第115話
文字数 5,891文字
二人は、家族が待つ日本料理店へと移動し、そこで数時間を過ごした。両家族はとても良い雰囲気だった。特に理子の母、素子の上機嫌な顔を見て、二人はホッとした。
紫と優子も打ち解けている。和やかに食事と歓談は終わり、理子と蒔田は新居へ戻った。
午後二時半、理子の友人達が新居へやってきた。
ゆき、美輝、枝本、茂木、岩崎、耕介の六人だ。この六人は、結婚式へも来る予定だ。
美輝と耕介は、休みに入ってから二人の事を友人から聞いて仰天していた。付き合っていた事にも驚きだが、それよりも何よりも結婚すると言う事の方が驚きは大きい。
ついこの前、高校を卒業したばかりなのだから。
「おめでとうございまーす!」
玄関で、大きな花束を渡された。とても華やかで豪華な花束だった。
「ありがとう!みんな」
理子は満面に笑みを浮かべて、花の中に顔を埋めた。
とても良い香りがする。
友人たちは、二人が幸せそうな顔をして並んでいるのを見て、初めて理子の相手が蒔田先生なんだと言う事を実感した。
理子から聞かされても、どうにも実感が湧いてこなかった。
二人が一緒にいる所を見た事が無いからだ。
学校では、まるで他人だった。だが、今目の前にいる二人は、紛れもなく恋人同士である。甘い空気が二人を包んでいた。
二人に案内されて、中へと足を踏み入れる。マンションだと言うのに、廊下が長い。左右にドアが幾つもある。正面のガラス扉を開けると、そこはとても広いリビングだった。
「うわ~、凄い!広い~。グランドピアノまであるー!」
ゆきが叫ぶように言った。
耕介は「おおぉっ!」と、大きな目を更に大きくさせていた。
「他の部屋も見せて貰っていいですか?」
岩崎が訊いてきた。
「おお、いいぞ。好きなだけ見ろ」
蒔田が笑顔で言う。嬉しくて自慢したいのだろう。
理子はその間にお茶の支度を始めた。蒔田はそのそばに立つ。
あちこちから、感嘆の声が聞こえてくる。二人は顔を見合わせて笑った。
「理子.....」
キッチンの入口に立った岩崎が理子を呼んだ。
「なあに?どうしたの?」
「あの写真、飾ってくれてるんだ。ありがとう」
それを聞いて、理子はにっこりと笑った。
「だって、あの写真、お気に入りだもん。あれを見てると、とっても和むんだ」
理子は岩崎から卒業の記念に貰った鉄道の写真を、自分の勉強部屋に飾った。本当に、あれを見ていると仄々とした気持ちになってくるのだった。
「さぁ、お茶にしましょうよ」
理子がそう言って、お茶を運ぶ。蒔田は用意してあるお菓子を持って後に続いた。
みんなでお茶とお菓子を囲む。その中で、蒔田は妙な違和感を感じた。
全員が生徒だからだ。大人は自分しかいない。しかも子供はみんな、自分が受け持った生徒達で、岩崎以外、歴研のメンバーだ。
「改めて、おめでとうございまーす!」
理子は頬を染めた。蒔田は照れくさい。
「ありがとう。なんだか、照れくさいな」
「そりゃぁ、そうでしょうよ。今まで隠してたんだし、こうしてみんなの前に二人で出るのは初めてなんだし」
と、枝本が言った。
「なんだか、言葉に刺を感じるのは、気のせいかな」
「全然、気のせいじゃありませんよ」
にっこりと笑っている。案外、意地が悪いんだな、と蒔田は内心で思う。
「そうは言うが、別に隠したくて隠していた訳じゃないよ。それくらいは、わかるだろう」
「先生は、俺達の目の前から俺達の姫をかっさらって行ったんですよ。俺達の失望の深さを考えて下さいよー」
茂木が口を尖らす。
