第106話

文字数 6,756文字

 「い、一体、いつから付き合ってたんだ」

 さすがの諸星も、衝撃が大きかったようだ。口元が軽く痙攣している。

「一昨年の、秋からです」

「そ、そんな前からか。一昨年の秋って言うと、二年の時だな。修学旅行の時か」

「いえ。修学旅行の後です」

「まさか、修学旅行で何かあったんじゃないだろうな」

「ありません」

「そうか。それならいいが.....。だけど、その、どっちからなんだ。理子から告白されたのか?」

「いいえ。僕からです」

「おいおい、何やってるんだ。自分から生徒に告白してどうするよ。向こうから告白されたなら、まだ理解できるが、担任が受け持ちの子供に告白かよ」

「すみません。どうしても我慢できなかったんです。諸星先生は、ご自分から告白されたんじゃないんですか?」

「お、俺はよ。向こうから告白してきたんだ。俺も彼女が好きだった。でも生徒だから我慢してたんだ。だが、向こうから言われたら、自分も好きなんだから突っぱねるなんて、できないだろう」

 諸星はそう言うと、赤くなりながらビールに口を付けた。

「僕も我慢はしてましたよ。卒業までは言うまいと思ってたんです」

 蒔田はその辺の経緯を、諸星に語った。

「なるほどねぇ。衝動的にね。まぁ確かに、そういう瞬間ってのは、あるよな。魔が射すと言うか」

「それで、これからが本題なんですが、二人の事を、彼女のお母さんはまだ知りません。東大に合格したら結婚しようと約束したので、合格発表の日に二人で報告する事にしたんですが、そのお母さんと言うのが、ちょっと強烈な人で.....」

 蒔田の話しに、諸星は再び驚く。

「理子のお母さんは、凄いな。なるほど。それで二人の話しを聞いて、怒って学校へ訴えてくる事も考えられるから、校長へ事前に話すべきか否かで悩んでるってわけだな」

「そうなんです。どう思われますか?」

 うーん.....と、諸星は腕を組んで考え込んだ。難しい問題だ。
 保護者からそんな訴えをされてきたら、校長は困惑するに決まっている。
 勿論、幾ら保護者の訴えとは言っても、相手の言い分を一方的に鵜呑みにする事は無いだろう。
 だが下手をすると、蒔田は懲戒免職になりかねない。何と言っても、相手は受け持ちの生徒なのだから。

「お前ら、まだ清い関係なんだろう?理子を見ればわかる。性的な関係にはなっていないんだし、結婚するわけなんだし、卒業しちまったわけだから、本来なら何の問題も無いんだけどなぁ」

 みんな理子は男を知らないと思っている。この経験豊富そうな諸星でさえ、悪い言葉で言えば騙されている。
 蒔田から見ても、確かに理子はそう見える。何度も自分は抱いているのに、みんなフィクションだったんじゃないかと思えてくる時がある。

 女の顔をするのは、抱かれているその瞬間だけだ。それ以外では、いつも少女だった。
 最近は少し大人っぽくなってきて、聖女のようになってきたと思う。
 だが、こういう時には、清い理子の雰囲気は有難い。

「諸星先生の時は、どうだったんですか?」

「俺か?俺達は、周囲に理解があったから、問題無く結婚できた。彼女の親御さんは喜んでくれたよ。俺の方は、教え子に手を出してって怒られたが、障害になるような事は無かった」

「そうですか。羨ましいですね」

「君なんか、彼女が東大へ入れるように導いて、頑張ってきたんだ。それを評価されて然るべきだと、俺は思うよ。だから、そうだな。校長には前もって話しておいた方がいいだろう。その時には、俺も一緒に行ってやるよ」

「えっ?いいんですか?」

「ああ。俺は君を見直したよ。よく、卒業まで我慢したな。毎日好きな女を前にしていながら、何もできない状況なんだからな。しかも、結婚は東大を合格したらって条件を自らに課してる。理子もよく頑張ったが、そばにいる君の方が辛かったんじゃないのか」

 諸星の言葉が胸に沁みた。
 誰にも言えない恋。
 知っているのは家族と一部の友人だけ。協力し、応援してくれて、とても助かったし嬉しかった。だが本当の辛さは、身近にいる同じような立場の人間にしかわからないだろう。

