第30話

文字数 5,230文字

「理子、また俺に顔を見せてくれないか?」

 軽く体を離した蒔田の声が熱く震えていた。
 理子は首を振る。

「理子―、お前ってヤツは」

 蒔田はそう言うと、理子の顔に手をやった。
 その細くて長い指で、理子の顎を自分の方へ向けさせる。
 目が合った。
 眼鏡の奥の瞳はとても優しかった。

 なんて素敵な顔をしてるんだろう。特に瞳はとても魅力的だと思う。男の色気を感じる。
 その瞳に見つめられて、理子は震えた。
 とても正気ではいられない気がした。

 その綺麗な顔が近づいてきた。

 駄目だ。とても耐えられない。

 そう思って目を閉じた時、蒔田の唇が理子の唇に重なった。

 その瞬間、頭が真っ白になった。
 何も考えられない。唇だけが敏感に蒔田を感じた。

 重なっているのは先生の唇。
 薄くて柔らかい。
 軽く吸われ、そっと離れた。

「先生.....」

 理子は震えた。
 蒔田は再び理子を抱きしめた。

「先生.....、これは夢?」

「夢じゃない。現実だ」

 理子の心臓は早鐘のように鳴っている。

「私、まだ信じられない。だって先生は私にとっては遠い人だったから」

「なんでだ?いつだってお前のそばにいたのに」

 蒔田の言葉は優しかった。
 
「だって.....。先生は大人だし、先生だし.....。それに、沙耶華に、生徒と恋愛する気はないって、言ったんでしょ?」

 蒔田は腕を解くと、理子を見た。

「言った。でもお前は別だ」

 理子は蒔田の顔を見て、再び胸が締め付けられた。見るほどに胸がキュンとして息苦しくなってくる。

「先生はそう言うけど、それは私にはわからない事だから」

「それはそうだな」

 蒔田が笑った。八重歯が覗いた。

「先生、八重歯があるのね」

「ああ、子供っぽいだろう?」

 照れくさそうだ。

「可愛い」

 理子は赤くなって言った。

「可愛いか。だけどお前の方がもっと可愛いと思うけどな」

 なんの(てら)いも感じさせずに、そんな事を言う。

「今日のお前はいつにも増して可愛いと思う。私服だからか。それとも、頬が赤く色づいているからか.....。それとも、俺を愛しているからか」

 理子はカーッと、更に赤く熱くなった。
 この人は、どうしてこんな事を平然とした顔で言えるのだろう。

「ほんとに、.....可愛いな.....」

 そう言って、蒔田は理子の頬に手をやって包み込み、再び唇を重ねた。
 理子は緊張した。初めてのキスではない。だが、須田とのキスをまともなキスと呼べるかどうか怪しい。ただ接触しただけだと思う。

 こうして、自分の唇に相手の唇のぬくもりをはっきりと感じてこそ、本当のキスと言えるのではないか?
 先生の存在そのものを、この唇に感じる。
 吐息を感じる。
 体温を感じる。

 蒔田は何度も優しく啄ばむように口づけた。
 心臓がドクドクと音を立て、首から耳へかけて、熱い血潮が昇ってくるようだった。
 蒔田の唇が離れても、理子は暫く固まったままだった。
 そんな理子の髪を蒔田は優しく撫でた。

「大丈夫か、理子」

 理子は黙って頷いた。
 予想外の展開だったと言える。

「そろそろ帰ろう」

 そう言われて腕時計をそっと見ると四時半だった。
 まだ、一緒にいたい。
 そう思っていたら、蒔田が手を繋いできた。

「俺の手は振り払わないでくれよ」

 そう言って笑った。
 倉敷での、枝本と茂木に手を繋がれて振り払った事に掛けているのだろう。
 振り払えるわけがない。

 大きな手だった。その手にしっかり繋がれて、嬉しかった。
 まだ胸がドキドキしている。心臓の鼓動の音が自分の中ではっきりと聞こえる。

 だけど.....。
 明日からどうすれば良いのだろう。
 毎日学校で、どんな顔をして会えば良いのか。
 これから先、どんな風に付き合ってゆくのだろう。

「なぁ、理子」

「はい」

「お前、全然、音楽準備室に残らなくなったな。何故なんだ?」

 唐突な質問に、理子はたじろいだ。

「どうしてそんな事を聞くんですか?」

「決まってるだろう。お前と話したいと思ったら、あそこしか無いじゃないか。俺は吹奏楽の練習が終わる度、今日はいるか、と思いながらドアを開けていたんだ」

 そうだったのか。先生の気持ちを知れば、それは当然の事かもしれない。

「すみません。でも、私は先生を好きになっちゃいけないって思ってたから、故意に避けてたんです」

「そうか。俺は何も考えて無かったな。これで案外単純なんだ。お前を好きだと意識はしてなかった。ただお前と話したいと思って、いないとガッカリした。話したい事がたくさんあったんだ」