「それは、済まなかったな。だがお前らは、いつも理子のそばに居たじゃないか。毎日理子のそばに居て、理子とお喋りし、理子の笑顔を見て、楽しい思いをしてきただろう。俺のできない事をお前達は毎日してたんだ」
「先生が、理子って言ってる~。きゃぁ~、なんか素敵~」
と、ゆきがいきなり言った。その言葉に、蒔田の顔が微かに赤く染まった。
「やだ、ゆきちゃん。いきなり何言うのよぉ~」
「だってぇ。理子ちゃんを呼び捨てにしてる先生って、諸星先生だけじゃん。学校じゃぁ、いつも名字で呼んでるでしょ?なんか、すっごい新鮮だし、先生は声も素敵だから、痺れちゃう」
自分の名を呼ばれているわけでもないのに、何故痺れるのか。
男子は、ゆきの言葉に出鼻をくじかれた気がした。
「そ、そう言えばさ」
耕介が話しだした。
「二年の、最初のこ、頃だったかに、蒔田先生が眼鏡を外した途端に、女子が物凄く大騒ぎした事が、あ、あっただろう」
「随分、古い話しをするんだな」
「あ、あの時に、確か理子は、眼鏡の方がいいのに、とか何とか言ってたよな。あれって、つまりは、こういう事だったのか?」
耕介の言葉に、みんなが理子を見た。枝本が転校してくる前の話しだし、岩崎はこの時は別のクラスだったので、二人は不思議そうな顔をしている。
「あの時は、別にまだ、好きだったわけじゃないわよ。本当に、眼鏡の方が素敵だと思ったから、そう言っただけ」
「じゃぁ、あの時に茂木に猛烈にアタックされてたら、付き合ってたかもしれないんじゃないか?」
耕介の言葉に、理子は、「そうかもね」と答えた。
「ほら、みろ。だから俺は、お、お、お前を催促したのに」
耕介が茂木に向かって言った。
「なんだよー。今頃そんな事言われたって遅いじゃんか」
「そ、そうだよ。だから、あん時、アタックしときゃ、良かったんだ。理子はな。眼鏡が好みなんだ。見ろ、この面子 。俺以外はみんな眼鏡じゃないか」
男子は揃って互いの顔を見合わせた。
「もしかして、先生の事も眼鏡だから好きになったの?」
枝本が訊いてきた。
「まぁね。眼鏡かけて無かったら、今の可能性は低かったかも.....」
「先生、いいんですか?こんな事言ってますよ?」
と、岩崎が言った。蒔田は苦笑した。
「俺、理子が眼鏡フェチなのは知ってるから。耕介が言う通り、こうして理子の周りには眼鏡ばかりが何故か集まって来る。その度に、俺は気が気じゃない。だから、理子の前では眼鏡を外せない。既に、必須アイテムになってるんだ」
その言葉に、どっと笑いが起こった。
「そう言えば、哲郎君も眼鏡だよね」
ゆきが言った。その言葉に、全員の視線がゆきに集中した。
それを受けてゆきがたじろぐ。
「えっ?何?あたし、何か変な事を言った?」
「哲郎って、誰?」
茂木が不審そうに訊いた。
「哲郎って、多田哲郎君.....」
責められているように感じられる皆の視線に、ゆきは消え入りそうに答えた。
「多田哲郎?なんであいつの名前が出てくんの?」
枝本が大きな声で言った。
「枝本、知ってんの?」
「東中にいた時に、同じ中学だったヤツ。クラスは俺達とは違ったけど。先生は知ってます?」
「多田なら、日本史の授業で受け持った事はあるが、それ以外の事は知らない」
そうして、今度はみんなして理子を見る。その視線を浴びて、理子は怯 んだ。
「確かに最上さんが言う通り、多田は眼鏡をかけてるけど、それって、どういう意味?」
枝本の視線が、何故か痛い。理子は蒔田の方を見た。
すると、「俺も聞きたい」と言われてしまった。
「理子ちゃん、ごめん.....」
