第98話
文字数 5,435文字
年が明けた。
理子は元旦はのんびりと過ごしたが、二日からは受験モードに入った。
ただ根は詰めない。お正月と言うイベントで、まず生活のリズムを乱さないように気を付けた。大晦日も、いつも通り二十二時に就寝し、元日は五時起きだ。
理子の家族は、いつもと変わらない。多少は気を使ってはいるようだったが、自分達は自分達でいつも通りと言った感じだ。
受験生だからと言って、腫れ物に触るように扱われても、それはそれで逆に神経が逆立ってきそうだから、こういう素っ気なさは有難かった。
時々、先生は今ごろ何をしているんだろう?と思う。
クリスマスの日。蒔田は矢張り約束通り、理子を抱かなかった。
交われば、その時は至福の思いに浸れる。満たされる。だが交われば交わる程、理子は深い淵へと落ちて行くのを感じていた。
勿論、蒔田もその事をわかっている。現実へ戻ってくるのに時間がかかる。どう考えても受験に差障りが生じるのは明白だ。
蒔田のそばで、蒔田の息遣いを肌身に感じて、そのまま何も無い状況は理子にとっても辛いものになってきていた。
お互いに、もう限界だった。
だから、あの日を最後にした。
これからは、二人の未来の為に受験に集中する。全ては、自分達の為なのだ。
第一次のセンター試験は冬休みが終わって十日後にある。あと二週間で第一関門に到着するわけだ。ここを通過しない事には、東大を受験する事ができない。受験科目の多さには、矢張り辟易とする。
最後の詰めだ。全ての事を棚に上げて、理子は勉強に集中した。
受験生は皆同じだ。同じ思いをしている筈だ。自分に勝てない人間が合格できるわけがない。
新学期、登校すると、皆の目付きが休み前とは違っていた。
もう、十日後なのだ。センター試験を利用せずに独自の選抜を行っている所は、すぐに始まる。その一方で、秋に推薦で合格している者は、のんびりとしている。
今年は暖冬のようで、受験日の降雪の心配は今のところ無い。
二日間に渡ってのセンター試験、合格発表を待たずに東大の前期日程の願書提出、合格していれば、二次試験を受ける。
その合格発表は三月十日である。落ち着かない二カ月間だ。
休み明けの日、学校で久しぶりに蒔田に会って、胸が高鳴った。
補習クラスのメンバーは、冬休み中に出された課題のチェックを、翌週の月曜日から一人ずつ順番に職員室に呼ばれて、蒔田から直接指導を受ける事になっていた。
クラス順だったので、理子は最後の最後だった。
「休み中は、どうだった?」
蒔田に優しい顔で問いかけられた。職員室でこうして二人で話すのは、二年の夏休みの時以来だ。
あの時は夏休みで他の職員もおらず、二人きりだったが、今は周囲に先生達が沢山いるし、生徒も出入りしている。
こういう状況で蒔田の許に居るのは初めてだった。
普段、大抵蒔田の周囲には女生徒達が多く取り巻いていて、近寄れる雰囲気ではない。
「いつも通り、生活のリズムを乱さずに、マイペースで過ごせたと思います」
蒔田の優しい顔に、理子はどういう表情で受け答えをしたら良いのか迷った。学校で、蒔田のこういう表情は滅多に見ないからだ。
とは言え学校である。矢張りここはポーカーフェイスだろう。
「そうか。じゃぁちょっと、課題表を見せてくれるかな」
蒔田に言われて、持参した課題表を渡した。それを見る蒔田の目は真剣だ。
蒔田は横顔も綺麗だ。鼻が高く形も良い。頬にある三つの黒子がキュートだし、首にある黒子は何だか悩ましい。
「うん。問題無いな」
見終わった蒔田の言葉を聞いて、理子はホッとした。
「じゃぁ、もういいですか?」
「すぐ帰りたがるんだな.....」
蒔田が呟くようにボソリと言った。