「先生は、罪な人です。みんなには凄く冷たいのに、私には違った。私は先生の色んな言動をどう受け取って良いのかわからなくて、いつも動揺してました」

「すまない。改めて言われてみれば、最初から好きだったんだと思う。お前には何故か心を許せた。他の人間に対するようにバリアを張る必要が無かった。それも、無意識だった。自分でもそんな自分によく戸惑っていたんだ」

 蒔田の言葉が胸に染みる。指から、手から、想いが伝わってくるような気がした。

 駐車場に到着し、車に乗り込む。
 来る時にはあまり意識していなかったが、今こうして二人で乗り込むと、密室である事に急に
ドキドキしてくるのだった。

 蒔田は背が高く、手足が長い。シートもかなり後に下がっている。
 それでも足は余っている感じがした。その姿に大人の男性を感じて、動悸が激しくなる。そして自分を、子供だな、と改めて思う。

 ふいに、あの女性の事を思いだした。
 蒔田は彼女じゃないと言っていたが、あれから会っていない、とも言っていた。
 結局のところ、どういう人だったんだろう?
 気になった。

「先生」

「なんだ?」

「聞きたいことがあるんです」

「.....あの女の事か?」

「どうしてわかったんですか?」

「なんとなく、な。俺がお前なら気になるからな」

「じゃぁ、教えてもらえるんですか?」

「お前が聞きたいなら」

「聞きたいです」

「お前はまだウブだから、聞いたらショックを受けるかも知れないぞ」

 蒔田は少し暗い声でそう言った。
 ショックって、どんな事なのだろう。

「ショックって.....。それは聞いてみないと分かりませんけど」

 その事で、軽蔑したり嫌ったりすると言うのだろうか。

「はぁ~。まぁ、いいか.....。上手く説明するのが難しいんだが、簡単に言ってしまえば、セフレだ」

「セフレ?」

 理子は思わず聞き返してしまった。

「意味、わからないか?」

「あっ、いえ、わかります」

「俺、な。自分で言うのも何だが、小さい時からモテ過ぎて、女にはあまり興味がないんだ」

「そう言えば、以前、そんな事をおっしゃってましたね」

「そうだ。それでお前にゲイ呼ばわりされた」

「だって、そう思うのも当然じゃないですか」

「まぁ、そうかもしれないが。でも俺も一応、まともな男だから、普通に性欲くらいはある」

 理子は別の意味でドキドキしてきた。

「それでも高校生の時は面倒くさくてな。歴史の勉強の方に夢中だったし、東大を受験することは決めていたから、女の事なんて眼中になかった。同級生や友人達は殆どが初体験も済ませて、女との関係を満喫してたけどな。だから俺は、大学に入るまでは童貞だったし、男女交際も未経験だった」

「それは、珍しいですね。かなり希少じゃないですか?先生のようなタイプだと、きっとそれを聞いても誰も信じないでしょうね」

「お前は?信じるか?」

「勿論、信じます」

 そんな事で嘘をつくような人間とは思えなかった。

「そうか」

 蒔田は安心したような声を出した。
 外は薄暗く、イルミネーションが美しく瞬いていた。

「大学に入ったら、受験勉強が無くなった分、暇が出来たし、そろそろ欲望を吐き出したい気分でもあった。そんな時に、たまたま学内で知り合った女と付き合うようになった。初体験の相手だ。そこそこ好意は持っていた。本気にはなれなかったけどな。だが、淡泊な俺に愛想をつかして、別れていった。その後は、成り行き任せな感じで、多くの女と付き合ったが、結局、誰にも本気にはなれなかったんだ」

「そうなんですか。それで.....?」

「大学入学以来、女を切らした事は無い。卒業後も、卒業前に付き合い出した女と続いていた。だが、別に好きなわけじゃないんだから、恋人じゃない。俺は同時に何人もの女と寝る事をしないのは、みんな知ってるから、そういう関係でも俺を独占してると思ってそれなりに満足するんだよ、最初のうちはな。俺の方は、セックスすれば、それでいい。って、こんな話、お前、大丈夫なのか?」