ゆきが済まなそうに言った。仕方ない。
「みんな、そんなに目の色変えなくてもいいじゃない。哲郎は、私が約二年間、片思いしていた人です」
「ええ~?理子が片思い~?」
茂木が素っ頓狂な声を出した。
「私だって、片思いくらいします」
「いや、そうじゃなくて.....」
「二年間って、いつからいつ?」
枝本が訊ねてきた。
「哲郎とは、中2で同じクラスになったの。それで、夏くらいに好きになってるのに気付いて、それ以来、高1の夏ころまで、ずっと好きでした。以上」
「そんなに長い間、好きだったんだ」
岩崎が言った。その言葉を受けて枝本が言う。
「理子は自分から告白しないからな」
「茂木君と一緒よ。言えないでいたら、目の前から、かっさらわれちゃったの」
「えっ?それって.....?」
「お前、鈍いな。そ、そいつに、か、彼女ができたって、事だろう?」
「そういう事です」
「で、一途な理子は、その後も彼をずっと好きだったということか」
「そうなんです。幸か不幸か、同じ高校に進学して。その前に彼女と別れてたから、また少し期待したりなんかしてたら、また、さらわれちゃった。私は彼のタイプじゃ無かったようで」
理子が笑ってそう言った。
「理子ちゃん、可哀そうなんだよ。哲郎君とは、凄い仲良しでさ。この二人がどうしてカップルじゃないの?って不思議に思うくらいだったんだよ。あたしは絶対、両思いになるって思ってたのに、哲郎君に別の彼女ができちゃって、しかも、彼女ができた報告を真っ先に理子ちゃんにしてきたの。二回も。信じられないでしょう?どれだけ理子ちゃんが傷ついたかと思うと、あたし、悲しくて」
「許せないな、そいつ」
茂木が怒りのこもった顔と声で言った。
「まぁまぁ、いいじゃないの。そんな事。もう、過去の話よ」
理子は謝恩会で哲郎と会った時の事を話した。
「結局さ。あいつは、そういう女の子がタイプなのよ。私とはまるで違うタイプ。だから、さっさと諦めて良かったってわけ。友達以上にはお互いになれないのよ。だから全然、未練なし!」
理子の話を聞いて、枝本は少しだけ寂しい思いをした。
自分と別れた後に、そんな事があったんだ、と思うと、あまり嬉しくない。
話しがひと段落した頃、蒔田は枝本を自室へ呼んだ。
「どうしたんです?俺だけ別室に呼んで」
「去年の、渕田の事件の事だ」
蒔田の言葉に、枝本の目つきが鋭くなった。
「お前には感謝してる。お前が彼女を心配して教室へ様子を見に行かなかったら大変な事になっていた」
枝本は顔を背けた。あの時の事を思い出すと、胸が痛い。
怒りと悲しみが押し寄せてくる。
怒りとは、渕田に対してで、悲しみとは、自分が彼女の拠り所にはなれない事だった。
「理子があんな目に遭ってるところに遭遇して、俺は凄いショックでした。あいつが許せなかった。そして、自分が彼女を守れた事が嬉しかった反面、泣いている彼女をこの手に抱きしめながら、彼女が選んだのは俺じゃないんだという悲しい思いに支配されてました。俺だったら、いつも一緒にいてやれるのに。いつも守ってやれるのに、って。俺は、中学の時に、簡単に彼女と別れてしまった事を、あの時ほど後悔した事はないです」
枝本は拳を握りしめた。
「俺も、あの時ほど、自分の立場を恨めしく思った事は無い。だからこそ、余計にお前には感謝してるんだ。茂木もだが、あれから二人で理子を守ってくれた。ありがとう。その礼を言いたかったんだ」
「渕田の怪我。あれ、先生なんですね?」
「そうだ。俺がやった。どうしても許せなくてな」
