第9話

文字数 4,032文字

「悪い。遅くなっちゃったな」
 
 蒔田が済まなそうに腰を上げた。

「いえ、私の方こそ、話し過ぎちゃいました」

 理子も慌てて立ち上がる。

「理子は、バスか?」
「はい」
「じゃぁ、一緒に帰るか」
「えっ?」

 蒔田の言葉に理子は一瞬、固まった。

(え?何?一緒に帰るって言った?)

「駅まで行くんだろう?」

 全く何も気にしていない素振りだ。

「はい。そうですけど.....」

「なら、結局のところ、同じバスに乗る事になる」

 そう言われればそうかもしれない。この時間帯の駅までのバスは頻繁には出ていなかった。
 同じバスになるのも頷ける。

「俺は一旦、職員室へ戻るから、お前は先に靴を履いて職員玄関の前で待っててくれないか」

「わかりました」

 とは言ったものの、いいのかな?と内心では思う。
 誰のアプローチに対しても冷たい筈なのに、自分の方から『一緒に帰るか』とは。

 思いもかけない蒔田の言動に、理子の心はかき乱された。

 理子は先に教室を出ると、玄関へと急いだ。自分の方が明らかに先に着くのはわかりきっているのに、何だか急がずにはいられない。
 そもそも、ここで待ち合わせるようなシチュエーションからして疑問に思う。
 同じバスになるなら、わざわざバス停までの短い距離を共に行くこともないのではないか。

 職員玄関の前でドキドキしながら待っていると、5分程して蒔田が出てきた。
 ポロシャツ姿からワイシャツにネクタイ姿に変わっていた。その姿が、とても素敵に見えた。見とれそうになる。

「悪い、待たせたな」

 蒔田の息が軽くあがっていた。

「先生、着替えるの早いですね」

 胸の鼓動を感じながら指摘した。

「ああ。大急ぎで着替えたんだが、ネクタイ、曲がってないか?」

 そう言って、理子の方に正面を向けてきたので、益々ドキドキと胸が鳴る。

 ネクタイ姿の男性は普段の数倍もカッコ良く見える。
 ましてや相手はイイ男だから尚更だった。
 学校の男子の制服もネクタイだが、大人のビジネススーツ姿とは一線を画しているように感じられた。

「大丈夫です」

 理子は、パッと見て答えると、すぐに前を向いて歩きだした。
 こんなカッコ良い姿、じっと見ていたいけど、見ていられない。

 二人は並んでバス停まで歩いた。
 それにしても背が高い。ネクタイを見せる為に理子の正面に立った時、理子の目線はネクタイの真ん中より少し上だった。
 理子の身長は158センチなので、蒔田は180センチはありそうだ。

 バスは5分程でやってきた。
 あまり待たずに済んで良かったような残念なような、複雑な気持ちである。
 バスを待っている間は、特に二人とも喋らずにいた。
 
 辺りはまだ明るい。
 17時が最終下校なので、生徒達は誰もいなかった。そうでなければ、二人でこうして一緒に帰るなんて恐ろしくて無理だろう。必死に断ったに違いない。
 駅に着いたら誰がいるかわからないので、バスを降りたらすぐに別れなければ。

 やってきたバスに、蒔田に促されて理子が先に乗った。
 この時間に駅へ向かう人間は少ないようでガラガラだ。
 どうしようかと理子が迷っていたら、後から乗り込んできた蒔田が一番後ろの席へと歩いて行き、理子を呼んだ。

 えっ、もしかして、一緒に座るの?
 嬉しいような、困るような。
 でも、二人席じゃないから、まぁ、いいか。

 そう思って、理子が一番後ろの窓側へ腰を下ろすと、その隣に蒔田はどっかりと座ったのだった。
 普通はこういう場合、空いている前の席へ座るものじゃない?
 もしくは、かなり離れて座るとか。

 理子は仰天した。隣とは言っても、10センチ程は離れているが微妙な距離だ。
 理子がそっと窺うと、蒔田は特に気にしている風でもなく、平然と前を向いていた。

(気にし過ぎなのかな)

 なんだか緊張してきた。
 そんな理子の緊張を他所に、楽しそうな声が隣から発せられた。

「明日が楽しみだな」

 蒔田の方を見ると、理子の方を見て笑っていた。
 その笑顔がとても魅力的だ。こんな至近距離で勘弁して欲しいと切実に思う。

「先生は、どうして私を『理子』って呼び捨てにするんですか?」
「嫌か」
「いえ、そういう意味じゃなくて、ただ単純に、どうして苗字の方じゃないんだろうって」

 教師陣は皆、苗字呼びだ。呼び捨てや『さん』づけと、そこは統一されてないが。

「みんな、お前を『理子、理子』って言ってるじゃないか」
「同級生と先生は違うと思いますけど」
「みんなが『理子、理子』言ってるから、うつっただけだ。それにお前の苗字、言いにくいしな」
「吉住、がですか」
「みんなもそう思うから、名前で呼んでるんだろう?『理子』って言いやすいもんな」

 それにしても納得しきれない。

「これでも一応、気を遣ってるんだぞ」
「ええー?」
 
 一体、どう遣っていると言うのだろう。
 
「理子と呼ぶのは、二人の時だけにしている。みんなの前だと、女子どもが怖そうだからな」

 理子はなんだかわからないが、赤くなった。

『二人の時だけ』って、まるで特別な間柄のように感じてしまう。
 
(いや駄目だ。だめだめ。そんな事を考えては)

