第112話

文字数 5,639文字

 朝霧高校では、理子が東大に合格した事で大騒ぎになっていた。
 合格発表の日の帰りのホームルームで、全クラスに報告され、在校生達の驚きは大きかった。

 翌日蒔田が登校すると、校内は興奮の渦に包まれていた。
 職員室へ着くと、教職員が一斉に拍手をして迎えてくれた。

 「おめでとうございます」と口々に言われ、不思議な感じがする。
 自分が受かったわけじゃないので、合格の事よりも結婚の事を言われているような気がしてくる。

「いやぁ、蒔田先生。よくやってくれました」

 校長が満面の笑みを浮かべながら、やってきた。両手を握られた。

「補習クラスは全員、志望校へ合格したし、先生のクラスの生徒達もみんな合格して、本当に頑張ってくれました。生徒達もよく頑張ったが、そこまで指導した先生のお手柄です。本当に、ありがとうございました」

 いつもは温厚な物言いの校長だが、今朝はとても興奮していた。

「それで、あの後、どうなりましたか?」

 校長が声をひそめた。

「それが.....」

 蒔田が言いにくそうにしていると、校長室へ誘われた。
 諸星先生も呼ぶ。

「蒔田先生、良かったな。合格して、万々歳じゃないか。理子も喜んでるだろう」

「はい。その件については。ですが.....」

 蒔田は、昨日の出来事を二人に語った。それを聞いて、二人は大いに驚いた。

「驚いて反対するのは理解できるが、それにしても理屈の通らないお袋さんなんだな」

 諸星は納得がいかないように眉間に筋を立てている。

「申し訳ありません。そういう訳で、入籍する前に一緒に暮らす事になってしまいました」

 その言葉に、校長と諸星は顔を見合す。
 現状を言い表すなら、教職者が未成年の女子と同棲している事になる。

「それは先生、仕方ないよ。親に追い出されて、他に行く所が無いんだ。数日後には入籍する予定だったんだから、当然の流れだよ。負い目を感じる事は無い。ねぇ、校長」

「私もそう思います。彼女をちゃんと保護する事を最優先すべきでしょう。夜、一人にしておくのも、好ましくないですしね」

 校長がそう言うと、諸星がニヤリと笑った。

「じゃぁ先生、昨夜はやったのかい?」

「諸星先生、何をおっしゃるんです」

 校長が制した。

「やってませんよ。そんな状況じゃないでしょう」

「蒔田先生も可哀そうに。まだお預け状態だ。俺だったら、絶対にやるぞ」

「諸星先生!」

 校長にいなされても、屁ともしない諸星だった。

「こうなったら、さっさとやっちまう事だ。既成事実を作っちまえ。そうすりゃぁ、親だって承諾するしかないだろうよ」

 諸星も大胆な事を言う。

「大丈夫だ。問題にはなるだろうが、免職になる事は無い。結婚するんだしな。ねぇ、校長」

「諸星先生、さっきからの過激な発言、控えて下さいよ。蒔田先生はまだ赴任して日が浅いんですから、ご存じない事の方が多いんです。変な事を教え込まないで下さい」

 校長は諸星の発言に、たじたじだ。

「校長先生、大丈夫ですよ。僕はそんな無謀な事はしませんから。彼女はこれから大学生になるんです。まずは勉強が第一でしょう」

「なんだよ、度胸が無いな~」

「度胸って、そういう問題じゃないですよ。彼女の事を思えば、です」

「君は我慢強いよな。俺なら我慢できねぇ。理子相手じゃ、駄目だ」

「どういう意味です?人の恋人に」

 蒔田は表情を少し固くして諸星を見た。

「おおっ、恋人と来たよ。いいねぇ~、恋人。その響き、俺好き。まぁ、心配するな。俺はもう、ジジイだから。だが、あと十歳若かったら、わかんねーけどな。石坂先生みたいな回りくどいやり方はしない。ストレートにガンガン行く。勿論、振られたらそれで終わりさ。潔く諦める。だが、そうで無かったら遠慮はしない。理子はいいよ。どこがいいって訊かれたら上手く言えないんだが、そこはかとない魅力がある。君だって、そこに惹かれたんだろう。男子にも隠れた人気があるようだが、みんな同じ理由だろう。同世代の男には、簡単に手を出せない雰囲気があるが、大人の男には、手籠めにしたくなるような所がある。自分のものにしておかなきゃ、気が治まらねぇ」

 表現は悪いが、諸星の言う通りだと思った。だから自分も、我慢できずに彼女を奪ってしまった。
 自分のものにしておかないと、気が治まらなかった。諸星の言う事は、いつも的確だ。