 蒔田は恐々と言った表情を理子の方に向けた。

「先生の事を聞けるのは嬉しいから、大丈夫です」

 嘘ではない。

「そうか。ならいいが.....。教師になってから、大勢の女子高生に付きまとわれるようになって、今までよりもストレスが溜まった。普段は、そんなに性欲がある方じゃないから、女の方から誘われて、しょうがなく抱くようなパタンーンが多かった。だがこの四月からは違った。俺の方から彼女を呼びだしては、抱いた。だから向こうも期待したみたいだな。俺自身も、そういう自分に反吐(へど)が出て、罪滅ぼし的に、寝た後に誘われるままデートをした。いつもなら、終わったらさっさと帰るんだけどな」

「じゃぁ、あの時は、もう、その、あれの後だったって事ですか?」

「そうだ」

「だって、まだ昼間でしたよね」

 理子の声が震えた。
 あの時の蒔田を思い出す。女性の方は楽しそうな顔をしていたが、蒔田はつまらなそうな顔をしていたように思う。

 あの女の人を抱いた後だったんだ.....。

「セックスは、夜するものとは限らないんだ」

 蒔田の言葉に理子は耳まで熱くなった。

 やっぱり大人なんだ、この人は。

「ショックだろう?」

 蒔田が言った。

「お前にまさか目撃されるとはな。枝本から聞いて、俺の方がショックだったよ」

「あの、.....ショックと言えばそうなのかもしれませんけど、何て言うか.....」

 何と言ったら良いのかわからない。
 理子自身、思った程ショックを受けてはいないように思える。
 蒔田は理子の言葉にフッと笑った。

「最初も言ったが、彼女とはあれ以来会ってない。何度も誘われたがキッパリ手を切った」

「あれ以来?どうしてですか?」

「あの日は、文化祭の翌日だったよな。お前の事が頭から離れなくて、困った。もう、他の女は抱けないって、あの日に思ったんだ」

「.....」

 理子は何も言えなかった。何を言っていいのかわからなかったのだ。
 もう他の女は抱けない…。
 と言う事は、もう理子以外の女は抱けない、理子しか抱けないと言っているように聞こえた。

「せ、先生は、私に好きな人がいるって聞いて、自分は片思いだと思ったんでしょ?それでも、その、他の女性としようとは思わなかったんですか?」

「思わない。例え片思いであっても、好きな女がいるのに、他の女を抱こうとは思わない。第一抱けないさ。お前が俺の心を占領してるんだ。なのにどうして他の女を抱ける?」

 蒔田の言葉が理子の心を熱くした。『俺の心を占領してる』なんて言われて熱くならないわけがない。
 いつか、この人に抱かれる時が来るのだろうか?それは一体、いつの事だろう?
 こうして一緒にいるだけでも、心臓が壊れそうなのに。
 この人に全てを委ね、全てを知られる日が来たら、私は一体、どうなるのだろう?

「理子」

「はい.....」
 理子の声は掠れて消え入りそうだった。

「俺を軽蔑するか?」

 蒔田の言葉に理子は驚いた。
 
「どうしてですか?」

「軽蔑しないのか」

「しません。する理由がないです」

「本当に?」

「本当です。私は先生が正直に自分の事を話してくれた事が嬉しいです。みんな過去の事だし、先生には先生の来し方があるわけで、それは先生だけのものです。過去があるから今があるわけだし」

「昔とは言え、女関係の話しを聞いて妬けたりとかしないのか?」

「しないです.....ね」

 本当の事だった。何故か妬けない。

「お前って、(さば)けてるな」

 蒔田が感心したように言った。

「もっと、ショックを受けると思ってましたか?」

「思ってた」

「よく分からないんですけど.....、多分、先生が本気で誰かを好きになった事がないからって気がします。あの女の人と一緒にいるのを見た時にはショック受けたし」

「そうか。まぁ確かにそれはあるかもな」

 車は高速道路を出て一般道に入っていた。二人のドライブももうすぐ終わる。

「今日は、ありがとな。まさか、こんな展開になるとは俺も思って無かった」

 それは理子も同感だった。
 蒔田の気持ちを推し量りながら一喜一憂していたが、両想いになれて嬉しく思う。
 だがその一方で、本当にこれで良かったのだろうかとの思いも湧いてくる。

 これから二人はどうなっていくのだろう。
 手放しで幸福を満喫できるような立場にない二人だ。
 瞬き始めた星を見て、複雑な思いに駆られるのだった。




 
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