 勘違いも甚だしいだろう。それに好きになってはいけない相手だ。
 ドキドキする気持ちを抑えながら、理子はこの状況を不思議に思う。

 やがてバスは駅に到着し、理子は蒔田に挨拶をして、そそくさと先にバスを降りたのだった。


 翌朝。

「昨日の面談、どうだった?」

 登校してきた途端に、ゆきに訊かれ、美輝に訊かれ、耕介や茂木達にと、次々に訊いてくる。

「まぁまぁかな」

 何と答えたら良いのかわからない。
 (いさか)いから始まって、話に花が咲き、最後は一緒に帰った、なんて誰にも言えない。

「進学の事とか勉強の事とか、結構アドバイスされただろう?」

 と耕介が言ったので、それはとても助かったと答えた。

「歴史へ進むか迷ってたんだけど、好きな道を行けって言われて迷いは無くなったかな」

「そっか。それは良かったな。理子ほど歴史が得意なら、絶対そっちへ行くべきだよ」

 茂木が感心したように言う。

「そーそー。好きな物があるなら、そっちへ進むのが一番」

 やはり、そういうものか。
 親はあまり良い顔しなさそうだけど、蒔田が言うように国文でも歴史でも就職には大差がないのなら、好きなものの方が励めるというものだ。

 だけど先生、本当にやる気かしら?

 理子は朝からそれが気になって、読書に集中できなかった。
 昨日も蒔田と別れてから寝るまで、個人面談からの一連の出来事を反芻(はんすう)してしまい、勉強も読書も(はかど)らなかった。

 やがて始業時間になり、蒔田がやってきた。
 毎朝、蒔田が教室へ入ると、女子の間で小さな嬌声やため息が漏れる。
 今朝もそれは同じだった。

 日直の号令での挨拶の後、蒔田はいつもの通りに出欠を取った。
 理子の名前は最後に呼ばれる。理子の名前を呼んだ時、チラッと理子の方を見た。
 一瞬目が合ったのだが、理子はその一瞬で、これからやるんだな、と直感した。

 理子の直感通り、蒔田は出席簿を閉じると、顔を上げ、眼鏡を外した。
 その瞬間、物凄い嬌声が上がった。
 初めて蒔田が登場した時よりも遥かに凄い。

 男子は一斉に耳を塞いだ。
 理子も驚いて周囲を見渡す。
 殆どの女子が大興奮状態だった。

 やはり眼鏡よりも素顔なのか。
 確かに素顔の方が色気がある感じはする。
 周囲で、「素顔の方がいい!」との言葉が耳に入ってくる。

 蒔田は暫くのあいだ目の体操をしてから、眼鏡をかけた。
 眼鏡をかけた瞬間、がっかりしたような声が上がった。

「じゃぁ、ホームルームはこれで終わり」

 そう言い残して教室を出ていった。

 その後の教室は大騒ぎだ。

「ねぇ、見た見た?」

 みんな大興奮で、口々に出てくる言葉はそれしかない。
 これは大敗だ、と理子は思う。とんでもないものを賭けて無くて良かった。

 自分にとっては嬉しい内容ではあったが、それにしても、みんなの反応が凄い。
 まさかこれ程までとは。

「おい、なんなんだよー。蒔田が眼鏡を外しただけで、どうしてこんなに大騒ぎになるんだぁ?」

 耕介のぼやきのような言葉に、理子も内心では同意する。
 隣のゆきを見たら、ゆきも興奮しているようで頬を赤くしていた。美輝の方は普段と変わらずといった感じだが、僅かに目が輝いているようにも見えた。

「先生って、やっぱりカッコイイんだねー」

 ゆきのに言葉に思わず笑った。カッコ良さに改めて気づいたような言葉だからだ。

「まぁね。でも私は、眼鏡の方が.....」

 と言うと、耕介が「理子は眼鏡が好きなのか?」と訊いてきた。

「まぁ、そうだね。眼鏡が好きかなぁ」

「じゃあ、茂木はタイプなんだな?」

 なんで茂木がここに出てくるんだろう。周囲は先生の事で大騒ぎなのに。
 耕介の思考回路って理解できない。

「まぁ、茂木君はタイプかもね」
「おおっ!茂木に教えてやろう」
「ちょ、ちょっとぉ。やめてよ」
「なんでよ。そのくらいいいじゃんか」

 耕介には閉口する。直情径行とは、まさにコイツの事を言っているのかもしれないと思わずにはいられない。
 そこへ茂木がやってきた。

「おい、茂木。理子がお前タイプだって言ってるぞ」
「ええー?」

 あまりに急な話に茂木はひどく驚いた顔をして理子の方を見た。

「何だよ、いきなり.....」

 茂木の顔が赤くなっている。

「茂木君、耕介を許してやって。私は単に眼鏡が好きなだけだから」

「おい、なんだよー。茂木はタイプって言ったじゃないか」

 耕介がふくれた。

「まぁタイプだけど、それだけだから。誤解されても困るでしょ」

「話が見えない.....」

 茂木は戸惑っていた。

 実は茂木は、理子に好意を抱いている。まだ好意の段階だ。
 耕介はそれを知っているので、喜ばせてやりたかったわけなのだが。

「悪かった」
 耕介は結局、茂木の肩を叩いて謝った。

(結局、こいつは何がしたかったんだろう?)

耕介の真意を知らない理子にとっては、ただただ疑問に思うばかりだった。


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