「ありがとうございます。そう言って貰えて嬉しいです。最初に彼女に東大を勧めたのは、彼女の日本史への情熱を買ったからです。自分が通って来た道だから、サポートもしやすいと思ってました。それなのに、折角彼女がやる気になって頑張りだしたと言うのに、僕の方は彼女への恋心の方が強くなってきてしまって、逆に彼女の足を引っ張るような事をするようになってしまったんです。彼女は、僕への気持ちと受験勉強の狭間で随分と揺れながらも、流されないように踏ん張っていました。このままじゃ、二人して駄目になりかねないと思ったんです。だから自分に枷を付けました。そうしないと僕は.....」

「わかるよ、君の気持ちは。もっと楽な道を幾らでも選べたのにな。君も、そして理子も、よく頑張った。だけど理子の頑張りには驚くな。本当に熱心に職員室へ通ってきてたよな。途中で挫折しやしないかとか、不安にはならなかったのか?」

「それは、無いです。彼女はやり切ってくれると信じていました。知れば知る程、その確信は強くなりました。本人は色々悩んで随分と揺れていましたが、結局のところ、流されないんです。流されそうでいながらも、絶対に流されない。そういう人間なんですよ」

「ふーん、成る程なぁ。まぁ、職員室での様子を見てても、確かにそう言えるかもしれないな。あいつ、石坂先生に随分とモーションを掛けられていたが、まぁ見事に交わしてたよな。女子高生とは思えんよ、あのいなし方は。今日もな。石坂先生に卒業祝いにって本を貰ってたぞ。で、俺もやったんだ、あいつに」

「へぇ、そうなんですか。何の本を?」

「石坂先生は数学に関する本のようだったが、俺は、『和泉式部日記』よ」

 諸星は意味深な笑みを浮かべた。その笑みを見て、蒔田は何となく意味を悟った。

「で、裏表紙にサインをしたんだが、『理子へ』と書いた後に、ハートマークを付けといたんだ」

 諸星は、その時の様子を語った。

「でもって、最後に理子は何て言ったと思う?『私も先生が好きです。大好き』、だってよ。全く、参るよな、あいつには」

 蒔田は爆笑した。彼女が言いそうな事だ。繊細な割に、時に図太くて大胆な事をする。

「諸星先生だから、そう言ったんですよ。石坂先生相手なら、言わないでしょう」

「だろうな。まぁ、そんなわけだから、俺も理子の為にも一肌脱ぐよ」

 蒔田は最大の味方を得る事ができて、心強かった。
 これで、校長への報告も少し心が軽くなったのだった。


 卒業式の翌日、理子は午前中に教習所へ入学の手続きをしに出かけ、その足でみんなと待ち合わせているファミレスへと向かった。
 教習所で手続きをしている時に蒔田からのメールが入り、諸星先生が味方になってくれたのを知った。

 とうとう、あの先生も私達の事を知ったのか。
 さぞや驚いただろう。
 あの先生なら、きっとわかってくれるだろうと思ってはいたが、味方をしてくれると聞き有難かった。

 ファミレスに到着し、中へ入ると、みんなは既に来ていた。
 理子が最後になるのは珍しい。

「ごめん、待たせちゃった?」

「大丈夫。みんなも、つい今しがた来たところだから。な?」

「教習所へ通うんだって?」

「うん。入学式まで一カ月以上あるからね。休み中に終わるかはわからないけど、なるべく早く取得しておいた方がいいと思って」

「合格発表はまだなのに、理子はもう余裕だな」

「余裕って事はないけど、終わってしまった事をあれこれ思っても、結果は変わりようがないじゃない」

「そう思える所が、余裕なんだよ。羨ましいよ」

「羨ましいって、岩崎君と私以外はみんな決まってるじゃない。私の方こそ羨ましいですけど」

「そうだ、そうだー」

 岩崎が同意した。

「だけど、もう卒業しちゃったね。寂しいよね、これから.....」

 ゆきが、しんみりと言った。
 それぞれが、まるで違う道を進む。学校の場所も近いわけではない。
 勿論、地方へ行くわけではないから、会おうと思えばいつでも会えるわけだが、自然に集まってお喋りできるような関係では無くなるのだ。
 理子の場合は、引っ越すから家もみんなからは少し遠くなる。

