第95話

文字数 5,908文字

 秋も深まり、やがて十二月に入り、期末テストが始まった。

 蒔田は十一月の半ばから学校へ来るようになり、当初は松葉杖だった通勤も、今ではすっかり元通りになっていた。体型も、元に戻っていた。

 理子は、あれからずっと毎週土曜日に蒔田の家へ通っているが、期末の前の週は避けた。
 蒔田は約束通り、理子の勉強を見るだけだった。
 キスすらしない。まるでただの家庭教師みたいだ。

 だが理子が持参したおやつを食べる時は、病院にいた時のように子供のような可愛い顔をした。
 理子は蒔田の家族の分まで持参し、下のキッチンでみんなで食べた。
 両親も義姉も喜んでくれた。義姉も義母も、料理は得意だがお菓子はあまり作らないと言う。その点では理子と同じだが、矢張り恋人ができると作ってあげたい気持ちが高まる。

「理子ちゃん、どう?勉強の方は?」

 義母に訊かれた。

「そうですねぇ。どうなんでしょう。自分ではよくわからないんですけど。先生、どうですか?」

「俺に振るのか。しょうがないなぁ、自分の事なのに。まぁ、ボチボチなんじゃないの」

「との事です」

 そう言って笑顔になる。

「マーがボチボチって言うなら、大丈夫ね。ところで、悪いこと、されて無い?そっちの方が心配だわ」

 紫がからかうような目つきで弟を見た。

「姉さん、止めてくれよ、そういう事を言うのは。なぁ、理子」

「そうですね。珍しく、とっても真面目ですよ」

「おい。珍しく、ってのは何だよ。誤解を受けるような事は言わないでくれるかな」

「雅臣、女三人相手じゃ、かなわないぞ。諦めろ」

 と、父が言う。
 
「ちぇっ。理子、あんまり調子に乗ると、後が怖いからな。覚えとけよ」

 蒔田が理子を睨んだ。

「あら、何言ってるの。駄目でしょう、そんな風に脅したりしちゃぁ。お母さんは、あなたをそんな風に育てた覚えはないわよ」

 博子が息子を叱りつけた。蒔田は目を丸くして驚いた後、諦めた表情になった。
 その様が可愛くて、理子はクスリと笑った。

 なんだか、蒔田の妹になったような気がした。
 家族の一員として受け入れてくれていると感じて、とても嬉しくなる。

 期末が終わり、東大模試も終わり、A判定だったので、理子は喜びよりも驚きの方が大きかった。
 やっと、ここまで来れたわけだが、自分の事ながら信じられない思いだ。

 センター試験まで約二カ月。油断は禁物だ。これからは体調管理も万全にしないとならないだろう。
 日に日に冷え込んできている。
 風邪をひかないようにしなければ。


 蒔田の方は、期末終了後、精力的に不動産物件を見て回っていた。
 なかなか良い物件が見つからない。一長一短な感じである。
 そんな中、一件、動向を注目している物件がある。新古マンションだ。

 築五年で、十二階建の最上階、東南の角で延床面積も広い。
 その為、価格が高く売れ残っていた物件だ。
 この五年で価格が大分落ちた。それに目を付けた人間が今予約中なのだが、不動産業者によると、この不況で経済状況が思わしくなく、ローンを組めそうにない可能性があり、取り消しになる確率が高そうだと言うのである。

 蒔田としては、できれば二月中に売買契約を終了させて、三月から所有したい。そうすれば、少しずつ荷物も移せるし、家財道具も揃えられる。
 業者が言うには、結果が出るのは年明け早々だろうとの話しだ。銀行の審査待ちなのである。

 業者の方も、ローン審査に時間のかかる相手より、キャッシュで一括払いの蒔田の方が有難い。
 このご時世だ。何より現金の方が確実に回収できる。高額だけに尚更有難い。

 蒔田は取りあえず、今予約中の人間の後に予約を入れた。
 蒔田の感覚からすると、多分、自分の方へ転がるだろうと思われる。
 だが、そうなっても、買い叩くつもりだ。こういう時、一括払いは強い。

 何と言っても、高額過ぎて売れ残った物件だ。
 不景気だけに、これだけの物件は今売らなかったら、更に条件が悪化して損するだけだろう。
 そのまま売れずに残る可能性も高い。蒔田はそういう相手の足もとを見ていた。

 育ちの良い世間知らずのボンボンと思われて、舐められる事が多いが、蒔田は見かけとは裏腹に、とてもしたたかである。
 株取り引きに長けているだけの事はある。常に経済の動向をチェックしているし、頭の回転も速く、洞察力もある。駆け引きも上手い。

 父親が「勿体ない」と評すだけはある。マネーゲームで巨額の富を得られるだけの才能があった。だが蒔田は自分を弁えていた。
 だから決して深入りはしない。

 理子は期末終了後に復活した蒔田家での勉強の時に、蒔田から目ぼしい物件が一つある事を聞いたのだった。
 三月から所有して荷物を少しずつ移したいと聞いて、驚いた。
 確かに夏にその話しは聞いたが、実際にこうして話しが進んでくると、怖気づく。