「先生は、どうして知ったんですか?理子から聞いたんですか?理子は、俺が渕田の席を変えるように先生に話すって言った時、凄く怯えて嫌がってましたけど」
「二日も続けて休んだから、変だと思ったんだ。それで、見舞いに行った。その時に彼女の様子がおかしい事と、手首の痣と手の甲の傷を見て、察した。あれは縛られた痕だ。二の腕を掴んだら酷く痛がったから、おかしいと思って見たら、掴まれた指の痕が付いていた。相当、強い力で押さえつけられたんだろう。見ればわかる」
「そうだったんですか.....」
「彼女から、お前が助けてくれたと聞いた時、嬉しかった。よくやってくれたと思った。一方で、助けたのが自分で無かった事が悔しくもあった。もし凌辱されてたら、渕田はあんなんじゃ
済まなかっただろう。俺はこう見えて結構、激情家なんだ。切れたら何をするかわからない」
「それは俺もですよ。あの場で死ぬほど殴ってたでしょうね」
二人は暫く沈黙した。互いに、理子への熱い思いが伝わって来た。
「これからも、彼女の友達でいてやってくれ」
最初に沈黙を破ったのは蒔田だった。
「酷なセリフですね。でも、勿論、そのつもりです」
「彼女にとっては、お前はこれまでも、そしてこれからも特別な相手だ」
蒔田の言葉に枝本は驚いた。
「えっ?それって、どういう意味ですか?」
「お前とは、不完全燃焼だったからなのかなぁ。好きなままで別れてしまったせいか、思いが燻ぶって残ってるみたいだ。それは、お前だって感じてるんじゃないか?」
その言葉には、同意できる部分がある。時々二人で交わす視線に、特別な物を感じる時があった。茂木が、枝本の方が理子に近い気がすると言ったのも、それを感じていたからだろう。
「だけどそれで、先生は平気なんですか?」
「今は平気だ。だが、前は平気じゃなかったな。本人は自覚してないが、彼女は結構人気があるだろう。俺はこれで嫉妬深いんだよ。男の友達が多いんで、随分と気を揉んだ。中でもお前に対しては特別に妬けたな。彼女は一途だから」
「それで、どうして平気になったんです?」
「それは、聞かないでおいた方がいいと思うぞ」
「聞きたいですね、是非」
蒔田は軽く吐息を吐いた。
「俺の方が、彼女にとってはお前よりも特別だとわかったからだ」
蒔田の言葉を聞いても、枝本は無表情だった。
だが、やがて、フッと笑って、「なんだ、そんな事か」と言った。
「先生。そんな事は、俺にはとっくに、わかってましたよ。待ってれば、いつかはまた、俺の所に帰ってきてくれるんじゃないかと微かな期待を持ってはいましたけど、その思いはすぐに打ち砕かれる。それ程まで好きな相手って、どんなヤツなんだろうってずっと思ってました。相手が先生だと知った時には、ノックアウトされた気分でしたね。特に今日、二人に会って、それは確信に変わりました。先生も相当、彼女にやられてるみたいですね」
枝本は微笑んだ。
「そうだな。みんな彼女にやられてる」
蒔田も微笑む。
「じゃぁ、そろそろ戻ろうか」
二人がリビングに戻ると、リビングではみんなでトランプをしていて盛り上がっていた。その輪の中に二人も入る。
楽しい時間が過ぎ、やがて友人達の帰る時間になった。
「また、いつでも遊びに来てくれ。俺は平日は仕事でいないから、遠慮しなくていいぞ」
「えー?旦那さんの留守中に、いいんですかぁ?俺達、男ですよー?」
枝本の言葉に蒔田は笑う。
「お前らならいい。お前らは信用できる。理子が泣くような事は絶対にしないだろう?」
「あーあー、そんな事を言われたら、なーんも悪さできねーよなー」
