第102話

文字数 4,232文字

 マンションの該当棟の前で、担当者が待っていた。管理人と挨拶を交わし、新たなパスワードを設定して、十二階の部屋へと向かった。
 理子は急にドキドキしてきた。ここへ来るのは二回目だが、ひと月先には、ここに住むのだ。
 これからは、荷物を運び入れる為に何度もここへ足を運ぶ事になる。

 玄関を開けて中に入ると、最初に見に来た時よりも床がピカピカで、壁紙も新しくなっていて、全体的に明るくなっていた。
 まず水回りをチェックする。ちゃんと指定したものが入っているかを見、細かい部分をチェックした。

「工事中は、何度もチェックにいらっしゃったそうですね」

 担当者の言葉に、理子は驚いた。忙しかった筈なのに、抜け目が無い人だ。

「吉住さんのご紹介ですし、一括でのお支払いと言うことで、こちらも色々と細かい所に神経を使わせてもらいました」

「その様ですね。随所にそれが窺えます。こちらも感謝します」

 二人の会話に、理子もあちこち注意して見てみたら、確かに細かい所まで、きっちりと仕事がなされているようだった。
 本来、こうあって当たり前の事なのではあるが、最近は雑な施工が多いのが現状である。客が素人だと思って、舐められるのだ。

「どう?キッチンの方は。実際に取り付けられてみて、使い勝手に問題は無さそうかな」

「大丈夫です。とても使い勝手が良さそうで、嬉しいです」

 理子はあちこちと細かい所をチェックしたが、どこにも問題は無い。

「お嬢さんも、お若いのによくツボを心得てらっしゃるようですね」

 担当者が感心したように言った。

「父の影響です。こういうのを見るのが元々好きなのもありますし」

「成る程、そうでしたか。吉住さんも良いお嬢さんをお持ちだ」

「理子は、どっちの部屋を使いたい?」

 蒔田が訊ねて来た。各々の勉強部屋だ。玄関先にある二つの部屋のどちらを選ぶか、問いかけているのだった。

「勿論、私は狭い方で」

「いいのかい?」

「当然じゃないですか。世帯主さんの方が広い部屋でしょう、やっぱり」

「それって、差別じゃないのかい?」

「そんな事はありません。それに私、狭い方が落ち着くんです。四畳半でも十分なくらいですよ」

 理子の言葉に、蒔田は目を丸くした。

「四畳半?.....狭過ぎる.....」

「先生は大きいから、そう感じるんでしょうね。私はどちらかと言うと、かゆい所にも手が届くって感じの方が実は好きなんです。それに本とか、先生の方が荷物が多いでしょうし、やっぱり先生のお部屋の方が広くないと.....」

「そうだな。じゃぁ、そうさせてもらうかな。だけど、君の部屋は北西の位置だから、夏は暑いぞ」

「その時は涼しい部屋へ移動しますから、ご心配なく」

 二人は顔を見合わせて笑った。
 全ての手続きを終え、鍵を貰った。

「では、私はこれで。何か後々不具合等ございましたら、遠慮なくおっしゃってきて下さい」

 そう言って、担当者は引き取って行った。
 部屋に残された二人は、抱き合った。

「もうここは、俺達の部屋だ」

 蒔田が声が甘い。理子はその腕の中でコクリと頷く。

「久しぶりに、する?」

 理子は蒔田の言葉に、胸がキュンとしたが、首を振った。

「私、まだ卒業してないです」

 理子が呟くように言うと、蒔田は理子を抱く手を強めた。

「先生.....、苦しいです」

「俺を拒否した罰」

 理子は、蒔田の腕の中で体が火照ってゆくのを感じる。
 もう、どれだけ交わっていないだろう。最後は確か、文化祭の前の音楽準備室だったか。
 蒔田の心臓の音を聞きながら、そのぬくもりを感じ、理子は幸せだった。

「折角だから、これから家財道具を見に行かないか?」

 腕の力を緩めた蒔田が言った。

「えっ?でも、いいんですか?」

 幾らもうすぐ結婚するとは言っても、卒業式は明日だ。
 誰かに目撃されたら、明日の卒業式に影響しないか?卒業式の後には謝恩会もある。

「いいよ、もう。それに、これから行く場所は、多分、知ってる人間はそう来ない所だと思うし」

 そう言って蒔田が理子を連れて行った店は、大きな楽器店だった。
 家財道具を見に行くと言って、一番最初がピアノとは。
 蒔田は迷わずに、グランドピアノのコーナーへと歩いて行った。
 そして店員と話しをしてから、理子に言った。

「さぁ。好きなのを選んで」

「そ、そんな、好きなのって言われても.....」

 理子は周囲を見回す。かなりの数が並んでいた。

「お客様のお好みは、どう言った音色でしょう?」

 困惑している理子に店員が訊ねて来たので、理子は自分の好みを伝えながら店員と色々と相談し、ヤマハの手ごろなグレードのグランドピアノを選んだ。
 音色もタッチも気に入った。だが、価格の方は結構する。

 グランドピアノと言っても、矢張りピンキリである。
 百万を切る物もあれば、驚くほどの値段の物もある。
 理子が選んだピアノは、目を剥くほどではないが、高い方だ。

 理子が少し躊躇していたら、理子が気に入っているのを見てとった蒔田が、「これにしょう」と決めてしまった。
 そして値段交渉を始め出した。

 以前、買い物をする時には必ず値切ると言ってはいたが、こういう場所で、こういう物を買う時にも値切るとは思っていなかった。それも、かなり大胆な価格を提示している。

 そばにいる理子は、なんだか恥ずかしくなってきた。
 蒔田は下調べを入念にしていたようで、随分と詳しいようだった。他店とも比較検討したのが伝わって来た。色々な事を小出しにしながら、上手く駆け引きをしている。