 蒔田に任せておけば、まず安心だろう。
 だが理子がもし落ちたら、蒔田はそこで一人で暮らすのである。何だか申し訳ない。

「そう思うなら、合格してくれ。って言ったら、一層プレッシャーをかける事になるか.....」

 多分、買う事になるだろうから、決まる前に理子も一度一緒に見て欲しいと言われ、土曜日に一緒に物件を見に行った。

 その物件は、田園都市線の青葉台駅から徒歩約五分の高台に有った。
 五棟のマンションが連立していて、広場や公園もあり、環境が整っていた。
 セキュリティも万全で、昼間は管理人常駐で、夜は管理人の変わりに警備員が詰めている。なんだかリッチな雰囲気だと理子は思った。

 どう見ても高そうだ。
 駅から近くて地の利は良い。だから尚更、高いだろうと思うのだった。

 該当の部屋は東南の角の最上階で、ドアを開けて中へ入って驚いた。
 マンション特有で玄関こそ広くはないものの、目の前の廊下が結構長い。
 廊下の両側にドアが幾つもある。

 左側は一つだが、右側には三つあった。
 左側のドアの先は十一畳の洋室で、右側の手前のドアの方は六畳の部屋だった。その六畳の部屋の先のドアは、手前がトイレで奥が洗面所とバスルーム。
 洗面所とバスルームはマンションにしては広めだった。

 そして廊下の先にあるドアを開けて、更に驚く。
 左側半分がリビングで、物凄く広かった。蒔田に訊いたら、二十八.五畳あると言う。

 廊下から入ってきて、右側にキッチンがあり、横長のシステムキッチンだが、冷蔵庫や食器棚を置いてもスペースに余裕がある感じだ。
 最近の台所は細長くて狭っ苦しいが、それが無い。そのキッチンはオープンカウンターでは無く、シンクの前は壁だった。

 その壁の向こうが主寝室だった。
 廊下のドアを開けると、その入口は真正面にある。十一畳もあり、明るく解放感がある。

 ここの特色は、東と南の全面にバルコニーが付いている事だ。
 特に、リビングと寝室の前の南側のバルコニーは広い。
 延床面積を訊いたら、坪数で換算すると、部屋が約三十九坪、バルコニーは十坪である。ちょっとした一戸建てより広い。

「こんな広い所に、二人で住むんですか?」

 理子が今住んでいる家と、坪数的にはあまり変わらない。

「まぁ、もう少し狭くてもいいんだけど。なかなか思うような物件が無くてさ。ここなら、駅から近いし広くていい。グランドピアノを置くのに困らないし、君と俺の勉強部屋もある」

 どうやら蒔田は気に入っているようだ。

 理子は部屋やバルコニーのあちこちを念入りに見て回った。
 父の仕事の影響か、理子は昔から家が好きで、色々な物件を見ているので、結構な目利きである。

 バルコニーは本当に広い。東側なんて、全壁面なのでかなりの長さだ。
 南側は風通しが良くて、洗濯物もたくさん干せて乾きも良さそうだ。眺望もとても良い。
 十二階とは言え、高台に建っているので、かなり遠くまで見渡せる。ランドマークタワーも霞んで見えた。

 リビングの広さにも圧倒される。今は何も無いから尚更だ。おまけに、隣の家と繋がっているのはエレベーターとエントランスと通路部分だけで、部屋そのものは互いに独立していた。
 だから西側の部屋や浴室、キッチンにも、小窓が付いていて明るいし、互いに生活音などの騒音で悩む必要も無さそうだ。

 この物件は、どう考えても高そうだ。
 父が言うように、分不相応なのではないだろうか。

「どうしたの?」

 理子の厳しい顔を見て、蒔田が訊ねた。

「凄く広いんで、お掃除が大変そうだなって思って」

 理子は別の事を言った。

「確かにな。君も学校生活で時間が無いから、お掃除ロボットを買うよ。そうしたら、家具の掃除だけで済むから、楽だと思うよ」

 呑気そうに蒔田が言った。

「あの、先生?」

「なんだい?」

「あの.....、広い所に住めるのは嬉しいんですけど、ここは幾らなんでもお高いんじゃありませんか?幾ら先生がお金持ちでも、ちょっと.....」

 理子の言葉に、蒔田はフッと笑った。

「お金の事は心配しなくて大丈夫だって言ったろ?確かにここは、最初の売値は馬鹿高い。だが高過ぎて売れ残って、値段はどんどん下落している。それでも不況だから買い手がつかないんだ。このまま放っておいたら、原価割れだろう。だから俺は、相手の言い値では買わないよ。とことん買い叩く。こっちは現金一括だからな。強いんだ。だから理子が思う程、高い金額ではないから、心配しなくていい。こんなチャンスはそうそう無いしな」

