第66話

文字数 6,917文字

 久しぶりに歴研へ出た後、理子は忘れ物をした事に気付いて教室へ取りに行った。
 鞄にしまっている時に、教室へ誰かが入ってくる気配がして振り向くと、渕田がいた。
 理子はその姿を見てドキリとした。

「あれ、理子?どうしたの?」

 その様子はのんびりとしていて、いつもと変わらない。
 理子の方へと近づいてきた。

「あっ、忘れ物しちゃって」

 枝本に言われた言葉を思い出して、緊張した。

「俺もさ、忘れ物しちゃったんだよな。今日もらったプリント。明日提出しなきゃなんねーのにな」

 そう言って、理子の後の机の中に手を突っ込んだ。
 クチャクチャになった紙が出てきた。それを見て、可笑しくなって理子は思わず笑った。

 考えてみると、以前にも似たような光景を見たような気がする。
 多分、中1の三学期、同じ班だった時だ。
 渕田は結構、ズボラでだらしがない所があった。それが、ワイルドな雰囲気と妙に合致していて、欠点である筈なのに魅力的に見えるのだ。

「なんか、相変わらずだらしないんだね」

「そう?親にはよく言われるけど」

 そう言いながら、クチャクチャになったプリントを手で延ばしていた。

「じゃぁ、ね」

 理子がそう言って立ち去ろうとしたら、引きとめられた。

「理子、本当に彼氏いるの?」

「えっ?」

 その言葉に思わず振り向いてしまった。

「この間、言ってたじゃん」

「ああ、あれね。いるよ」

「この学校じゃないとか」

「うん.....」

 この学校ではあるのだが。

「俺さ、前から理子の事をいいなって思ってたんだよ」

「ふぅ~ん」

 理子は素っ気なく答えた。

「良かったら、付き合ってくんない?」

「はぁ?彼氏いるっていったじゃない」

「この学校じゃないんだから、いいじゃん」

「じゃぁ、この学校だったら、遠慮してくれるわけ?」

 一体、この男の思考回路はどうなっているのか?改めて驚く。
 知り合ってから長いが、こういう男だとは思っていなかった。

「この学校の人間だったらね」

「じゃぁ、この学校の人間だから」

 理子はそう言って教室を出ようとしたら、渕田はその前に立ち塞がった。

「枝本や岩崎とは仲良くしてるのに、なんで俺とは仲良くしてくれないんだよ」

「仲良くって.....」

「もしかして、枝本から俺の事を色々聞いてる?あいつ、狡いよな。自分の事は棚に上げて。萌子との事とか、色々聞いてるの?」

 萌子とは、元カノの黒田萌子の事である。

「そんな昔の事なんて、どうでもいいじゃない。私には関係のないことだもん」

「じゃぁ、もう枝本を好きなわけじゃないんだな」

 そう言うと、渕田は理子との距離を詰めて来た。理子は後ずさる。
 渕田が放つものに、危険を感じた。

 どうしよう.....?

 後ずさる理子に渕田は手を伸ばし、理子の二の腕を掴んだ。その力が強くて、理子は持っていた鞄を落とした。

「離してよっ!」

 その言葉を無視するように、渕田は強い力で理子を引き寄せると唇を近付けて来た。
 両方の二の腕を物凄い力で掴まれているので、手で渕田の胸を押したが力が入らない。
 理子は唇を塞がれないように顔を横に向けた。そのせいで、渕田の唇が頬に接触した。ゾッとした。

「やめてよっ!何でこんなことするのよ」

「好きなんだよ」

 渕田が切なそうな顔と声で言った。

「好きなら、こんな事をしていいの?嫌がってるのに」

 理子は抵抗しながら訴えた。

「最初のうちだけさ。一度やれば、良くなるよ」

 渕田の息が荒い。

「ほんとにやめて。好きな人がいるのにっ」

「そんなの、俺の方を好きになるさ」

 理子は無理やり、床に組み敷かれた。恐怖が襲ってきた。
 叫ぼうとした理子の口を、渕田が手で塞いだ。大きな手で強く押さえつけるように塞がれて、口を開ける事もできなければ、顔を振る事もできなかった。
 渕田は理子の上に馬乗りになった。理子はその下で必死に抵抗する。

「理子、何でそんなに抵抗するんだよ。素直に俺を受け入れてくれてたら、俺だってこんな事までしないのにっ」

 渕田は、自分の下で泣いて抵抗している理子を見て言った。
 理子は、こういう状況になっても、まだ冷静さは失っていなかった。
 どうしたらこの状況から抜け出せるか、必死に考えていた。

 渕田は残った片手で制服のポケットからハンカチを出すと、塞いでいた自分の手を離してハンカチを理子の口に詰めた。
 それから理子の両手を片手で掴むと、空いた方の手で自分のネクタイを(ほど)き、両手を縛りだした。

 理子は必死に抵抗するが、細い体に反して力が強い。さすがにテニスプレーヤーだけあって、腕の力が強いようだ。
 渕田は縛った理子の手を片手で押さえると、制服のリボンを取り、シャツのボタンを外しだした。

 理子は震えた。

(どうしよう.....)