茂木の言葉に、一同は沸いた。
「じゃぁ、理子ちゃん。またね」
賑やかな一団は、こうして帰って行った。
紫と優子も打ち解けている。和やかに食事と歓談は終わり、理子と蒔田は新居へ戻った。
午後二時半、理子の友人達が新居へやってきた。
ゆき、美輝、枝本、茂木、岩崎、耕介の六人だ。この六人は、結婚式へも来る予定だ。
美輝と耕介は、休みに入ってから二人の事を友人から聞いて仰天していた。付き合っていた事にも驚きだが、それよりも何よりも結婚すると言う事の方が驚きは大きい。
ついこの前、高校を卒業したばかりなのだから。
「おめでとうございまーす!」
玄関で、大きな花束を渡された。とても華やかで豪華な花束だった。
「ありがとう!みんな」
理子は満面に笑みを浮かべて、花の中に顔を埋めた。
とても良い香りがする。
友人たちは、二人が幸せそうな顔をして並んでいるのを見て、初めて理子の相手が蒔田先生なんだと言う事を実感した。
理子から聞かされても、どうにも実感が湧いてこなかった。
二人が一緒にいる所を見た事が無いからだ。
学校では、まるで他人だった。だが、今目の前にいる二人は、紛れもなく恋人同士である。甘い空気が二人を包んでいた。
二人に案内されて、中へと足を踏み入れる。マンションだと言うのに、廊下が長い。左右にドアが幾つもある。正面のガラス扉を開けると、そこはとても広いリビングだった。
「うわ~、凄い!広い~。グランドピアノまであるー!」
ゆきが叫ぶように言った。
耕介は「おおぉっ!」と、大きな目を更に大きくさせていた。
「他の部屋も見せて貰っていいですか?」
岩崎が訊いてきた。
「おお、いいぞ。好きなだけ見ろ」
蒔田が笑顔で言う。嬉しくて自慢したいのだろう。
理子はその間にお茶の支度を始めた。蒔田はそのそばに立つ。
あちこちから、感嘆の声が聞こえてくる。二人は顔を見合わせて笑った。
「理子.....」
キッチンの入口に立った岩崎が理子を呼んだ。
「なあに?どうしたの?」
「あの写真、飾ってくれてるんだ。ありがとう」
それを聞いて、理子はにっこりと笑った。
「だって、あの写真、お気に入りだもん。あれを見てると、とっても和むんだ」
理子は岩崎から卒業の記念に貰った鉄道の写真を、自分の勉強部屋に飾った。本当に、あれを見ていると仄々とした気持ちになってくるのだった。
「さぁ、お茶にしましょうよ」
理子がそう言って、お茶を運ぶ。蒔田は用意してあるお菓子を持って後に続いた。
みんなでお茶とお菓子を囲む。その中で、蒔田は妙な違和感を感じた。
全員が生徒だからだ。大人は自分しかいない。しかも子供はみんな、自分が受け持った生徒達で、岩崎以外、歴研のメンバーだ。
「改めて、おめでとうございまーす!」
理子は頬を染めた。蒔田は照れくさい。
「ありがとう。なんだか、照れくさいな」
「そりゃぁ、そうでしょうよ。今まで隠してたんだし、こうしてみんなの前に二人で出るのは初めてなんだし」
と、枝本が言った。
「なんだか、言葉に刺を感じるのは、気のせいかな」
「全然、気のせいじゃありませんよ」
にっこりと笑っている。案外、意地が悪いんだな、と蒔田は内心で思う。
「そうは言うが、別に隠したくて隠していた訳じゃないよ。それくらいは、わかるだろう」
「先生は、俺達の目の前から俺達の姫をかっさらって行ったんですよ。俺達の失望の深さを考えて下さいよー」
茂木が口を尖らす。