「値切るって事ですか?」

「そう言う事。しかも、半端じゃないぞ」

 そう言って笑う笑顔は、小悪魔のようだ。

「こう見えて俺って、買い物する時は、ことごとく値切るんだ」

 そうなのか。それは意外だった。まるで大阪の人間みたいじゃないか。

「意外そうな顔をしているな」

 にんまりとしている。

「はい。とても、そんな風には見えないので。でも、先生の新たな一面を見れて、嬉しいです」

 理子がそう言うと、蒔田は理子を引き寄せて抱きしめた。

「ここで、してく?」

 低くて甘い声で囁いてきた。
 理子は首を振った。
 蒔田は、理子を抱きしめていた腕を解いた。

「そうだよな。何もしないって約束したしな」

 そう言う蒔田の胸に、理子は自分から頭を持たせかけた。

「どうしたの?」

 蒔田は戸惑いながら訊いた。

「退院してから、全然、触れてくれないから、寂しいです。ちょっとは、先生のぬくもりを感じたい」

 理子にそう言われて、蒔田は理子をそっと抱きしめた。
 心は複雑だった。本当は思いきり抱きしめたい。だが、抱きしめたらキスをしたくなる。キスをしたら、止められなくなって、終いには欲しくなってしまう。

 最初は少しだけのつもりでも、どんどん気持ちが高まって、結局最後までいってしまいかねない。だから蒔田は、あえて理子に触れないできたのだった。
 こうして、そっと抱いているだけでも、心も体も猛ってくる。
 衝動が突きあげて来る。それを必死で堪えている事を、理子は知らない。
 蒔田はそっと理子を離すと、その唇に優しく口づけをした。

「さぁ、行こうか」

 そう言って、理子の手を繋いだ。
 理子は黙って蒔田に手を引かれたまま、俯いていた。部屋を出て鍵を閉めると、エレベーターに乗った。
 エレベーターの中でも手を繋いだままだったが、二人とも無言だった。

「理子、今年もクリスマスはうちに来てくれるよな?」

 車に乗って走り出して間もなく、蒔田がやっと言葉を発した。

「行っても、いいんですか?」

「勿論だ。今年は家族も一緒だが、いいだろう?」

「はい。嬉しいです」

 理子はほんのりと頬を染めた。
 今年のクリスマスはどうするのだろう?と、ずっと思っていたのだ。
 受験も押し迫ってきているし。

「理子。この間の模試の結果、良かったな。俺も少しホッとした」

 蒔田の顔は明るかった。

「私は驚きました。勿論、答案はしっかり書けましたけど、普通のテストと違って論文形式だけに、どう評価されるのかは自分ではわからないし」

「俺が見て来たところでは、かなりいい線いってると思う。基礎をしっかり身に付けたのもあるせいか、君は勘がいい。俺が言った事をすぐに吸収してる。教え甲斐のある生徒だな。文系はもう、全く心配いらないと思う。あとは数学だな。数学はとにかく、数をこなすしかない。色んな問題に対応できるようにしておくのがベストだ」

「ここまで来れたのも、先生のお陰です。先生に見て貰ってから、なんだか頭が妙にすっきりした感じと言うか、滞っていた血流がスムーズになったと言うか、そんな感じがするんです」

「そうか。なら、良かった。最初の方で俺は君の足を引っ張ってばかりいたからな。最後に挽回だな」

「ところで先生.....」

「どうした?」

「退院してから、どうして触れてくれなくなったの?さっきは、抱きしめてキスしてくれたけど、ずっと、手すら触れなかったでしょ?我慢しているのはわかりますけど、極端過ぎませんか?」

 蒔田は理子の言葉に、すぐには返事をしなかった。
 暫く沈黙が流れた。

「君はさっき、ちょっとはぬくもりを感じたいって言ったな。こういう時、男と女の違いを痛切に感じるよ。女はただ寄り添ってるだけでも十分なんだろうけど、男はな。触れあったら、どうしても欲しくなってしまうんだ。俺は特に極端なのかもしれないが、こういう抑制された状況だけに尚更強く求めてしまう」

「ごめんなさい。私の我儘でしたね。先生は卒業するまで我慢するっておっしゃってたのに」

 理子は反省した。これまでは、鬱陶しいと思うくらいに求められてきていたから、手すら触れない蒔田を、本当に極端だと思った。
 だが毎週、蒔田の家へ通っていて、互いの息遣いを感じる程に近い距離で勉強を見て貰っているような状況で、どれだけ蒔田が我慢していたのか。
 少し考えればわかる事だった。

「先生、やっぱり私、先生のお宅へ伺わない方が良いのでは?先生だって、我慢するの大変でしょう?」

 蒔田は左手を伸ばしてきて、膝の上にある理子の手を握った。
 理子はドキリとした。

「そんな事を言わないでくれ。学校で他人のような顔をして過ごしてるだけでは辛すぎる。触れなくても、君が俺のすぐそばに居てくれるだけでも幸せなんだ。君と直接言葉を交わせるのは、
うちしか無いじゃないか。それとも君は、もう来るのが嫌になったのか?」

「嫌なわけ、無いじゃないですか。先生がそれで良いのなら、私は構いません」

 理子は切ない気持になった。
 受験なんて、早く終わって欲しい。
 国立は、どうして受験日が遅いのだろう。合格発表は卒業式の後だ。
 晴れ晴れとした気持ちで卒業させて欲しいのに、と思うばかりだった。
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