理子が驚いて返事を出来ずにいると、「相変わらず、つれないな」との言葉が出て来た。
思わず、周囲に視線を巡らす。
幸い、聞こえそうな範囲には誰もいない。
「先生、何言ってるんですか」
理子は小声で言った。
「こういう機会は滅多に無いからな。それに久しぶりだから、もっと君の顔を見ていたいし」
理子は頬が熱くなってくるのを感じた。そんな理子を見て蒔田は軽く笑った。
「ポーカーフェイスが保てなくなってきたか?」
「先生も相変わらず意地悪ですね」
理子はそう言って、軽く睨むのだった。
「こうして向き合ってると、ついな。でも、たまにはこういうのも楽しいだろう?」
蒔田の表情は明るい。何かさっぱりしている感じがする。
「私は楽しむ余裕は無いです。ハラハラしてますよ。だって、絶対に誰かが先生を見てますよ」
女生徒に人気の蒔田である。職員室内には何人も女生徒が来ている。
蒔田の事を気にしていないわけがない。そんな中で親しげに話しなんてできない。
「そうか。わかったよ。君の場合、何も問題は無いから他に言う事も無いんだ。わざと間違えるとかしてきてくれたら嬉しかったんだけどな。幸い、近くに誰もいないから少しでも長く一緒にいたかったんだが、まぁ、仕方が無い」
「あの、まさか、怒って無いですよね?」
理子は蒔田の言葉に急に不安になって、そう訊ねたのだった。
「馬鹿だな。そんな事で怒る訳ないじゃないか。センター試験に関しては全く問題はないから、体調管理に気を付けるように。あとは、精神的なストレスを溜め無い事。それだけ気を付ければいいから」
「わかりました。ありがとうございました」
理子はそう言って、丁寧に頭を下げた。
背中に蒔田の視線を感じながら、職員室を後にした。ほっと息を吐く。少し緊張した。
何と言っても、周囲の目が気になる。逆に蒔田はまるで気にしていなように見えた。
何故なのだろう?
翌日の金曜日、補習クラスのセンター試験最終対策だった。
最後の心得や注意事項の確認だ。時間配分やペース、気持ちの落ち付け方等、細かい所まで指導された。
もう、明後日だ。
流石に皆、緊張した面持ちだ。
家に帰ると、家族も落ち着かない様子だった。縁起担ぎにかつ丼が出た。
嬉しいが、益々緊張してくる。
夜はいつもと比べると寝付きが悪かった。その為、試験前日の朝、起きるのが辛かった。
それでも理子はいつも通りに起き、軽くウエイトトレーニングをしてから朝食の支度をして摂取した。
休日だから、母はいつにも増して起床が遅い。
妹も同様だ。営業職である父だけが、仕事である。
「明日は、何時に家を出るんだ?」
「七時に出るつもり」
「そうか。早いな」
「お父さんが家を出る時間よりは遅いかな。お父さんは毎日大変だよね」
朝が早いと、寒い冬は堪える。年齢の上昇と共に、その辛さは増すだろう。
「サラリーマンはみんな同じさ。通勤に時間を費やす人間の方が遥かに多いだろう。先生だって、同じだと思うぞ」
全くその通りだ。結婚したら、蒔田は今よりも通勤時間が長くなる。
その分、朝早く家を出なければならない。
受験態勢に入ってから早起きになった理子は、蒔田の出勤時間が早くなっても、ちゃんと朝食の支度をしてやれる余裕がある。
やっぱり、早起きになっておいて良かったと、思った。
父はまだ暗いうちに出勤していった。夏なら既に明るいが、この時期は七時近くまで薄暗い。
明るくなったら、ウォーキングに出ようと思い、支度を始めていたら、蒔田からメールが来た。
久しぶりだ。
“明日の為に、今日は一日、
ゆったり過ごすように。”
語尾にハートマークが付いていた。それを見て、理子の顔が綻 んだ。
もう明日の事は考えないようにしよう。
考えても仕方が無い。ここまできて、じたばたしてもしょうがない。