 どう考えても完全に不利な状況だった。前にも増して恐怖が襲ってくる。
 シャツのボタンが半分以上開いたところで、渕田はシャツの中に手を滑らせてきた。理子の胸に渕田の手が触れた。理子は大きく震えた。

「理子の肌、すべすべしてて気持ちいいな。それに胸、大きいんだな」

 そう言ってニヤけると、理子の胸に顔を近づけて舐めた。
 その瞬間、体に悪寒が走るのを感じた。
 悲しくて悔しくて、涙がボロボロと零れ落ちてきた。
 必死で体を揺する。

「理子、いい加減に諦めろ。中学に入ったばかりの頃、お前の事をいいなって思ってたんだぜ。だけど萌子に交際を申し込まれてさ。三学期に同じ班になった時には嬉しかったのに、お前は枝本一筋って感じだったし。結局、お前とは縁が無かった。同じ高校に進学して同じクラスになった時、やっぱり縁が有ったのかもと思ったが、お前は哲郎と仲が良かったし、噂にもなってたから遠慮してたんだ。そしたら二学期になって、二人して別の人間と付き合ってるんだからな。俺はがっかりしたよ。さっさとアプローチしておけば良かったと後悔してたんだ。そんな事、お前は全く知らないだろうが。だからさ。こうしてまた同じクラスになれて、今度こそと思ったんだ。三度目の正直だよ。やっぱり俺達は縁が有ったんだ。校内に彼氏がいるなら、俺は諦めてた。彼氏が身近にいるんじゃ、余計なトラブルが生じるし、面倒くさいからな。だけど校内にいないんだったら都合がいい。俺と付き合ったって、言わなきゃバレないだろ?そのうちに、俺の方が良くなるに決まってるんだ。こうして誰もいない教室で出会ったのも、俺と結ばれる運命だったんだ。だから、俺のものになれ」

 こんな状況で、饒舌な男だと理子は思った。
 渕田が、初めて出会った時からそんな思いを抱えていたとは全く知らなかったし、思った事も感じた事も無かった。

 思い返してみると話す機会は時々あって、そんな時の渕田の態度は他の男子とは違ってソフトな印象がある。優しかった。
 だが彼は、どんな女子に対しても概ね優しい。だから自分に特別な感情を持っていたなんて微塵も思わなかった。

 渕田の手が、理子のスカートの中に入り太腿を撫でた。

 “イヤッ!!”と叫ぶが声にならない。
 必死で顔を振り、体を揺らして抵抗した。

「理子、いい加減にしろ!」

 渕田は怒鳴ると、理子の頬を打った。

(怖い)

 ぶたれた事で、理子は恐怖とそして絶望感が一気に押し寄せてくるのを感じた。
 渕田は険しい表情をしていた。元々、肉食獣的な野生の魅力を持っている男である。
 その男にぶたれ、睨まれた事で恐怖感が増して来る。