「諸星先生、女生徒に対して何をおっしゃるんです。手籠めにしたいだなんて、言語道断ですよ」

「校長だって、理子には鼻を伸ばしてたじゃないですか。文化祭の彼女の独唱の時なんて、握手を求めたりして。何だかんだ言っても、校長も男なんですよ、男」

 そうと言って、諸星は豪快に笑った。


 週が明けた月曜日、蒔田を学校へ送り出した後、理子は家事をしていた。
 お掃除ロボットがいると助かる。理子は家具や窓の掃除をした。

 土曜日に蒔田の実家へ二人で行き、蒔田の荷物を持ってきた。
 本の量がとに角凄い。それから、研究に関する数々のレポートや書類に資料。学校関係の書類。

 それに、音楽関係。楽器に楽譜、CD、DVD。更にパソコン関係。デスクトップなので大きいし、関連物も多い。大したものは無いと言っていたが、実際にまとめてみると結構な量だった。

 日曜日にはカーテンを買いに行った。取りつけてみると、部屋の雰囲気が変わった。矢張り、ぬくもり感がある。
 こうして大体の物が揃うと、暮らしの実感が湧いてくる。
 バルコニーには洗濯物がはためいている。二人のものだ。それを見ていると顔が赤くなってくる。

 携帯が鳴った。電話だ。出てみたら、父だった。
 午後から三人で来ると言う。理子は酷く驚き、うろたえた。

「お母さんも、随分と落ち着いてね。理子と話したいって言うんだ。だから連れて行く」

 父は電話越しにそう言った。
 話したいって、一体何を話したいのだろう。
 母には随分と傷つけられたと思っている。

 それは今に始まった事ではないが、あの時の事を思い出すと、これまでの集大成ではないかという気がしてくる。
 一体、どこまで娘を傷つければ気が済むのだろう。

 理子は家事を終えて教習所へ行き、昼に買い物をして帰宅した。
 何となく落ち着かない。
 十四時を少し過ぎた頃、インターフォンが鳴った。両親と妹だった。

 下のロックを開ける。間もなくやってくるだろう。この()が、何とも言えず緊張してくる。
 お茶の準備をしている途中で玄関チャイムが鳴った。理子は急いで玄関まで行き、ドアを開けた。
 父を先頭に、母と妹が立っていた。両親は憮然とした表情で、妹は神妙な表情をしている。

「元気にしてるか?」

 父の問いかけに、「うん」と頷いた。理子は中へ入って、三人を招き入れた。中に入った三人は、それぞれに驚いていた。

「なかなか、いい感じじゃないか」

「お姉ちゃん、この部屋は?」

 妹が訊いたのは理子の勉強部屋だ。見ていいかと訊くので、いいよと答えた。

「へぇ。自分の部屋があるんだ。六畳?なんか広く感じるね」

 ベッドが無いからだろう。
 続けて、向かいの部屋を見る。蒔田の部屋だ。

「広~い!本が凄~い!」

 優子が感嘆の声を上げた。両親は優子の後に続いて入り、中を見まわしていた。

「バルコニーがあるの?」

「そうよ。ここのバルコニーは凄いわよ。東と南の全面に付いてるの」

 理子の言葉を受けて、宗次が東の窓を開けて顔を出し、驚いていた。

「こりゃ、凄いな。随分と広い」

 続いて母も顔を出し、矢張り驚いていた。
 蒔田の机の上に写真立てが置いてあり、優子がそれを手に取った。

「何これ?お姉ちゃん、着物着てるじゃない。これって?いつの写真?」

「それは、去年のお正月の写真。先生のお宅へ伺った時に、向こうのお義母さんが着せてくれたと言うか、着せられたと言うか.....」

「可愛い!綺麗.....。先生も素敵」

 着物を着てソファの上に二人で並んで座っている写真である。
 蒔田はこの写真が気に入っていて、あれからずっと、自分の机の上に置いていた。

「ほぉ~。振袖じゃないか。この着物はどうしたんだ?」

「先生のお義姉さんのなの。あちらのお義母さん、お茶の先生なんで、家にお茶室があって。それで、お正月だから一緒に初釜を、って事で、それで着物を着せられちゃったの」

 母はその写真を黙って見ていた。無表情である。
 三人はその後、トイレ、洗面所、風呂を見てから、リビングへ入って驚愕の声を上げた。

「ひっろーい!.....グランドピアノがあるっ!」

 何も聞いていなかった優子にとっては、驚きの連続である。
 父はピアノの事や部屋の広さの事は知っていたが、それでも実際に見ると、リビングの広さには驚いたようだ。

「ここ、何畳あるの?」

「二十八畳半だって」

「うわっ、凄い.....。足の裏、あったかいよ?床暖?」

 その後、キッチンに入り、更に、寝室に入った。どこも広いので三人には驚きの連続だった。

「やっぱり、二人で住むには広すぎるんじゃないか?」
 
「まぁね。勉強部屋や寝室はともかく、リビングのこの広さは凄いよね。先生は大きいから、広い方が好きみたい。ベッドだって、驚きでしょう?今までダブルを一人で使ってたから、大きいのじゃないと嫌なんですって」