「しょうがないよ。人生、そうやって出会いと別れを繰り返していくんだ。いつまでも子供ではいられないんだし」

 岩崎がそう言った。
 
「お前、達観してるな」
 
 茂木がそう言う。この中では、茂木が一番感情的で子供っぽいかもしれない。

「だけど、岩崎の言う通りだよ。変化が常だろう?しょうがないよ。でも友情を大切にしようと思うなら、これからも連絡を取り合っていけばいいのさ」

 枝本の言葉に、皆は頷いた。それから、取り留めのない話しへと発展し、ひとしきり喋った後に、ゆきが肘で理子を催促した。理子はドキリとした。
 やっぱり、緊張する。そんな二人の様子に気付いた枝本が、「どうしたの?」と、訊ねて来た。

「じつは、理子ちゃんから重大発表があります」

「え?何?重大発表って?」

 男子三人は不思議そうに顔を見合わせた。
 理子は、そんな三人を見て赤くなり、もじもじした。
 ゆきは焦れったそうに、言葉を継いだ。

「実は理子ちゃんね。彼と結婚する事になったんだよね?今月」

 ええー?三人は思わず大きな声を出して驚いた。

「結婚?嘘だろー。何でぇ?早過ぎるじゃないか」

 茂木が訴えた。
 
「学校、どうするの?」

 と、岩崎が訊く。

「学校は、勿論行きます。新しい名字で」

「あ、新しい名字って?何て名字になるの?」

 枝本が焦ったような顔になっていた。
 理子はその言葉に、ゆきと顔を見合わせた。

「最上さんは、もう知ってるんだよね?」

「うん。実は昨日聞いたんだけど、すっごく驚いたの」

「何で?何で驚くの?驚くような、変わった名字?」

「変わった名字じゃないんだけど、驚く名字」

 ゆきはそう言いながら、少し笑っている。三人は訳がわからない。
 ゆきが理子を突いた。
 理子は溜息を吐く。仕方ないと腹を決めた。

「私の新しい名字は、『蒔田』です。『蒔田理子』になります」

「ま、蒔田ぁー?って、それ、どういう事?」

「あ、あの、それって、単なる偶然?それとも、その.....」

「相手は、蒔田先生なの」

 理子の言葉に三人は絶句した。
 互いに何度も顔を見合わせながら、言葉が全く出て来ない。

「隠しててごめんね。でも相手が相手だから。言えなかったの、わかるよね」

「そ、それは、わかるけど、でも、本当なの?ジョークじゃないんだよね?」

 茂木がやっと、そう言った。

「ジョークじゃないよ。ごめんね」

「確か、最初、相手には彼女がいるって言ってたよね。その後で、誤解だったって聞いたけど、それってもしかして、あの時の?」

 枝本が言っているのは、文化祭の振り休での出来事を指している。

「そう。横浜で先生が女の人と一緒の所を見た時の事」

 何の事だよ、と茂木が言うので、枝本はその時の事を説明した。

「あの女性って、彼女じゃ無かったんだ。そう言えば、俺達が目撃した事を知って、先生は酷く狼狽してたな。それって、見られたのが理子だったからなのか」 

「そうみたい。ショックだったって言ってた」

「理子は、平然としてたよな」

「平然を装っていただけ。自分の気持ちを人に知られるのが嫌で。先生からはポーカーフェイスだって言われてる」

「そうだよな。それって、俺わかる。昔から君はそうだった」

「じゃぁ、さ。修学旅行の時は?あの時、先生は、君を俺達から守るように仁王立ちになったじゃん。あの時って、もう彼氏だったの?」

 茂木が急かすように訊いてきた。

「あの時は、まだ。あの時に私、自分の気持ちにはっきりと気付いたの。だから好きな人がいるって言ったんだけど、先生は、まさかその相手が自分だとは思ってなかったから、ショック受けたって」