 弱弱しくなった理子を見た渕田は、理子の腕を押さえていた手を外すと、片手で理子の太腿を撫でながら、もう片方の手で自分のズボンのベルトを外し始めた。

 それを見た理子は、思いきり暴れた。
 再び暴れ始めた理子に驚いた渕田は、理子を押さえつけると、再び理子をぶとうとして、手を上げた。
 理子は思わず目を瞑った。

「おいっ!何してるんだっ!」

 いきなり、男の声がした。

 枝本だった。
 忘れ物を取りに帰った理子の戻ってくるのがあまりにも遅いので、心配になって様子を見に来たのだった。
 そして、教室で起こっている出来事に驚愕した。

 枝本は急いで駆け寄ると、理子の上に馬乗りになっている渕田を引き剥がした。

「なんだよ、彼氏でも無いのに邪魔するなっ」

 渕田が枝本に飛びかかって来た。
 理子は急いで身を起こすと、縛られたままの手で口の中のハンカチを取った。
 体が恐怖で震えていた。

 二人は殴り合いになっていた。
 スポーツマンの渕田は強かったが枝本も負けていなかった。
 目の前で起こっていた事に対する怒りが、枝本を強くしていた。

「お前、なんでこんな事をするんだよ。理子には彼氏がいるって言っただろ。わかったんじゃなかったのかっ」

「ふんっ、偽善者め。彼氏でも無いのに、ナイトにでもなったつもりか?お前だって、本当は無理やりでも理子が欲しいんだろうがっ」

 掃いて捨てるように渕田がそう言った。

「そんな事して、何になる。他に好きな男がいるのに、無理やりやったって好かれるわけが無いだろう」

「そんなのは、最初のうちだけさ。そのうちに良くなってきて、離れがたくなるんだ」

 渕田はそう言うと不敵な笑みを浮かべた。

「今までの女が皆そうだったからって、理子まで一緒にするな」

 枝本は怒りに満ちた低い声で言った。

「お前はたいして女を知らないから、そんな事が言えるのさ」

「だからと言って、全ての女がみんな同じなわけじゃないだろ」

 枝本はそう言うと、理子のそばへやってきた。

「理子、大丈夫か?」

 その目は優しかった。理子はまだ恐怖が覚めず、震えて何も言えない。
 枝本は理子の手を拘束しているネクタイを解いて、渕田に投げつけた。

「さっさと失せろっ!」

 枝本の怒りに押されたのか、渕田は黙って自分の荷物を持つと出て行った。

 枝本は理子を見た。
 相当きつく縛られたのか、手首に痕が付いていた。
 シャツの胸元が開いていて、白い肌が垣間見えた。その胸元にペンダントが輝いている。

 見た記憶がある。確か、歴研の新年会の時だったような気がする。
 いつも身に付けていると言う事は、彼氏から貰ったものなのかもしれない。
 枝本は目を逸らせた。

 理子は真っ青な顔をして、涙を零していた。体が小刻みに震えている。
 抱きしめたい衝動に駆られたが、果たしてそうしていいものかどうか迷った。

「もっと早く来れば良かった。ごめんな」

 その言葉に理子は頭を振った。

 その姿があまりにも儚くて、枝本は理子をそっと抱きしめた。
 理子はその瞬間にビクッと体を大きく震わせたが、すぐに枝本の胸に顔を付けると、静かに泣き始めた。

 そんな理子を自分の腕の中に抱きかかえながら、枝本はやるせない気持ちになる。
 こんな風に理子を抱きしめる事になるとは。複雑な心境だ。

 髪の匂いがした。爽やかで甘い香りだった。シャンプーの匂いだろう。
 その匂いが、枝本の体と心をくすぐった。
 俺の彼女だったら、いつもそばにいて、こんな目には遭わせなかったのにと思う。さぞや怖い
思いをしたに違いない。

 小泉は受験の事だけで頭が一杯で、彼女の存在が重たいから距離を置きたいなんて言っているが、自分ならそんな事は絶対にないと思っている。
 休日は逢えないかもしれないが、毎日放課後一緒に勉強して一緒に帰るだろう。決して寂しい思いなんてさせない。

 俺と理子なら互いに高めあっていける、と思っていた。
 なのに、理子が選んだのは別の男だった。大人と言っていたが、一体どんなヤツなんだろう。そんな思いが枝本の中で駆け巡る。
 
 教室は薄暗くなってきていた。既に梅雨に入り、外はしとしとと雨が降っている。
 教室の時計を見たら五時を過ぎていた。
 枝本は、ただジッとして理子が泣き止むのを待った。恋人でも無い自分は、そうする事しかできない。

 やがて理子は泣き止むと、そっと枝本から離れた。

「みんなは?」

 鼻声だ。

「先に帰ったよ。俺だけが残った。何となく気になって」

「来てくれて、ありがとう。助かった.....」

「もっと早く来れば良かったよ。でも、間に合って良かった」

 本当に、枝本が来てくれていなかったらどうなっていた事か。
 あいつに、犯されていたのか.....。
 理子は考えただけで寒気が走った。

「ごめんね、心配かけて」

「何言ってるんだよ。理子が謝る事なんて、無いだろう?」

「だって、注意されてたのに.....。たまたまだとは思うけど、後から渕田君が忘れ物を取りに来て。無視してすぐに教室を出れば良かったのに、話しかけられてつい答えちゃったから」

「あいつの事だ。追いかけてきたに決まってる。不可抗力だったんだよ」

「どうして、あんな事をするんだろう。好きだって言われたけど、だからってどうして?」

 理子は呟くように言った。

「あれが、あいつのやり方みたいだな。ああやって強引に手に入れる。最初は恨まれるが、結局は許されるんだろうな。これまでは、みんなそういうパターンできたから、何だかんだ言っても最後は言いなりになると誤学習してきたんだろう」