やるだけの事はやった。取りこぼしは無い筈だ。
七時を過ぎて陽が射してきたので、理子は父のカメラを持って外へ出た。
空気はとても冷たいが、澄んでいて気持ち良い。
風も無く、穏やかだ。
休日なので人も殆どいない。静寂だ。周辺は住宅街なので、冬は緑が少ない。コニファー類くらいか。
理子は落葉樹の方が好きで、冬は葉を落とした裸木に美を感じる。そんな、自分が魅力を感じた裸木にシャッターを切った。冬の朝の一コマだ。
小一時間ほどで、家へ戻った。母が起きて洗濯を始めていた。
外から帰って来た理子がカメラを持っているのに気付き、驚愕した。
「ちょっと、何してきたの?呑気過ぎない?」
「いいの。明日緊張し過ぎないように、今日はのんびり過ごすようにって学校で言われたから」
「だからって、のんびりし過ぎるのも困るんじゃないの?」
母は非難の目を向けて来た。
「大丈夫だって。やるだけの事はちゃんとしてきたんだから」
理子はそう言うと自分の部屋へ戻り、編み物を始めた。蒔田への誕生日プレゼントである。
編んでいるのは手袋だ。
最初のクリスマスの時から予定していたのだ。マフラー、帽子、手袋の三点セットでいこうと。
その為に、最初に毛糸を買う時に全部編める分量を買った。
毛糸は毎年更新されるので、全く同じ毛糸を入手できるとは限らない。
帽子も手袋も、最初に編んだマフラーと同じ図柄なので手間がかかる。だがその分、編みがいもある。
BGMはバッハにした。
理子が一番好きな作曲家はチャイコフスキーで、次はショパンだが、落ち着いた気持ちで、耳触りにならずに気持ち良く聴けるのは、やはりバッハだろう。
根を詰め過ぎないように、ゆっくりしたペースで編んでいる。
ゆったりした気分に飽きて来た所で、理子は階下へ行って新聞を読んだ。
隅々まで見る。その後、図書館へ出かけて、他紙も読んだ。
受験シーズンの図書館は混んでいた。受験生の多くが、理子と同じように明日のセンター試験を受けるのだ。必死に勉強している姿ばかりだった。
理子はそれを横目で見た。見ながら、自分のペースを確認した。他人に惑わされて焦ってはいけない、と蒔田に言われていた。
新聞を見終わった後、歴史や文学の書架を見に行った。まだ読んでいない本が沢山並んでいる。どのタイトルにも心惹かれた。
受験が終わったら早速ここへ来て、何冊か借りよう。そう心に決めて、図書館を後にした。
一端帰宅し、母からお金を貰って買い物に出かけた。
駅のショッピングセンターへ行ったら、枝本と遭遇した。
「あれ?どうしたの?」
それはこちらの台詞でもある。
「同じ言葉をお返しします」
「俺は文具のストックが少々心許ないと思って、気分転換も兼ねて買いに来たんだ。君は?」
「私は食事の材料と、明日のお弁当の材料を買いに」
「ええっ?そういうのって、お母さんがやってくれるものじゃないの?」
驚きの表情でそう言われた。普通の家庭なら、きっとそうなんだろう。
翌日にセンター試験を控えている子供に、そんな買い物をさせる親は、そう多くはいないだろう。
しかも、多分確実に明日の朝食も弁当も自分が作る事になるのだろうと思っている。
どうせ母に作って貰っても、ご飯が煮汁を吸っていたり、彩りが悪かったり、お弁当に向かないものを平気で入れたりするのだから、やって貰わない方が良い。
「気分転換よ。もう、あくせくしてもしょうがないしね。変に焦ってもいい事ないだろうし」
「そうだよな。俺も、じっとしてても逆に緊張するだけだから、敢えて出て来たんだ」
明日のセンター試験では、みんな会場が一緒である。教室は別々だが、会場が同じというだけでも、心強い。
「良かったら、お茶でもと言いたいところだけど、買い物して帰らないといけないみたいだね」
