第100話

文字数 6,820文字

 理子のセンター試験が終わり、東大の出願を済ませた頃、蒔田は不動産業者と例のマンションの購入の為に会った。
 青葉台のマンションは予約者のローンの審査が不備に終わり、蒔田の方へと話しが回って来た
のだった。

 高額なだけに借入金額も高額で、その高額なローンの支払い能力に欠けると銀行が判断したからだった。
 以前だったら審査が通っていただろう。だが不況になってきて、銀行も貸し付けには厳しくなってきている。
 だからこそ、一括で支払う蒔田のような顧客は、業者にとっては有難い。

 蒔田は、三学期に入ってから忙しかった。
 何と言っても三年生の担任だ。受け持ちの生徒全員の進路に対して責任がある。
 蒔田のクラスは全員が進学だった。

 半分は推薦で既に決まっているが、残りはみんな一月中に受験である。
 卒業式の準備もあるので、何か取りこぼしは無いか、うっかり忘れている事は無いかと、神経が休まらない状況だ。
 
 そんな忙しい中、蒔田は例のマンションについて、色々と詳細を調べた。
 土地の入手経路、以前の土地の様子、建ってからの周囲の評判や建物の具合、環境、住民の評判、そして、建設費や売値価格に経常利益、会社の経営状況、あらゆる事を調べあげてから、交渉に入った。

「いや、蒔田さん。その値段は勘弁して下さいよ。私達も慈善事業でやっているわけでは無いので」

 蒔田は相手が提示してきた値段の半額にするように要求した。大胆な値段である。
 蒔田は相手が最初に提示した値段が、若い蒔田を侮って吹っかけた値段だとわかっていた。幾ら未入居の物件だからと言って、築五年で売れ残った物件にしては高い。

「吉住さんからは、知り合いだからサービスしてくれる筈、と伺ってますよ」

「そ、それは、そうなんですが.....」

 業者も、まさか相手が半額の値段を要求してくるとは思っていなかった。
 若さ故の世間知らずだからなのか。それとも苦労知らずのボンボンだからか。
 マンションを一括払いで買うくらいだから、金持ちに違いない。
 しかも相手は若いから、吹っかければ簡単に出すと思ったのだが、甘かったようだ。

 今回の物件は、五棟あるマンションの中で一番立地条件が良い事も有って、最高値の物件だった。他の四棟の同じ場所の部屋は、日中、一時的だが、どれかの棟の影が射したり、眺望に若干難が有ったりと、何かしらの障害がある。

 とは言っても実際に生活する上では問題になるようなレベルではない。だから何の差障りが無い為に高額な部屋より、少しくらい難が有っても安い方が人気があった。
 蒔田の要求通りに半額にしたら、それらの部屋よりもかなりの格安になってしまう。

 業者にとっては好ましく無い。築五年とは言え、あまり価格を下げ過ぎると先に購入した側からクレームが来る恐れがある。
 それに、矢張り少しでも利益を上げたい。

「借りに、僕が今回辞退したら、どうなるんでしょうね、この物件は」

 蒔田は薄笑いを浮かべた。

「じ、辞退って、そんな.....。困りますよ」

「そうでしょうねぇ。幾ら駅に近いからと言って、これだけの広さの物件は、そう売れないでしょう。僕は駅から近ければ、別にここではなくても構わないんですよ。暮らすのは二人ですから、これ程の広さをどうしても必要としているわけではないですしね」

 業者は焦る。前回の予約者はローン審査が通らなかった。その客だって、やっと買う気になった客である。
 この五年、見に来る客は多かったが、誰もその気にならなかったのだ。値段が高いからだ。
 値下げをしても、こじんまりとした手ごろなマンションと比較したら、まだ高いのだ。

 建てた時には、マンションの需要が盛り返してきた頃だったこともあって、概ね売れた。
 このマンションも、最上階東南角の部屋は値段の低い順から売れ、当時三件売れ残った。その後、この物件以外の二件は二年以内に売れた。
 ここだけが残ったのである。今売れなければ、このままずっと売れ残り、どんどん値段が下落していくだろう。

「僕としては、まだ一千万程、安くても良いのではないかと思っているんですよ」

 蒔田の言葉に業者は驚愕した。半額でも破格なのに、更にまだ一千万とは。

「それは、幾らなんでも.....。うちの方が足が出てしまいます」

「そうですか?色々調べさせて貰いましたが、それでも利益はあるんじゃないですか。ですが、ここで売っておかないと、どんどん下落して、赤字になるでしょう。メンテナンスにもお金がかかるでしょうしねぇ」