「私、明日からどうしよう?彼、私のすぐ後ろの席なのよ?不安だし、怖い」

 理子は怯えた顔で枝本を見た。

「先生に言って、席替えをして貰うしか無いんじゃないかな」

「えっ?やだ、そんな事、言えない」

 理子の顔が、サーッと青ざめた。

「何も、本当の事を言う必要は無いよ。普段から絡んできて迷惑しているって訴えれば、あの先生の事だからわかってくれるんじゃないか?」

 理子は頭を振った。
 あの先生の事だから、言わなくても何かを悟るに決まっている。
 敏感に感じ取る。そういう人だ。顔を合わすのも躊躇(ためら)われた。

「理子が言いにくいなら、俺から言おうか?」

「えっ?そんなの、不自然じゃない?」

「俺も茂木も心配で仕方が無いんだって訴えたら、あの先生はどう受け止めるかな」

 渕田に迷惑している事は、既に話してある。
 枝本と茂木が強く訴えれば、先を見越して席変えをしてくれるかもしれない。

「俺達、修学旅行の事があるからな。まだ、理子にしつこく付きまとってるのかって誤解されるかな。でもあの先生は、理子に好意を持ってるみたいだから、渕田の普段の行動を聞いたらわかってくれるかもしれないって思うんだ」

「えっ?」

 理子は枝本の言葉に驚いた。
 先生が私に好意を持っていると、枝本が思っている事にだ。

「どうしたの?何を驚いてるの?」

「ううん、先生って、私に好意を持ってるの?」

 理子は恐る恐る訊いてみた。

「持ってると思うよ。だって、自分の教科を熱心に勉強してる生徒だよ?嬉しい限りじゃないの?先生って、優秀な生徒には弱いでしょ。歴研の副部長を決める時だって、随分と理子に思いやりを示してたじゃないか。勉強熱心で頻繁に職員室に出入りしてるし。考えてみると、理子は教師ウケするタイプじゃないのかなぁ」

 成る程、そういう意味か。理子は少しホッとした。

「だから、俺から上手く言ってやるよ」

 枝本はそう言うと笑った。

 そう言えば中1の三学期、枝本と理子が急接近した事に嫉妬した黒田から何かと嫌がらせを受けていた時、いつも枝本が守ってくれたのだった。
 それでも嫌がらせが止まなくて、最終的に枝本が担任に訴えた。

「俺に任せておけ」と力強く言われて、とても嬉しい気持ちになったのを思い出した。
 枝本と付き合っていたら、こんな目に遭わなくて済んだのだろうか?
 ふと、そんな考えが頭の中をよぎったが、すぐに打ち消した。

 馬鹿な事を考えるものではない。
 何があろうが、自分には先生しかいないではないか。

「もう、暗くなってきたから帰ろう。時間も時間だし」

 枝本の言葉に理子は立ち上がった。
 着衣が乱れている事に気付き、直した。

 そんな理子を見て、枝本の心は揺れていた。
 手首が赤紫色になっているし、甲には幾つも擦り傷ができていた。頬にも小さい傷がある。
 力任せで女の子を自分のものにしようとするなんて、おかしい。
 ましてやそれが好きな相手だなんて、枝本には渕田の気持ちが理解できない。

 二人は連れ立ってバスで帰った。
 理子は梅雨に入ってからは、またバス通学になっていた。時間が少し遅いせいか、生徒は誰も
いなかった。二人は一人席の前と後ろに座った。

「理子、本当に俺から先生に上手く言うからさ」

 理子は振り返って枝本を見た。枝本の顔には痣が有った。渕田と殴り合ったせいだ。
 多分、渕田の顔にも有るに違いない。それを見て蒔田はどう思うだろう。

「枝本君、顔、怪我してる。ごめんね、私のせいで」

「何言ってるんだよ。こんなのは、気にしなくていいから。誰だって、あんな場面に遭遇したら同じ事をするさ」

「本当に、ありがとう。その(あと)も、黙って泣かせてくれたよね。本当に感謝してる」

 理子の弱弱しい言い方に、枝本の胸は切なくなった。

 駅からは自転車だ。
 枝本が家まで送ると言ってくれたが、理子は断って、そこからは一人で帰った。
 雨の中、自転車を走らせる。

 いつもは傘を差しながら運転するのだが、敢えて差さなかった。雨に濡れたかった。
 雨が体も心も濡らす。
 雨によって、全部流れてくれたらいいのにと理子は思うのだった。
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