「それは、済まなかったな。だがお前らは、いつも理子のそばに居たじゃないか。毎日理子のそばに居て、理子とお喋りし、理子の笑顔を見て、楽しい思いをしてきただろう。俺のできない事をお前達は毎日してたんだ」
「先生が、理子って言ってる~。きゃぁ~、なんか素敵~」
と、ゆきがいきなり言った。その言葉に、蒔田の顔が微かに赤く染まった。
「やだ、ゆきちゃん。いきなり何言うのよぉ~」
「だってぇ。理子ちゃんを呼び捨てにしてる先生って、諸星先生だけじゃん。学校じゃぁ、いつも名字で呼んでるでしょ?なんか、すっごい新鮮だし、先生は声も素敵だから、痺れちゃう」
自分の名を呼ばれているわけでもないのに、何故痺れるのか。
男子は、ゆきの言葉に出鼻をくじかれた気がした。
「そ、そう言えばさ」
耕介が話しだした。
「二年の、最初のこ、頃だったかに、蒔田先生が眼鏡を外した途端に、女子が物凄く大騒ぎした事が、あ、あっただろう」
「随分、古い話しをするんだな」
「あ、あの時に、確か理子は、眼鏡の方がいいのに、とか何とか言ってたよな。あれって、つまりは、こういう事だったのか?」
耕介の言葉に、みんなが理子を見た。枝本が転校してくる前の話しだし、岩崎はこの時は別のクラスだったので、二人は不思議そうな顔をしている。
「あの時は、別にまだ、好きだったわけじゃないわよ。本当に、眼鏡の方が素敵だと思ったから、そう言っただけ」
「じゃぁ、あの時に茂木に猛烈にアタックされてたら、付き合ってたかもしれないんじゃないか?」
耕介の言葉に、理子は、「そうかもね」と答えた。
「ほら、みろ。だから俺は、お、お、お前を催促したのに」
耕介が茂木に向かって言った。
「なんだよー。今頃そんな事言われたって遅いじゃんか」
「そ、そうだよ。だから、あん時、アタックしときゃ、良かったんだ。理子はな。眼鏡が好みなんだ。見ろ、この
男子は揃って互いの顔を見合わせた。
「もしかして、先生の事も眼鏡だから好きになったの?」
枝本が訊いてきた。
「まぁね。眼鏡かけて無かったら、今の可能性は低かったかも.....」
「先生、いいんですか?こんな事言ってますよ?」
と、岩崎が言った。蒔田は苦笑した。
「俺、理子が眼鏡フェチなのは知ってるから。耕介が言う通り、こうして理子の周りには眼鏡ばかりが何故か集まって来る。その度に、俺は気が気じゃない。だから、理子の前では眼鏡を外せない。既に、必須アイテムになってるんだ」
その言葉に、どっと笑いが起こった。
「そう言えば、哲郎君も眼鏡だよね」
ゆきが言った。その言葉に、全員の視線がゆきに集中した。
それを受けてゆきがたじろぐ。
「えっ?何?あたし、何か変な事を言った?」
「哲郎って、誰?」
茂木が不審そうに訊いた。
「哲郎って、多田哲郎君.....」
責められているように感じられる皆の視線に、ゆきは消え入りそうに答えた。
「多田哲郎?なんであいつの名前が出てくんの?」
枝本が大きな声で言った。
「枝本、知ってんの?」
「東中にいた時に、同じ中学だったヤツ。クラスは俺達とは違ったけど。先生は知ってます?」
「多田なら、日本史の授業で受け持った事はあるが、それ以外の事は知らない」
そうして、今度はみんなして理子を見る。その視線を浴びて、理子は
「確かに最上さんが言う通り、多田は眼鏡をかけてるけど、それって、どういう意味?」
枝本の視線が、何故か痛い。理子は蒔田の方を見た。
すると、「俺も聞きたい」と言われてしまった。
「理子ちゃん、ごめん.....」
ゆきが済まなそうに言った。仕方ない。
「みんな、そんなに目の色変えなくてもいいじゃない。哲郎は、私が約二年間、片思いしていた人です」