 その上、相手が女性と言うこともあって、自分の魅力も利用しているのが窺えた。普段、女性には愛想が無いのに、やたらと愛想が良い。女性店員は、うっとりと蒔田を見つめていた。
 全品20%引きとなっているにも関わらず、40%引きにまでしてしまった。その上で椅子やメンテナンス用品、カバー等まで付けさせた。

 その手並みの良さに、理子は呆気にとられた。
 見た目の印象からは、全くわからない事だ。まさに意外な一面を見た思いである。

 その後は、家具の店に連れて行かれた。実はまだベッドは買っていないとの事だった。全ての家具を一か所で揃えて一括で買う変わりに、思いきり値引かせるつもりでいると笑って言う。

 ベッド、ダイニングテーブルと椅子、ソファーセット、食器棚、本棚、机と椅子等、全てを選んだ。
 蒔田は事前に下見をして目星を付けていたようで、理子は蒔田が目星を付けた幾つかの商品の中から選ばされた。
 凄い量だが、実際には、それほど時間はかかっていない。

 机・椅子・本棚は自分の部屋から持って行こうと思っていたのだが、蒔田は、それは実家へ行った時に使えるように置いておいた方が良いと言った。

 そんなわけで、一通りの家具は揃ってしまった。
 値段交渉に入り、また大胆な駆け引きを展開している。
 店員は大量の家具を購入してもらった事もあり、最初からそれなりに値引いた金額を提示したのだが、蒔田は更に値切ったのだった。
 
 店員は渋ったが、最後は結局、蒔田の提示額で落ち着いた。押しの強い人だ。

「先生もしかして、値切るのが大好きなんじゃないですか?」

 嬉々とした様子で、どう見ても楽しんでいるとしか思えない。

「あっ、わかる?でもこんなに値切れる事は、普段はそうないよ。一度に全部買うって強みがあるから、ここまでできたっていうのもある。こういう時じゃないと、できない事だ」

 この事を後日、義姉の紫に話したら、友人達の間では「値切りの蒔田」で有名なのだと言われた。
 普段、蒔田は自分の買い物はあまりしない。
 人だけでなく、物にも執着しないので、欲しい物はあまりないらしい。
 だが値切るのが好きな上に上手いので、友人・知人が買い物をする時には連れ出されて、値切りに使われるらしい。

 こうして、卒業式の前日を過ごしたのだった。
 家電は卒業式後、と蒔田は言った。
「家電が一番、楽しみだ」と、嬉々とした表情だ。
 それを見て、まるで家電芸人みたい、と理子は思い、笑いが込み上げて来た。

「何笑ってるの?」

 蒔田が不審そうな顔を向けている。

「いえ、なんか、面白いと言うか、急に楽しくなってきちゃって.....」

「そうか。じゃぁ、君の機嫌の良い所で、ひとつ、言っておきたい事があるんだけど」

「えっ?何ですか?」

 急に真面目になった蒔田のその言葉に、理子の笑いが治まった。

「実は卒業式が終わったら、諸星先生に俺達の事を話そうと思ってるんだ」

 理子は蒔田の考えを詳しく聞かされて、彼の思いを知った。
 事をなるべく円滑に進める為の布石の一つと言えた。
 難攻不落の城を落とすには、まずは周囲から攻略し、孤立させる事だ。

 去年の夏に、父の了解を得ておいて良かった。父が了解している事だから、校長も無下に否定する事はできないだろう。
 その上で、学年主任の諸星も味方に付けておけば、精神的にも楽だ。

「学校での仕事も、精一杯やっている。感謝されてもいい程にな。単に恋愛関係にあるわけじゃなく、結婚するんだ。双方が合意のもとで。立場の違いはあっても、非難される筋合いはないんだ」

 理子は蒔田のその言葉に、これまでの彼の苦労と苦悩を感じ取った。
 未成年で学生の自分より、遥かに精神的負担が重かったのだと悟った。

 理子が東大に合格したら結婚すると言う条件も、蒔田にとっては、かなり重かったに違いない。
 東大を受験するのは理子だ。自分自身の努力だけで、どうにかなる問題では無い。
 どれほどのサポートをしたところで、最終的には理子次第なのだ。その課題を、あえて課した。
 堂々と、自分達の結婚を主張したかったからなのだろう。

「先生、ありがとう。先生は、敢えて大変な道を選んだのね。なのに私、先生への思いやりに欠けてた。ごめんなさい」

 蒔田は優しい笑みを浮かべた。

「君は本当に聡明だな。俺の心をいつもそうやって察してくれるんだ。何だかんだとやり合っても、結局はわかってくれる。思いやりに欠けてるなんて、とんでもないよ。君ほど優しい人はいないと思ってる。いつだって俺を赦してくれる。俺の全てを受けれ入れてくれる。そういう人だと、すぐにわかった。だから、君と結婚したいと思ったんだ」

 蒔田の言葉が胸に深く沁みた。同じ言葉を全てお返ししたい。
 理子にとっても、全てを赦し、全てを受け入れてくれる、唯一人の人だと思う。

 理子は、蒔田の胸に顔を埋めて、静かに涙を零すのだった。
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