「そっかぁ。あの後俺達、先生にこってり絞られたんだけど、先生も俺達と同じようにショックを受けてたのかぁ」

「じゃあ、いつから付き合ってるの?」

「二学期の中間テストの後に、美術館に誘われて、その時に.....」

 理子は蒔田との経緯を手短に語った。

「へぇ~。先生も意外と積極的なんだな。いっつも女子に纏わりつかれて迷惑そうに冷たくしてるのにな。そんな大胆な行動に出たんだ」

「だから先生は、理子には優しかったんだ。気にしないようにしていながら、やっぱり、気にしてたんだな」

「それは、そうだろう。好きなんだから。どうしたって、気になっちゃうんじゃないか?」

「だけど、僕はこの一年ずっと理子の近くにいたけど、全くそんなの感じなかったよ」

「へぇ~。やっぱり大人だから、隠すのが上手いのかな」

「それを言うなら、理子だって。理子なんて、全然、先生を意識してないって感じだったもんね」

「二人してポーカーフェイスなんだな」

「あっ、だけど.....」

 岩崎が急にそう言ったので、他の二人は関心を示した。

「だけどって、何だよ」

「文化祭の準備の時の事なんだけど」

 岩崎は編集をする際に、個人宅でやる事になったのを蒔田が反対して、視聴覚室でやるようにと指示してきた話しをした。

「あれって、やっぱり理子の身を案じてなのかな。女子は理子しかいなかったし」

 その言葉に、茂木と枝本が意味深な顔で理子の方を見た。

「そうなの。後から先生に叱られた。女はお前一人なんだから、もっと気を付けろって」

「先生って、理子ちゃんの事を『お前』って呼んでるの?」

 意外な突っ込みが入って来た。

「前はね。今は、『君』って呼んでる」

「ええぇ~?何で?何か、どっちもイイ感じだけど、何で変わったんだろう?いつから?」

「何で変わったのかは、わからないんだけど、変わったのは先生が事故で入院した時からかな」

「ああ、あの事故か。大変だったな。理子も随分心配しただろう」

「うん。凄く驚いたし、ショックだった」

「でも、大事故じゃなくて不幸中の幸いだったね。そう言えば、先生、頭を打ったって言ってたよね。それで、呼び方が変わったのかな」

「それは.....ちょっと.....」

 ゆきの言葉に理子は首を傾げた。

「最上さんは、どっちがいいの?どっちで呼ばれたいとか、あるの?」

「うーん.....、先生みたいな大人だったら、『お前』って呼ばれるのも、なんかいいよね。でも、『君』の方が、ロマンティックで素敵な感じがする~」

 ゆきは顔を赤らめていた。

「理子は?どうなの?」

「私は、どうだろう.....。よくわからないかも。先生は生徒に対しては誰にでも『お前』じゃない?私、最初『お前』呼ばわりされて、気分良く無かったもん。なんて態度の悪い先生なんだって思って、結構、反抗的な態度取ってたから」

「へぇ~。なのに結局、好きになっちゃったんだ。お互いに」

「そういう事だね」

「だけど、あの先生がねぇ~。女生徒とねぇ~」

 三人はしきりにそう言い合っていた。

「あのさ。それでね。入籍は今月の二十八日なんだけど、五月三日に式を挙げる事になってるの。良かったら、三人にも来て欲しいんだけど.....」

「えっ?三人って、俺達三人の事?」

「うん。できれば、耕介にも.....」

「いいの?先生は大丈夫なの?俺達が行っても」

「うん。大丈夫よ。合格発表の後に、正式な招待状を送るから」

 三人は再び顔を見合わせた。

「なんか、複雑な気分だよな~。彼氏がいるのは、もう前から知っていた事ではあるけど、まさか、その彼氏が蒔田先生だったとはなぁ」

「そうだよ。男と女なんて、どうなるかわからないからな。これから先、俺達だって全く望みが無いとは言えないと思ってたのに、結婚しちゃうんじゃなぁ」

「到底、かなう相手じゃないよね.....」

 そう言う三人に、理子は何を言ったら良いのかわからない。

「そんな、ショック受けてないで。皆の理子ちゃんが幸せになるんだよ。先生が相手じゃ、理子ちゃんの恋がこれまでどれだけ辛かったか、わかるでしょ。逢いたい時に逢えない、デートもできない、皆に悟られないようにポーカーフェイスを維持する。あたしは考えただけでも、気が狂いそうだよ。そんな思いも、やっと終わって、一緒になれるんだよ。祝ってあげようよ」

「ゆきちゃん.....」

 理子はゆきを見た。

「おめでとう、理子ちゃん」

 ゆきは理子を抱きしめた。

「理子、おめでとう。俺達、馬鹿みたいだったな。理子が幸せなら俺達も幸せだよな」

 枝本の言葉に、他の二人も頷き、「おめでとう」と言った。
 理子はみんなの祝福に、嬉しくて涙がこみ上げてきた。やっと、みんなに知って貰えた。そして祝福してくれている。
 こんなに嬉しい事はないと、思うのだった。
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