「ええ~?理子が片思い~?」
茂木が素っ頓狂な声を出した。
「私だって、片思いくらいします」
「いや、そうじゃなくて.....」
「二年間って、いつからいつ?」
枝本が訊ねてきた。
「哲郎とは、中2で同じクラスになったの。それで、夏くらいに好きになってるのに気付いて、それ以来、高1の夏ころまで、ずっと好きでした。以上」
「そんなに長い間、好きだったんだ」
岩崎が言った。その言葉を受けて枝本が言う。
「理子は自分から告白しないからな」
「茂木君と一緒よ。言えないでいたら、目の前から、かっさらわれちゃったの」
「えっ?それって.....?」
「お前、鈍いな。そ、そいつに、か、彼女ができたって、事だろう?」
「そういう事です」
「で、一途な理子は、その後も彼をずっと好きだったということか」
「そうなんです。幸か不幸か、同じ高校に進学して。その前に彼女と別れてたから、また少し期待したりなんかしてたら、また、さらわれちゃった。私は彼のタイプじゃ無かったようで」
理子が笑ってそう言った。
「理子ちゃん、可哀そうなんだよ。哲郎君とは、凄い仲良しでさ。この二人がどうしてカップルじゃないの?って不思議に思うくらいだったんだよ。あたしは絶対、両思いになるって思ってたのに、哲郎君に別の彼女ができちゃって、しかも、彼女ができた報告を真っ先に理子ちゃんにしてきたの。二回も。信じられないでしょう?どれだけ理子ちゃんが傷ついたかと思うと、あたし、悲しくて」
「許せないな、そいつ」
茂木が怒りのこもった顔と声で言った。
「まぁまぁ、いいじゃないの。そんな事。もう、過去の話よ」
理子は謝恩会で哲郎と会った時の事を話した。
「結局さ。あいつは、そういう女の子がタイプなのよ。私とはまるで違うタイプ。だから、さっさと諦めて良かったってわけ。友達以上にはお互いになれないのよ。だから全然、未練なし!」
理子の話を聞いて、枝本は少しだけ寂しい思いをした。
自分と別れた後に、そんな事があったんだ、と思うと、あまり嬉しくない。
話しがひと段落した頃、蒔田は枝本を自室へ呼んだ。
「どうしたんです?俺だけ別室に呼んで」
「去年の、渕田の事件の事だ」
蒔田の言葉に、枝本の目つきが鋭くなった。
「お前には感謝してる。お前が彼女を心配して教室へ様子を見に行かなかったら大変な事になっていた」
枝本は顔を背けた。あの時の事を思い出すと、胸が痛い。
怒りと悲しみが押し寄せてくる。
怒りとは、渕田に対してで、悲しみとは、自分が彼女の拠り所にはなれない事だった。
「理子があんな目に遭ってるところに遭遇して、俺は凄いショックでした。あいつが許せなかった。そして、自分が彼女を守れた事が嬉しかった反面、泣いている彼女をこの手に抱きしめながら、彼女が選んだのは俺じゃないんだという悲しい思いに支配されてました。俺だったら、いつも一緒にいてやれるのに。いつも守ってやれるのに、って。俺は、中学の時に、簡単に彼女と別れてしまった事を、あの時ほど後悔した事はないです」
枝本は拳を握りしめた。
「俺も、あの時ほど、自分の立場を恨めしく思った事は無い。だからこそ、余計にお前には感謝してるんだ。茂木もだが、あれから二人で理子を守ってくれた。ありがとう。その礼を言いたかったんだ」
「渕田の怪我。あれ、先生なんですね?」
「そうだ。俺がやった。どうしても許せなくてな」
「先生は、どうして知ったんですか?理子から聞いたんですか?理子は、俺が渕田の席を変えるように先生に話すって言った時、凄く怯えて嫌がってましたけど」
