね」
蒔田が戦慄きながら言った。
「それで君は、どうしたの?」
理子は笑って言った。
「畏れるに足りません。しっかり撃退しておきましたから、大丈夫ですよ、心配されなくても」
「どういう意味だい?」
「あの先生は、結局のところ臆病者です。少しずつ小出しにしながら、私の気を引こうとするけど、行動には絶対に移せない。相手の気持ちや覚悟を確認してからでないと駄目なんですよ。まぁ、そういう人で良かったですけどね。渕田君みたいに直接行動に出て来られたら大迷惑だし。
だから、しっかり引導を渡しておきましたから。最後には『君には数学以外では勝てないみたいだね』ですって。情けない人ですよね。笑っちゃいます」
蒔田は理子の話しに唖然とした。
『数学以外では勝てない』か。
その言葉は、それだけ理子を思っている事の証しじゃないか。
理子に惚れた人間は、結局は、みんなそうやって理子には勝てなくなるのだ。
まさに惚れた弱みだ。それなのに理子は、石坂を『情けない人』呼ばわりだ。
蒔田は石坂に同情した。
「どうしたんですか?心配ないですよ?まさかまた、焼きもち?」
「いや.....。君の言葉を聞いて安心した。だが、君の言い
「あら。先生にしては、珍しい事をおっしゃるんですね」
理子は、ここまで言えば蒔田も嫉妬したりしないだろうと踏んで言ったのだった。どうやら功を奏したらしい。
「同じ男として、同情したのさ。それだけだよ」
「先生。私、もしかして石坂先生は、奥さんと上手くいってないのかな?と思ってお訊きしたんです。そうしたら、上手く言ってるって。愛情はこれまでと変わらないのに、そこに君が入り込んできたって。不思議に思いました。奥さんを愛しているのに、そこへ他の女性が入り込んでくるって、どういう事?って。石坂先生は、多分、奥さんが全てでは無いからなんだろうって。結婚された時から全てでは無かったそうです。この人となら穏やかな家庭を築いていけると思って一緒になったんだそうです。だから、時々心が寄り道をしてしまうって。結婚の形って、人それぞれでしょうけど、私はちょっと悲しくなりました」
「そうか。まぁ、どういう気持ちで結婚を決意するのかは、本当にそれぞれだからなぁ。配偶者が全てではなくたって、寄り道をしない人間もたくさんいる。逆に、最初は全てであっても、時間の経過と共に、そうでなくなる場合も数多い。こればっかりはな」
「先生は?」
理子は射すような目で、真っすぐに蒔田を見つめて言った。
「俺は、最初から最後まで、君が全てだ。君も同じだと信じてる」
その言葉に、理子は嬉しそうに笑った。
蒔田はそんな理子をたまらなく愛しく思った。
体が不自由なのが恨めしいが、そのお陰で、こういう時間を理子と持てているのだ。
幸福な時間だった。
全てを忘れて、この時間だけを満喫したいと、心から思うのだった。