第55話

文字数 4,044文字

 バラ園の翌日、理子は蒔田の部屋にいた。

 バラ園ではあの後、二人は黙ったまま車に乗り込み、蒔田は理子を降ろす間際まで一言も話さなかった。
 理子も蒔田の態度に納得がいかず、ご機嫌取りをするのも嫌で黙ったままだった。
 車内は息詰まるような沈黙にずっと支配されていた。
 理子の家の近くに到着し、車を止めた時にようやく蒔田の口から言葉が漏れた。

「明日、俺のうちに来るんだ。午前十時に迎えに来るから。話しはその時にゆっくりしよう」

 蒔田の言葉に理子はショックを受けた。
 まさか、別れ話でもする気なのか?

 もし、そうだったらどうしよう?
 でも、蒔田を面倒くさい人と思ったではないか。
 いっそ、これを機に別れた方が互いの為なのかもしれない。

 教師と生徒の恋愛なんて、最初から間違っていたのだ。
 まだ子供の理子では、大人と恋愛するのは早過ぎたのかもしれない。

 そんな思いが理子の頭の中を駆け巡る。
 その晩、理子は悶々として眠れなかった。

 翌日、二人は蒔田の部屋で対峙した。
 ガラスのテーブル越しに向き合って座った。
 蒔田は迎えに来た時に挨拶したきりで、今日もずっと無言だ。

 家の中には、昨日聞いていた通り誰もいなかった。
 とても気まずい空気が流れているように感じる。
 息が詰まりそうだ。
 ここまで連れて来ておきながら、なぜ何も言わないのだろう。

「先生.....」

 理子は耐えられなくなった。
 蒔田は理子の呼びかけに、片方の眉毛を上げて理子を見た。

「先生、どうして何もおっしゃらないんですか?」

「うん.....、すまない。何をどう話したらいいのか、自分でも わからないんだ」

 蒔田は憮然としている。

「話しがあるから、私を今日呼んだんじゃないんですか?」

「そうなんだが、何だか胸の中がもやもやして、うまい言葉が見つからない.....」

「じゃぁ、先生。私が話しの口火を切ってもいいですか?先生のもやもやに火を点ける事になるかもしれませんけど」

 そう言う理子に蒔田は鋭い視線を向けた。

「お前は、敢えて火を点けるかもしれない事をしようと言うのか」

「だって、この状態に耐えられません。結果がどう転ぶかはわかりません。でも、もやもやしたままでいたくはないです」

 理子は真剣な眼差しで蒔田を見つめた。
 それを受けて、蒔田の方から話しだした。

「俺が一番気にかかるのは、石坂先生の事だ。昨日、お前が石坂先生にした返答を聞いた時、お前の中に危うい物を感じたんだ」

「危うい物?」

 理子は自分の心が少し揺れたのを感じた。

「そうだ。はっきり断らなかった事に、お前の心を垣間見た気がした。俺は、それが溜まらなくなってしまった。だから昨日はあんな終わり方になってしまったんだ。その事に関しては済まなかったと思っている」

 理子の胸が痛んだ。矢張りこの人は敏感だ。

「理子、一つだけ、確認させてくれ」

「なんでしょう?」

「俺を愛しているか?」

 切ない表情だった。大人の男性が十七歳の少女にするような表情じゃない。
 この人は今、とても不安な気持ちでいるんだと理子は思った。

 いつも自信に満ちている人なのに。

「愛してます。その気持ちは微塵も変わっていません」

 理子は蒔田の目を見てきっぱりと言った。
 それを聞いて、蒔田は安心した顔をした。

「わかった。それじゃぁ、聞かせて貰うが、理子は石坂先生にも少なからず思いを寄せているんじゃないのか」

 理子は黙って蒔田を見つめた。暫く考える。そして答えた。

「惹かれるものはあります。私、大人の男性に惹かれるみたいです。石坂先生は、きっと私が何を言っても、怒らずに優しく受け入れてくれるだろうって思うと、とても頼りたくなってしまうんです。.....私、怒りっぽい人は苦手です。もう、母で懲り懲りなんです。昨日の帰り、独占欲が強くて勝気で怒りっぽい所が、先生と母はとても似てるって思いました。何かって言うとすぐに怒られるのはウンザリなんです。私は穏やかな場所に居たいんです」

 理子は自分の思いをストレートに言葉に出していた。
 そこまで言うつもりは無かったのに。

 蒔田の方は返す言葉が無かった。
 それが理子の本音なのか、と思うと悲しくなった。

「先生、ごめんなさい。怒らないで聞いてください。私、先生を怒らせたくて言ってるんじゃないんです。傷つけるつもりもないです。私の方こそ感情的になってますよね。でも私、先生にはわかって欲しいんです。怒られるのが嫌いだら、怒られたくない。そうなると、怒られないで済むように振る舞うようになってしまいます。そこに、嘘が生じてしまいます。怒られると思ったら、本当の自分を見せられなくなる。私は母に怒られ続けて来たことで、母に対して本当の事を言わなくなりました。相談もしません。そして、顔色を窺って生活してます。そんな生活が嫌だし、そんな自分自身も嫌なんです。だから、先生の前では正直でいたいんです」

