第85話

文字数 3,755文字

 一度家へ帰宅してから出かけようと決めたものの、家を出る時に母に何と言うかで悩んだ。
 帰りは早くても十八時半は過ぎるだろう。
 文化祭の準備で頻繁に学校に残っていた時も、十七時半には帰宅していた。

 三年生になってから、それより遅く帰った事が無かった。
 受験生がこの時期に、帰宅後に出かけるなんて、不審に思うに違いない。

 色々考えたが良い考えが浮かんでこない。
 結局、大きな嘘を吐くよりも、小さい嘘にしておこうとの結論に至る。
 中学の友人の家へお喋りをしに行くと言う事にした。

 その友達とは中学の三年間ずっと同じクラスで、卒業してからも時々会っていた、佐和子だ。
 家も近い。
 彼女にその旨を頼むメールを送ったら了解してくれた。父子家庭なので、家には誰もいない。

 昼休みは、いつも通りに職員室へと勉強を聞きに出かけた。
 偵察も兼ねている。
 職員室へ入ると女生徒が沢山いた。どうやら、他のクラスでも蒔田の怪我の事を伝え聞き、詳細を聞きに来ているようだ。病院を教えろとしきりに訴えている。

 理子は石坂先生の所へ行った。

「文化祭、御苦労さまだったね」

 石坂が労いの言葉をかけてきた。

「今年で最後ですからね」

「随分、頑張ったよね。お茶は今年は飲みに行けなかったが、歌は聴いたよ。素晴らしかった」

「ありがとうございます」

「君は本当に、歌が上手いね。声が綺麗なのがいい」

「そんな事を言われると、照れちゃいますね」

「終わった後、握手攻めが凄かったね。僕もしたかったんだけど、打ち切られて残念だった」

 理子はその言葉にドキっとした。

「あ、あれは、校長先生のせいですよ。みんな便乗しちゃって」

「全くだ。校長が一番の役得だったと言える」

 石坂はそう言って笑った。

「だけど、君は人気者だね」

「そんな事無いですよ」

「合唱部のコンサート、多くは君が目当てだったみたいだし」

 そう言われて、少し頬が熱くなるのを感じて思わず俯いた。返答に困ったからだ。
 実際、自分が目当てと言われた所で自分では全く実感が無い。
 ラブレターすら貰った事が無いのに。

「握手だって、君に興味が無かったら、いくら校長がしたからって便乗しやしないでしょう」

 その言葉に理子は顔を上げた。

「石坂先生はさっき、僕もしたかったっておっしゃいましたよね」

 理子に言われて、石坂はまっすぐ理子の目を見てきた。

「言ったね」

「それって.....」

 つい、追及するような事を言ってしまい、しまったと思ったが遅かったようだ。

「僕も君に興味があるってことだよ」

 理子はじっと石坂の顔を見た。
 どう返すべきなのか、全く思い浮かばない。

 石坂はたじろぎもせずに理子の視線を受け止めていた。

「もっと正確に言えば、既に興味の段階は超えていて、ひとつの想いになってしまっている」

 職員室内はざわついていた。蒔田の事で落ち着かない。
 誰も二人の様子を気にも留めていなかった。
 職員室で、まさか、ここまで言われるとは思ってもみなかった。

「先生、私、そんな事を言われても困ります」

 瞬間的にフリーズした理子だったが、すぐに理性を取り戻した。
 石坂は軽く笑った。

「そうだよね。そのくらいは僕だってわかってるよ。だが、もし良かったら、卒業してから考えてみてくれないかい?」

「考えるって何をですか?私に、先生の愛人になれとでも?」

 石坂は少し悲しそうな笑みを浮かべた後、真剣な顔つきになった。

「君が真面目に考えてくれるなら、僕は妻と別居しようかと思っているんだ」

 理子は驚愕する。
 一体この先生は、何を馬鹿な事を言い出すのだろう。

「私には、先生がどうしてそこまでお考えになるのか、全くわかりません。私は先生として、石坂先生の事が好きです。優しい大人の感じに憧れています。でも、それだけです。どう転んでも、それ以上の気持ちは持ち合わせていませんし、これからもそれは変わりません」

 理子はきっぱりと言い放った。
 石坂は溜息を吐いた。

「そうかい。それは残念だね。まぁ、予想はしてたんだよ。ただ、ほんの少しだけでも可能性はあるんじゃないかと思って、それに賭けてみたんだが、見事に玉砕だったね」

「私、石坂先生には、いつまでも憧れの先生でいて欲しいです。暖かく見守っていて下さい」

 理子の言葉に、石坂は笑った。

「やっぱり、それしか無いのかねぇ」

 と寂しそうに言う。

「先生、奥様と上手くいってらっしゃらないんですか?」

「いや、そんな事はないよ。二人の関係はこれまでと変わらない。ただ、そこに君が入り込んで来てしまっただけだよ」

 そんな事ってあるのだろうか。
 夫婦の間柄は今までと変わらないのに、そこへ他の女性がいきなり入り込んで来るなんて。

「不思議そうな顔をしているね。妻とは静かな愛を育んでいる感じかな。愛している事には変わりは無いんだ。なのに、他の女性に惹かれてしまう。何故なんだろうね。僕が思うに、それは
きっと妻が全てじゃないって事なんだろうね」