 そう言って、再び薄笑いを浮かべる。業者は彼の落ち着いた態度と薄笑いに不気味さを感じた。
 どうやら相手は若いのに曲者のようだ。
 一筋縄ではいきそうにない。

 蒔田は用意した資料を業者の前に置いた。それを見て業者は仰天した。
 こちらの事情が全てそこから読み取れる。これだけの事を調査済みとは、よもや思ってもいなかった。

「どうでしょう。リフォーム込みで、半額で」

「リフォームと言いますと、どの程度の?」

 業者は慎重になる。だが、既に蒔田の思うつぼにはまった感が有った。

「まず、壁紙の全面張り替え。それに、全体に、長い間、色んな方々が見学に入ったようですから、細かい傷や汚れもありますよね。それの補習。それと、水回り。最新の物に入れ替えたいですね」

 蒔田はそう言うと、にっこりと笑った。当然やってくれるでしょうね、と言っている顔だ。
 業者は頭の中で計算する。何とか採算は取れそうだ。

「それで、お支払の方は.....」

「契約時に現金で一割、残りは引き渡しの時に、小切手か振り込みで如何ですか」

「わかりました。吉住さんのご紹介でもありますし、それで手を打ちましょう」

 結局、最初の蒔田の言い値で売買が成立したのだった。

 この話しを業者から聞いた吉住宗次は驚いた。
 蒔田が選んだ物件を最初に業者から聞いた時、何て高い買い物をするんだと思った。宗次はその物件を知っている。

 青葉台で分譲住宅を扱った事があり、その関係でそのマンションも知っていたのだ。
 田園都市線で駅から近い物件と聞いてはいたが、まさか、その物件を選ぶとは思っていなかったのだ。

 立地条件は良いが、二人で住むには広すぎるし、値段も高い。分不相応だ。
 だが蓋を開けてみれば、驚く程の破格の値段だ。
 一戸建てと違ってマンションの場合、価格に幅が有る。

 最後に残った一つであるから、当初の値段よりもかなり安くても損をする事はない。だが結果的に長く売れずに残ったら損をする。

「いや~、参りました。あのマンションの様々な事情や会社の経営状況や経常利益など、随分と細かく調査されてましてね。もう、こちらの足元を見透かしてるんですよ。若いのに大した人物です。おまけに、この値段でリフォーム付きですよ。水回りは最新の物に取り換えたいと言われまして」

 宗次は益々感心した。なかなかやり手だ。
 向こうの父親が息子を買っている筈だ。
 人柄に関しては、会った時にわかった。情熱家で誠実で正直者だと思った。

 理子をとても愛していて、大切にしているのが伝わって来た。
 心配していた経済観念に関しても、杞憂だったようだ。
 これなら理子を任せても心配ないだろう。

 窮屈な我が家よりも、彼の懐の方が落ち付けるに違いない。
 宗次は改めてそう思うのだった。

 
 蒔田は契約成立後、まず理子の父に報告の電話を入れた。

「おお~、あちらさんから話しを聞いたよ。君にはしてやられた、って感じだった。なかなか、やり手のようだね」

「いえ。お義父さんのご紹介があったからですよ。そうでなかったら、僕のような若造はまともに相手にされなかったでしょう」

 蒔田は、自分の思うように取引が進んだ事に満足していた。ゆったり構えてはいたが、実は内心では焦っていた。
 もう二月に入る。
 リフォームをする為の工事期間を考えると、さっさと決めておかないと三月までに終わらない。

 遅くとも、合格発表の前に全てを終わらせておきたかった。だが、そういうこちらの思惑を相手に悟られたら、今度はこちらが足元を見られる。少しでも有利に取引を進める為には、演技も必要だ。