「お姉ちゃん、ピアノ弾いてみたい。いい?」

「いいわよ。どうぞ好きに弾いて」

 理子がそう言うと、優子は嬉々とした顔でピアノの蓋を開けて弾きだした。

「わっ!凄い。いいタッチ。音も素敵.....」

 力強い、綺麗な音色が響いた。姉妹で同じ先生に習っているが、妹の方がタッチは力強い。

「いいな~。羨ましい。このキーのタッチ、グランドならではだよね」

「幾らしたんだ?」

 と父が訊いてきた。

「二百五十万だったんだけど、先生が値切って四十%引きにさせちゃったんで、百五十万で買ったの」

「ええー?百万も値切ったの?」

 母が驚きの声を上げた。それはそうだろう。家のアップライトも、ヤマハのアップライトではグレードの高いもので、百万近い品を母は値切って八十万で購入したのだった。蒔田はその上をいっている。
 ピアノでこれだけの値引きは、あまり無い。

「前にお母さんが、金持ち程ケチだって言ってたけど、先生はまさにそんな感じよ。もう、凄いの。このマンションも半値で買ったって言ってたし、ここにある家具も家電も、調理器具や食器も、物凄―く値切って格安で買ったの。私、そばにいて恥ずかしいくらいの値切りだった」

「えー?そんな風に見えなーい」

 優子は信じられないような顔つきだ。

「マンションの事はお父さんも業者から聞いたよ。半値にした上に、リフォームまでさせたって言うから、凄いよな。水回りもみんな最新のに替えてある」

「広いから、掃除が大変そうね」

 母の言葉に、理子はお掃除ロボットを紹介した。
 それを見た妹は目を輝かせた。

「こんなの、役に立つの?」

 母は半信半疑である。

「これ、すっごい役に立つのよね」

 理子はそう言って、ロボットを稼働させた。その動く様を見て、皆一様に驚いた。家事嫌いの母にとっては、羨ましい家電だろう。

「ところで、今日は話しがあって来たんだから、ちょっと座らない?」

 母に言われて、ダイニングテーブルの方の椅子に理子は座った。
 母は理子の向かいに座り、父は母の隣に座った。優子はピアノの前にいた。

「お母さんね。あれから少し落ち着いてきて、色々と考えたの。この間、あんたには、随分と恨みごとを言われたわね。だけどね。考えてご覧。あんたはお母さんにとっては、初めての子供なのよ」

 母は自分の思いを語りだした。

「子供ができればわかると思うけど、何もかもが初めての経験なの。妊娠も出産も。毎晩夜泣きされて、ミルクも飲んだしオムツも替えたのに、まだ泣き止まないわが子に、どうしたらいいのか途方に暮れた。風邪をひいたり怪我したり、いたずらしたり。必死で育てて来たのよ。幼稚園だって学校だって、何もかもが初めて。だけど優子の時は違うでしょ。既に理子で経験してるから、余裕が生まれる。だからどうしたって、扱いだって変わって来るの。それにね。優子は生まれた時から小さくて育ちが悪くて、手もかかったけど、あんたは早くから一人歩きを初めて、話すのも読むのも早かった。だから、ついつい、優子の事ばかり心配してきたから、それを差別と思ったのかもしれない。だけど、それは仕方の無い事でしょう?実際、優子の方が手がかかったんだから」

 理子は母の話しを聞いて、所詮は詭弁に過ぎないと思った。
 何だかんだ言っても、全ては言い訳だ。

 母の言う事もわかる。
 初めての子育てだから、大変だったのは当然だろう。優子との扱いの差も理解できる。
 実際、優子は喋り出すのが遅く、四歳近くまで殆ど喋らなかったので、みんな心配していたのだ。

 そのせいか、小学校の低学年まで舌足らずな喋り方で、それが原因でからかわれていた。
 だが、それと理子に対する仕打ちとは別だ。
 黙っている理子に、母は話しを続けた。

「お母さんさ。理子にも何度か話してるけど、お母さんも自分のお母さん、つまり理子のおばあちゃんとは色々あってね。お母さんはお父さん子だったから、おばあちゃんは、それが気に入らなかったみたいで。そもそも自分に似て無いお母さんを、あまり好きじゃないみたいだから。お母さんは理子みたいに親に口答えは絶対にしなかったけど、心の中では冷静に親を見てた。そんな可愛げのない子供だったから、余計に好かれなかったんだろうね。それでね。そういう自分と
親との関係を思い出してね。知らず知らずのうちに、自分もおばあちゃんと同じ事を理子にしてきたんじゃないか、って気付いたのよ」

 理子は顔を上げて母の顔を見た。母は困ったような、いたたまれないような、複雑な表情をしていた。

「理子に言われてね。冷静になって、今まで可哀そうな事をしてきたなって思った。悪かったね」

 その言葉に、理子の目から涙が溢れだしてきた。
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