「結婚される時はどうだったんですか?全てだと思ってらっしゃらなかったんですか?」

「全てとは、思って無かったよ。それ程、熱い関係では無かったから。一生の伴侶として、穏やかな家庭を築いていける人だと思って一緒になった」

 石坂の言葉を聞いて、理子はふと須田を思い出した。
 須田と付き合った理由に似ている気がしたからだ。
 須田との時間は、ときめきよりも安心感だった。自分を好いて大事にしてくれる人との穏やかな時間は、心地良くて楽だった。だが、どうしても必要な時間では無かった。

「それなら、それを貫かれればいいのに」

「そうしたいとは思っている。思ってはいるが、時々心が寄り道をしてしまう」

「そうですか。でもそれに、私を巻き込まないで下さいね」

 理子はそう言って微笑んだ。

「君には数学以外では勝てないみたいだね」

「そうだと嬉しいです」

 理子はそう言うと、周囲の様子を見回した。相変わらず、騒がしい。
 斜め前の席の諸星はいなかった。

「諸星先生はね。蒔田先生の休み中の対応について、校長と話し合ってるよ」

 理子の視線に気づいたようだ。

「対応って言うのは?」

「入院一カ月って話しだが、退院してもすぐには出勤できないだろうしね。留守中に、授業や補習クラスをどうするか、決めないといけないでしょう」

 それはそうだった。一体、どうするのだろう?

「しかし、普段から人気者のせいか、凄いねぇ」

 女生徒達の方を顎で指して言った。

「そうですね」

「蒔田先生は普段から女生徒達にチヤホヤされるのがお好きじゃないようだから、病院にも来て欲しくないんだろうね」

「先生だったら、どうです?」

「僕なら、大歓迎だよ。だから病院を隠したりなんかしない。それにしても変わってる。生徒達だけじゃなくて、先生方にも秘密にされている」

「えっ?そうなんですか?」

「ご存じなのは、校長と学年主任の諸星先生と、補習クラスのもう一人の担当の熊田先生だけなんだよ」

 その事に理子は驚いた。

「副担の斎藤先生が、手紙とか見舞いの品は先生経由っておっしゃってたから、先生方はご存じなのかと思ってました」

「まぁ、そうだよね。そう思うのが普通でしょう。だが、校長がおっしゃるには、本人はとにかく生徒達に漏れたら困るから、知る人間は極力少なくして欲しいと言っているそうなんだ。漏れないとも限らないと言えば、それはそうかもしれないが.....」

 用心深い人だと、つくづく思う。
 異常とも言える程の人気だから、漏れたら一挙に押し寄せるのは目に見えている。それが嫌で仕方が無いんだろう。
 実際、押しかけて来られたら気が休まらないだろう。

「やっぱり、気になるかい?」

「それは、少しは。担任の先生ですし、第一、これからの受験の事も不安ですし」

「そうだろうよねぇ。東大を受験する君にとっては、蒔田先生は最大のサポーターだからね」

 そう話しているところへ、諸星が戻って来た。

「よぉ、理子」

 諸星は理子の姿を認めると、手を挙げた。

「今回は、大変な事になったなぁ、お前の担任」

「はい」

 理子は諸星の言葉に、神妙な顔をした。

「受験の方も心配だろう。これからって時だし」

「そうなんです。どうなるんでしょう」

「まぁ、なるようにしかならんよ。日本史の授業は臨時の講師を雇う事になった。補習クラスの指導は、国立クラスも取りあえず熊田先生が見る事になるだろうが、一応、毎週、蒔田先生の所へ行って、チェックしてもらう予定だ」

「そうですか。じゃぁ、お見舞いも兼ねて毎週病院へ行かれるんですね?」

「そういう事になるな。まぁ、大体が熊田先生になると思うが」

「そうだとすると、矢張り土曜日に行かれるんでしょうか」

「そうだな。蒔田先生のチェックを受けてから、次週の課題等を考えて決めないといけないからな。日曜日だと間に合わないだろう」

 理子はそれが聞きたかった。先生方が土曜日に行くのなら、理子は日曜日に行けば安全な筈だ。

「何だ、何か渡したい物でもあるのか?」

「いいえ。無いです。お見舞いの品は、多分クラス全員でお願いする事になるでしょうし」

「そうか。まぁ、お前の事はよく伝えておいてやるよ。お前が一番大変だろうからな」

「よろしくお願いします」

 理子はそう言ってお辞儀をすると、職員室を後にした。
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