 宗次は機嫌が良さそうだ。それを感じて蒔田は安堵した。

「君の経済観念を心配していたんだが、どうやら考え過ぎだったようだ。見直したよ」

「ありがとうございます。お嬢さんには苦労はさせませんから、ご安心ください」

 自信満々にそういう蒔田を、宗次は頼もしく思った。

 宗次への挨拶が済んだ後、今度は理子のスマホに電話をした。

「はい.....」

「俺.....。今、大丈夫かな」

『はい』としか言わなかったので、何か都合でも悪いのかと思った。

「大丈夫です」

 理子の明るい返事が戻って来たので安心した。

「マンションの事なんだけど、決まったよ。来週、契約する」

「そうですか。それは良かった。じゃぁ、あそこに住むんですね」

「そう。俺達二人で」

「..........」

 きっと理子は頬を染めているに違いない、と蒔田は思った。

「それで、水回りを最新の物に替えて貰う事にしたんで、君も一緒に選んでくれないかな。受験中で申し訳無いんだが、二人の事だし、君と一緒に選びたいんだ。どうだろう」

「わかりました」

 こうして二人は次の休みの日に、ショールームへと出かけた。

「受験の合い間に、先生にお逢いできるとは思ってませんでした」

「購入する時にリフォームを条件にするのは決めていたから、俺は想定内。ただ、こうして見に行く時期に関しては、随分と神経を使ったけどな」

 理子の受験になるべく差障りが無い時期と考えた結果だ。まずは、センター試験が終わらない事には、どうにもならない。
 本当なら、結果がわかってからにしたいところなのだが、そうすると工事が間に合わなくなる恐れがあるので、この時期にした。

 ショールームは、なかなか面白い場所だった。色々なタイプが揃っている。それぞれに特色があって、見ていて楽しい。まるで、大人の為の遊園地みたいだ。

「先生、こういう場所がお好きそうですね」

「わかるか?」

「はい。だって、とっても嬉々としてらっしゃるし。でも、気持ちわかります。私も好きだし」

 そう言って笑う理子の目も輝いていた。

 風呂選びが一番興奮した。二人で使い勝手を確かめる。キッチンは、全て理子の好みの物を選ばせた。

 選ぶのに思っていたよりも時間がかかったが、楽しい時間でもあった。
 お互いに、すぐそこまで迫っている新生活の事しか頭になく、受験も学校の事も、全てを忘れていた。

「時間に余裕があったら、インテリア関係も見たいと思ってたんだが、今日は無理みたいだな」

「それは、どうしますか?いつ?」

「いつ?って、呑気そうに聞こえるけど、まさか、いつでも大丈夫、とか言うんじゃないだろうな」

「そう言いたいところですけど、今月中は止めといた方がいいかもしれないですね。試験が終われば、もう、いつでも大丈夫じゃないですか?すぐ卒業式だから、そしたら私、フリーになるし」

 理子はそう言って笑った。

「君はフリーでも、俺は平日は仕事なの」

「そっかぁ.....。じゃぁ、二人で見に行くのは大変ですね。色々揃えないと、困りますよね」

「そうなんだよ。まぁ、必要に応じて買い揃えていけばいいと思うけど、ベッドは、俺の方で勝手に選んじゃっていいかな」

「何か、こだわりでもあるんですか?」

「うん。体デカイから、大きいのが欲しいんだ。キングサイズの」

「ええー?キングサイズ?」

 理子は驚いた。

「だって、今だって一人なのにダブルで寝てるんだ。二人じゃ、ダブルは狭いから嫌だよ」

「最初から、二人で一緒に寝る事しか考えてないみたいですね」

 理子が、恥ずかしそうにしている。

「当たり前じゃないか。君は嫌なのかい?」

「わかりました。先生のお好きにどうぞ」

 蒔田は理子の口調に少し引っかかった。

「なんだよ。不満があるなら、今のうちに言っておいた方がいいぞ。もしかして君は、寝る時は一人で落ち着いて寝たいタイプなのか?」

「人と一緒に同じベッドで寝た事が無いですから、わかりません。不満なんて全く無いです。最初から先生の中では選択肢が他には無いんだな、と思って、少し驚いただけです。でも、ちゃんと私に訊いてくれてるんですから、嬉しいですよ」