「そうなの。そうしないと、みんなお昼を食べれない.....」
そう言って、理子は枝本と別れ、買い物を済ませて帰宅した。
「お昼の、何か買ってきた?」
と、母に訊かれた。
『何か』とは、出来あいの物の事である。
「ううん」
「あら。お母さん、作らないわよ」
当たり前のように言う。
「わかってるって。私が作るから。スパゲティにしようと思って」
理子はそう言ってパスタを茹でる準備をし、具材の準備に取り掛かった。
和風スパゲティである。理子の作る和風スパゲティは、ナポリタンのしょうゆ味と言った感じだが、具材はその時にある物を何でも使う。
この日は、ツナ、玉ねぎ、キャベツ、ほうれん草、人参、しめじを使った。麺がうどんに変われば、焼うどんになるだろう。
だが麺が変わっただけで、全く別の様相を見せるのだから、面白い。
このスパゲティは家族のウケが良く、普段パスタはあまり食べない父も、喜んで食べるのだった。具だくさんだから、他にはコンソメスープを添えるだけだ。
このコンソメスープには、小さくサイの目に切った豆腐を入れる。これが結構合う。隠し味にしょうゆを垂らす。
食後、少し休んでから、理子はピアノを弾いた。
最初にモーツアルトを数曲弾き、その後にハイドンを弾き、指が馴れた所で趣が全く違うショパンを弾いた。ワルツを数曲、その後にノクターンを数曲弾き、終わりにした。
部屋へ戻るとダンベルを始め、ストレッチをしてからパソコンを付けてゲームを始めた。
この日はマージャンをして遊んだ。疲れるといけないので、半チャンで止めた。成績は良かったので、後味も良い。
再び少し体を動かした後、翌日の準備をして、何度もチェックをする。
そうやって、一日の時間は過ぎ、ゆったりと夕食を摂り、ゆったりと入浴を終え、いつも通りに就寝した。
昨夜寝付けなくて少々睡眠不足だった為か、すぐに眠りに付いたのだった。
理子は元旦はのんびりと過ごしたが、二日からは受験モードに入った。
ただ根は詰めない。お正月と言うイベントで、まず生活のリズムを乱さないように気を付けた。大晦日も、いつも通り二十二時に就寝し、元日は五時起きだ。
理子の家族は、いつもと変わらない。多少は気を使ってはいるようだったが、自分達は自分達でいつも通りと言った感じだ。
受験生だからと言って、腫れ物に触るように扱われても、それはそれで逆に神経が逆立ってきそうだから、こういう素っ気なさは有難かった。
時々、先生は今ごろ何をしているんだろう?と思う。
クリスマスの日。蒔田は矢張り約束通り、理子を抱かなかった。
交われば、その時は至福の思いに浸れる。満たされる。だが交われば交わる程、理子は深い淵へと落ちて行くのを感じていた。
勿論、蒔田もその事をわかっている。現実へ戻ってくるのに時間がかかる。どう考えても受験に差障りが生じるのは明白だ。
蒔田のそばで、蒔田の息遣いを肌身に感じて、そのまま何も無い状況は理子にとっても辛いものになってきていた。
お互いに、もう限界だった。
だから、あの日を最後にした。
これからは、二人の未来の為に受験に集中する。全ては、自分達の為なのだ。
第一次のセンター試験は冬休みが終わって十日後にある。あと二週間で第一関門に到着するわけだ。ここを通過しない事には、東大を受験する事ができない。受験科目の多さには、矢張り辟易とする。
最後の詰めだ。全ての事を棚に上げて、理子は勉強に集中した。
受験生は皆同じだ。同じ思いをしている筈だ。自分に勝てない人間が合格できるわけがない。
新学期、登校すると、皆の目付きが休み前とは違っていた。
もう、十日後なのだ。センター試験を利用せずに独自の選抜を行っている所は、すぐに始まる。その一方で、秋に推薦で合格している者は、のんびりとしている。