 理子は自分の思いが通じるよう、願いを込めて訴えた。

「理子.....。ごめん。いつだって悪いのは俺なんだよな。俺が嫉妬深いせいなんだろうな」

 蒔田が肩を落としてそう言った。

「先生、どうしてそんなに怒りっぽいの?愛してくれているのは十分わかってます。だけど私、時々息苦しくなる.....。押しつぶされそうになります。先生が怒るたびに、私傷つくんです。心が委縮しちゃいます。だって先生、極端なんだもの。だから先生が怒るたびに、もう嫌われてしまったのかもと思って、悲しくなるし辛いんです」

 理子は涙が出そうになるのを我慢した。

「すまない。どうも性分みたいなんだ。自分でもどうしょうもないんだよ。だが、怒ったからと言って、お前を嫌いになんかならない。愛は変わらない。それだけは信じてくれないか」

「.....わかりました。先生の愛が変わらないのなら、これから先、何があっても先生を信じ続けます。いいですよね?」

「勿論だ」

 蒔田はどこか不安そうな顔をしている。

「じゃぁ、あえてここで石坂先生の話をしたいと思います」

「えっ?」

 蒔田からは、いつものようなツッコみも嫉妬めいた言葉もなく、一体何を話すんだ?と問うような表情が浮かんできた。

「私、職員室にいる時に、視界が広いせいか先生の姿が入ってきてしまって、極力気にしないようにしてるんですけど、それでも気になっちゃうんです。でもポーカーフェイスは常に保っているし、凝視どころかチラ見すらしてないのに、石坂先生に気づかれたんですよ」

 蒔田は驚いた顔をして理子を見た。

「勉強に集中しきれていなかったからなんでしょうね。でも、蒔田先生を気にしている、と指摘された時には、心臓が止まるほどドキリとしました。私はいつも細心の注意を払っているので、気付かれた事に疑問を持ちました。石坂先生は、私が見ていないふりをして、実は見ているのではないかと感じるとおっしゃるんです。確証はないけれども、自分の勘なんだって。だから私は、何故そう思うのか石坂先生に伺ったんです。そうしたら、『僕も君の事を気にしているからかもしれない』っておっしゃられたので、余計に驚きました」

 蒔田が信じられない事を聞いたような、驚いた顔をした。

「石坂先生が、そんな事を言ったのか」

「はい」

「俺は、前々から、石坂先生は怪しいと思っていた。だがまさか、そうストレートに理子に言うとは思ってなかった」

「私もとても驚きました。何と答えたらいいのか分からなかったです。だけど」

「だけど?」

「私色々と突っ込んで聞いちゃったんです。これまで多くの女生徒と関わってきて、惹かれる事とかないのか、とか」

「お前なぁ.....」

 蒔田は呆れたように溜息をついた。

「すみません。好奇心が旺盛なもので。そうしたら、石坂先生は、そういう事もあるとおっしゃいました。でも、結婚してるから、それ以上の事は無いっておっしゃったんですけど、これから先の事はわからないって。全てをかなぐり捨ててもいい程の恋をしないとは言えないって」

「そうか.....。意味深だな」

 蒔田の目つきが険しくなった。

「その時に、諸星先生が登場して『職員室で女生徒を口説いちゃいけないよ』って」

「諸星先生が?」

 突然の諸星の登場に蒔田も驚いたようだ。

「諸星先生、石坂先生の斜め前の席なんですよ。いつからそこにいらしたのか気付かなかったんですけど、私も突然、諸星先生が間に入って来たので驚きました。でも、核心を突いてるんですよ。雰囲気が怪しいって」

「あの先生は、凄く頭のいい人だ。若い俺が言うのもなんだけどな。懐の深い人だよ」

「私もそう思います。諸星先生が、恋愛問題なら自分に相談しろって。ジジイだから安心だって言うんですよ。おまけに、石坂先生は人畜無害の聖人君子みたいな顔をしてるけど、まだ不惑だから危険だって」

「はっはっは、そんな事を言ったのか。本人の前だよな?」

「そうなんです。石坂先生は溜息吐いてました。でもって更に、教師であろうが、男子生徒であろうが、男には変わりない。男はみんな狼だから用心に越した事はないって」

「へぇー、そんな事を」

「だから私、思わず突っ込んじゃいましたよ。ジジイもですか?って」

「そしたら?」

「ジジイもだ、って」

 蒔田は大笑した。腹を抱えて笑っている。

「はっはっは.....、いやぁ~、いいそれ。俺、好きだなぁ、諸星先生」

「おまけに、自分も若い時は蒔田先生ばりのイケメンだったんだぞって。石坂先生も蒔田先生も、年を取れば俺みたいになるんだっておっしゃって、石坂先生はもう閉口って感じだったんです」

「それはいい。本当に諸星先生にはかなわないな」

 蒔田は明るい顔をしている。満面に笑みを浮かべて楽しそうだ。
 いつものクールな雰囲気とは全く違い、頬にエクボを作り、八重歯を見せて、気さくな雰囲気だ。
 この顔に再び翳を射すような事を私は言うのか。
 敢えて言う必要もないのではないか。
 話しはここで終わらせても、何の問題も無い筈だ。 

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