「そうか。ならいいよ。ドラマなんかでさ。事が済んだら別々のベッドで寝る夫婦がよく出てくるじゃない。俺、ああいうの嫌なんだよ。愛が感じられないよ、愛が」

 そういう蒔田に、理子はクスっと笑った。

「何故笑う」

「だって、熱弁揮(ふる)ってる姿が可愛くて.....」

「君に可愛いと言われると照れる。俺の方が大人なのに」

 蒔田は憮然とした顔でそう言った。

「いいじゃないですか。誰だって、可愛い瞬間ってあるものじゃないですか?好きな人のそういう姿を見るのって、嬉しいものですけど。先生だって、同じでしょ?」

 そう言って微笑む理子を、蒔田は大人っぽくなってきたと思った。

「そうだな。君は俺なんかより、その可愛い瞬間ってのは、たくさんあるからな。だから俺は君といると、いつも嬉しくて仕方が無い」

 理子は頬を赤らめた。まさに、可愛い瞬間である。
 蒔田は思わず理子の頬にキスをした。そうしたら、一層、理子の顔が赤くなった。

 理子の家の近くまで来て車を止めた時、理子が小さな包み紙をバッグから取り出した。

「ハッピーバースデイ!今日、先生のお誕生ですよね。おめでとうございます」

「えっ?覚えててくれたの?」

 蒔田は驚いた。と言うのも、自分は忘れていたからだ。忙しくてそれどころじゃなかった。

「開けてみて下さい。毎度おなじみな感じで恐縮ですけど」

 そう言って、はにかんでいる理子がとても可愛い。
 蒔田は包みを受け取った。この感触からすると、また手作りの編み物のようだ。胸が高鳴る。
 そっと包みを開けてみると、手袋が出て来た。マフラー、帽子とお揃いである。しかも、しっかり五本指の手袋だ。

「これを、君が編んだの?」

「勿論です。他にいませんよ?」

 理子の顔がちょっとむくれた。

「ごめん.....。手編みの手袋イコール、ミトンタイプって先入観があったから」

 蒔田は手袋を手にはめてみた。ピッタリである。
 蒔田は背が高い分、手も大きく、市販のものだと伸びるとは言え窮屈感が否めない。
 だが、理子の作ってくれた手袋はピッタリとフィットして、気持ち良い。
 蒔田は驚きと感動の目を理子に向けた。

「どうして、こんなにピッタリなんだ?」

 理子はニンマリと笑って言った。

「入院中、先生が眠ってる時にこっそり手を計測させてもらいました。先生の手って大きいでしょ。普通に編んだんじゃ、多分小さくて窮屈だろうと思って」

 その言葉を聞いて、蒔田は理子を抱きしめた。

「ありがとう。凄く嬉しいよ。市販のじゃ窮屈だったんだ。指付きの手袋なんて、編むのに手間暇かかっただろう?大変な時なのに、本当に嬉しいよ」

「私、お金無いし、私が先生にしてあげられる事と言ったら、これくらいしかないから」

「君の真心がこもった手作りの物を身に付けられるのが、俺は嬉しいんだ」

 蒔田は心から感動していた。
 こんな時期に、一番面倒くさい手袋を作るとは。
 指を全部作るのだって面倒だろうに、マフラー、帽子と同じ模様編みだ。

 理子が作ったマフラーと帽子を見て姉の紫が感心していた。
 姉が言うには、とても手の込んだ模様編みらしい。

「喜んで貰えて良かったです。私も、先生が身に付けてくれるから、凄く嬉しいんです」

 蒔田は理子を抱きしめていた手を解くと、理子を見つめた。
 頬がほんのりと赤い。目は潤んでいる。最初に会った時よりも、大人びて来ている。

 理子が目を伏せたので、蒔田は理子の唇にそっと自分の唇を寄せた。理子の唇は柔らかい。その唇に触れていると、気持ちが昂って来る。煽情的な唇だ。だから、長いキスは避けている。
 そっと離して、再び理子を見た。理子はまだ目を伏せたままだ。

「大人っぽくなってきたな、最近.....」

「えっ?そうですか?」

 蒔田の言葉に、理子は目を開いた。

「うん。まぁ、他の女子達も、俺が赴任してきた頃より大人になってきたなぁって感じるけどね」

「あっ、先生、いやらしい。男の目で女生徒を見てる」

「馬鹿、何言ってるんだよ。教師だって男だって諸星先生も言ってただろうが」

「何かと言うと、諸星先生のセリフを引き合いに出しますね」

「あの先生は真実を突いてるからさ」

「ふぅ~ん。じゃぁ、先生も同じ男だったってわけですね」

「もういいよ。君の茶化しには慣れてる。要するに君は、俺の言葉に恥ずかしくなったから、そんな事を言うんだろう?」

「.....」

 理子は赤くなって俯いた。どうやら図星のようだ。

「君は結局のところ、正直者だ」

 蒔田はそう言って、理子のおでこにキスをした。
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