今年は暖冬のようで、受験日の降雪の心配は今のところ無い。
二日間に渡ってのセンター試験、合格発表を待たずに東大の前期日程の願書提出、合格していれば、二次試験を受ける。
その合格発表は三月十日である。落ち着かない二カ月間だ。
休み明けの日、学校で久しぶりに蒔田に会って、胸が高鳴った。
補習クラスのメンバーは、冬休み中に出された課題のチェックを、翌週の月曜日から一人ずつ順番に職員室に呼ばれて、蒔田から直接指導を受ける事になっていた。
クラス順だったので、理子は最後の最後だった。
「休み中は、どうだった?」
蒔田に優しい顔で問いかけられた。職員室でこうして二人で話すのは、二年の夏休みの時以来だ。
あの時は夏休みで他の職員もおらず、二人きりだったが、今は周囲に先生達が沢山いるし、生徒も出入りしている。
こういう状況で蒔田の許に居るのは初めてだった。
普段、大抵蒔田の周囲には女生徒達が多く取り巻いていて、近寄れる雰囲気ではない。
「いつも通り、生活のリズムを乱さずに、マイペースで過ごせたと思います」
蒔田の優しい顔に、理子はどういう表情で受け答えをしたら良いのか迷った。学校で、蒔田のこういう表情は滅多に見ないからだ。
とは言え学校である。矢張りここはポーカーフェイスだろう。
「そうか。じゃぁちょっと、課題表を見せてくれるかな」
蒔田に言われて、持参した課題表を渡した。それを見る蒔田の目は真剣だ。
蒔田は横顔も綺麗だ。鼻が高く形も良い。頬にある三つの黒子がキュートだし、首にある黒子は何だか悩ましい。
「うん。問題無いな」
見終わった蒔田の言葉を聞いて、理子はホッとした。
「じゃぁ、もういいですか?」
「すぐ帰りたがるんだな.....」
蒔田が呟くようにボソリと言った。
理子が驚いて返事を出来ずにいると、「相変わらず、つれないな」との言葉が出て来た。
思わず、周囲に視線を巡らす。
幸い、聞こえそうな範囲には誰もいない。
「先生、何言ってるんですか」
理子は小声で言った。
「こういう機会は滅多に無いからな。それに久しぶりだから、もっと君の顔を見ていたいし」
理子は頬が熱くなってくるのを感じた。そんな理子を見て蒔田は軽く笑った。
「ポーカーフェイスが保てなくなってきたか?」
「先生も相変わらず意地悪ですね」
理子はそう言って、軽く睨むのだった。
「こうして向き合ってると、ついな。でも、たまにはこういうのも楽しいだろう?」
蒔田の表情は明るい。何かさっぱりしている感じがする。
「私は楽しむ余裕は無いです。ハラハラしてますよ。だって、絶対に誰かが先生を見てますよ」
女生徒に人気の蒔田である。職員室内には何人も女生徒が来ている。
蒔田の事を気にしていないわけがない。そんな中で親しげに話しなんてできない。
「そうか。わかったよ。君の場合、何も問題は無いから他に言う事も無いんだ。わざと間違えるとかしてきてくれたら嬉しかったんだけどな。幸い、近くに誰もいないから少しでも長く一緒にいたかったんだが、まぁ、仕方が無い」
「あの、まさか、怒って無いですよね?」
理子は蒔田の言葉に急に不安になって、そう訊ねたのだった。
「馬鹿だな。そんな事で怒る訳ないじゃないか。センター試験に関しては全く問題はないから、体調管理に気を付けるように。あとは、精神的なストレスを溜め無い事。それだけ気を付ければいいから」
「わかりました。ありがとうございました」
理子はそう言って、丁寧に頭を下げた。
背中に蒔田の視線を感じながら、職員室を後にした。ほっと息を吐く。少し緊張した。
何と言っても、周囲の目が気になる。逆に蒔田はまるで気にしていなように見えた。
何故なのだろう?