「二日も続けて休んだから、変だと思ったんだ。それで、見舞いに行った。その時に彼女の様子がおかしい事と、手首の痣と手の甲の傷を見て、察した。あれは縛られた痕だ。二の腕を掴んだら酷く痛がったから、おかしいと思って見たら、掴まれた指の痕が付いていた。相当、強い力で押さえつけられたんだろう。見ればわかる」
「そうだったんですか.....」
「彼女から、お前が助けてくれたと聞いた時、嬉しかった。よくやってくれたと思った。一方で、助けたのが自分で無かった事が悔しくもあった。もし凌辱されてたら、渕田はあんなんじゃ
済まなかっただろう。俺はこう見えて結構、激情家なんだ。切れたら何をするかわからない」
「それは俺もですよ。あの場で死ぬほど殴ってたでしょうね」
二人は暫く沈黙した。互いに、理子への熱い思いが伝わって来た。
「これからも、彼女の友達でいてやってくれ」
最初に沈黙を破ったのは蒔田だった。
「酷なセリフですね。でも、勿論、そのつもりです」
「彼女にとっては、お前はこれまでも、そしてこれからも特別な相手だ」
蒔田の言葉に枝本は驚いた。
「えっ?それって、どういう意味ですか?」
「お前とは、不完全燃焼だったからなのかなぁ。好きなままで別れてしまったせいか、思いが燻ぶって残ってるみたいだ。それは、お前だって感じてるんじゃないか?」
その言葉には、同意できる部分がある。時々二人で交わす視線に、特別な物を感じる時があった。茂木が、枝本の方が理子に近い気がすると言ったのも、それを感じていたからだろう。
「だけどそれで、先生は平気なんですか?」
「今は平気だ。だが、前は平気じゃなかったな。本人は自覚してないが、彼女は結構人気があるだろう。俺はこれで嫉妬深いんだよ。男の友達が多いんで、随分と気を揉んだ。中でもお前に対しては特別に妬けたな。彼女は一途だから」
「それで、どうして平気になったんです?」
「それは、聞かないでおいた方がいいと思うぞ」
「聞きたいですね、是非」
蒔田は軽く吐息を吐いた。
「俺の方が、彼女にとってはお前よりも特別だとわかったからだ」
蒔田の言葉を聞いても、枝本は無表情だった。
だが、やがて、フッと笑って、「なんだ、そんな事か」と言った。
「先生。そんな事は、俺にはとっくに、わかってましたよ。待ってれば、いつかはまた、俺の所に帰ってきてくれるんじゃないかと微かな期待を持ってはいましたけど、その思いはすぐに打ち砕かれる。それ程まで好きな相手って、どんなヤツなんだろうってずっと思ってました。相手が先生だと知った時には、ノックアウトされた気分でしたね。特に今日、二人に会って、それは確信に変わりました。先生も相当、彼女にやられてるみたいですね」
枝本は微笑んだ。
「そうだな。みんな彼女にやられてる」
蒔田も微笑む。
「じゃぁ、そろそろ戻ろうか」
二人がリビングに戻ると、リビングではみんなでトランプをしていて盛り上がっていた。その輪の中に二人も入る。
楽しい時間が過ぎ、やがて友人達の帰る時間になった。
「また、いつでも遊びに来てくれ。俺は平日は仕事でいないから、遠慮しなくていいぞ」
「えー?旦那さんの留守中に、いいんですかぁ?俺達、男ですよー?」
枝本の言葉に蒔田は笑う。
「お前らならいい。お前らは信用できる。理子が泣くような事は絶対にしないだろう?」
「あーあー、そんな事を言われたら、なーんも悪さできねーよなー」
茂木の言葉に、一同は沸いた。
「じゃぁ、理子ちゃん。またね」
賑やかな一団は、こうして帰って行った。