翌日の金曜日、補習クラスのセンター試験最終対策だった。
最後の心得や注意事項の確認だ。時間配分やペース、気持ちの落ち付け方等、細かい所まで指導された。
もう、明後日だ。
流石に皆、緊張した面持ちだ。
家に帰ると、家族も落ち着かない様子だった。縁起担ぎにかつ丼が出た。
嬉しいが、益々緊張してくる。
夜はいつもと比べると寝付きが悪かった。その為、試験前日の朝、起きるのが辛かった。
それでも理子はいつも通りに起き、軽くウエイトトレーニングをしてから朝食の支度をして摂取した。
休日だから、母はいつにも増して起床が遅い。
妹も同様だ。営業職である父だけが、仕事である。
「明日は、何時に家を出るんだ?」
「七時に出るつもり」
「そうか。早いな」
「お父さんが家を出る時間よりは遅いかな。お父さんは毎日大変だよね」
朝が早いと、寒い冬は堪える。年齢の上昇と共に、その辛さは増すだろう。
「サラリーマンはみんな同じさ。通勤に時間を費やす人間の方が遥かに多いだろう。先生だって、同じだと思うぞ」
全くその通りだ。結婚したら、蒔田は今よりも通勤時間が長くなる。
その分、朝早く家を出なければならない。
受験態勢に入ってから早起きになった理子は、蒔田の出勤時間が早くなっても、ちゃんと朝食の支度をしてやれる余裕がある。
やっぱり、早起きになっておいて良かったと、思った。
父はまだ暗いうちに出勤していった。夏なら既に明るいが、この時期は七時近くまで薄暗い。
明るくなったら、ウォーキングに出ようと思い、支度を始めていたら、蒔田からメールが来た。
久しぶりだ。
“明日の為に、今日は一日、
ゆったり過ごすように。”
語尾にハートマークが付いていた。それを見て、理子の顔が
もう明日の事は考えないようにしよう。
考えても仕方が無い。ここまできて、じたばたしてもしょうがない。
やるだけの事はやった。取りこぼしは無い筈だ。
七時を過ぎて陽が射してきたので、理子は父のカメラを持って外へ出た。
空気はとても冷たいが、澄んでいて気持ち良い。
風も無く、穏やかだ。
休日なので人も殆どいない。静寂だ。周辺は住宅街なので、冬は緑が少ない。コニファー類くらいか。
理子は落葉樹の方が好きで、冬は葉を落とした裸木に美を感じる。そんな、自分が魅力を感じた裸木にシャッターを切った。冬の朝の一コマだ。
小一時間ほどで、家へ戻った。母が起きて洗濯を始めていた。
外から帰って来た理子がカメラを持っているのに気付き、驚愕した。
「ちょっと、何してきたの?呑気過ぎない?」
「いいの。明日緊張し過ぎないように、今日はのんびり過ごすようにって学校で言われたから」
「だからって、のんびりし過ぎるのも困るんじゃないの?」
母は非難の目を向けて来た。
「大丈夫だって。やるだけの事はちゃんとしてきたんだから」
理子はそう言うと自分の部屋へ戻り、編み物を始めた。蒔田への誕生日プレゼントである。
編んでいるのは手袋だ。
最初のクリスマスの時から予定していたのだ。マフラー、帽子、手袋の三点セットでいこうと。
その為に、最初に毛糸を買う時に全部編める分量を買った。
毛糸は毎年更新されるので、全く同じ毛糸を入手できるとは限らない。
帽子も手袋も、最初に編んだマフラーと同じ図柄なので手間がかかる。だがその分、編みがいもある。
BGMはバッハにした。
理子が一番好きな作曲家はチャイコフスキーで、次はショパンだが、落ち着いた気持ちで、耳触りにならずに気持ち良く聴けるのは、やはりバッハだろう。
根を詰め過ぎないように、ゆっくりしたペースで編んでいる。
ゆったりした気分に飽きて来た所で、理子は階下へ行って新聞を読んだ。
隅々まで見る。その後、図書館へ出かけて、他紙も読んだ。
受験シーズンの図書館は混んでいた。受験生の多くが、理子と同じように明日のセンター試験を受けるのだ。必死に勉強している姿ばかりだった。
理子はそれを横目で見た。見ながら、自分のペースを確認した。他人に惑わされて焦ってはいけない、と蒔田に言われていた。
新聞を見終わった後、歴史や文学の書架を見に行った。まだ読んでいない本が沢山並んでいる。どのタイトルにも心惹かれた。
受験が終わったら早速ここへ来て、何冊か借りよう。そう心に決めて、図書館を後にした。
一端帰宅し、母からお金を貰って買い物に出かけた。
駅のショッピングセンターへ行ったら、枝本と遭遇した。
「あれ?どうしたの?」
それはこちらの台詞でもある。
「同じ言葉をお返しします」
「俺は文具のストックが少々心許ないと思って、気分転換も兼ねて買いに来たんだ。君は?」
「私は食事の材料と、明日のお弁当の材料を買いに」
「ええっ?そういうのって、お母さんがやってくれるものじゃないの?」
驚きの表情でそう言われた。普通の家庭なら、きっとそうなんだろう。
翌日にセンター試験を控えている子供に、そんな買い物をさせる親は、そう多くはいないだろう。
しかも、多分確実に明日の朝食も弁当も自分が作る事になるのだろうと思っている。
どうせ母に作って貰っても、ご飯が煮汁を吸っていたり、彩りが悪かったり、お弁当に向かないものを平気で入れたりするのだから、やって貰わない方が良い。
「気分転換よ。もう、あくせくしてもしょうがないしね。変に焦ってもいい事ないだろうし」
「そうだよな。俺も、じっとしてても逆に緊張するだけだから、敢えて出て来たんだ」
明日のセンター試験では、みんな会場が一緒である。教室は別々だが、会場が同じというだけでも、心強い。
「良かったら、お茶でもと言いたいところだけど、買い物して帰らないといけないみたいだね」
「そうなの。そうしないと、みんなお昼を食べれない.....」
そう言って、理子は枝本と別れ、買い物を済ませて帰宅した。
「お昼の、何か買ってきた?」
と、母に訊かれた。
『何か』とは、出来あいの物の事である。
「ううん」
「あら。お母さん、作らないわよ」
当たり前のように言う。
「わかってるって。私が作るから。スパゲティにしようと思って」
理子はそう言ってパスタを茹でる準備をし、具材の準備に取り掛かった。
和風スパゲティである。理子の作る和風スパゲティは、ナポリタンのしょうゆ味と言った感じだが、具材はその時にある物を何でも使う。
この日は、ツナ、玉ねぎ、キャベツ、ほうれん草、人参、しめじを使った。麺がうどんに変われば、焼うどんになるだろう。
だが麺が変わっただけで、全く別の様相を見せるのだから、面白い。
このスパゲティは家族のウケが良く、普段パスタはあまり食べない父も、喜んで食べるのだった。具だくさんだから、他にはコンソメスープを添えるだけだ。
このコンソメスープには、小さくサイの目に切った豆腐を入れる。これが結構合う。隠し味にしょうゆを垂らす。
食後、少し休んでから、理子はピアノを弾いた。
最初にモーツアルトを数曲弾き、その後にハイドンを弾き、指が馴れた所で趣が全く違うショパンを弾いた。ワルツを数曲、その後にノクターンを数曲弾き、終わりにした。
部屋へ戻るとダンベルを始め、ストレッチをしてからパソコンを付けてゲームを始めた。
この日はマージャンをして遊んだ。疲れるといけないので、半チャンで止めた。成績は良かったので、後味も良い。
再び少し体を動かした後、翌日の準備をして、何度もチェックをする。
そうやって、一日の時間は過ぎ、ゆったりと夕食を摂り、ゆったりと入浴を終え、いつも通りに就寝した。
昨夜寝付けなくて少々睡眠不足だった為か、すぐに眠りに付いたのだった。