第51話
文字数 5,470文字
理子の質問に石坂は笑って答えた。
「どうしてなんだろうねぇ。決め手は無いんだ。長年の勘、かな。僕も君の事を気にしているからかもしれないね」
理子はこの瞬間、自分の視界から蒔田をシャットアウトした。
これからは職員室へ来ても、一切蒔田の事は気にしない事に決めた。
「これまで多くの女生徒と出会ってきたけど、色んなタイプがいる。最初から大人っぽい子もいれば、卒業するまで子供っぽい子もいるし、最初から最後まで色気が全くない子もいる。最初は地味で目立たなかったのに、ある時いきなり開花しちゃう子もいるし、徐々に花が開くように成長する子もいる。実に様々で、その子供たちの過程を見せて貰えるのは、ある意味役得のように思っているんだよ。十年以上もこの職業をやっていると、若い子と毎日触れ合っているせいか自分の気持ちも妙に若いと言うか、成長しきれない部分があって、自分よりもかなり年下でも惹かれる事もあるんだ」
石坂の言いたい事がわからない。
言っている意味はわかるが、核心部分がわからない。
「先生は、例えば、その惹かれている相手から求愛されたらどうします?受け入れるんですか?これまで、そんな事がありました?」
理子は敢えて思い切って切り込んだ質問をしてみた。
その質問に、石坂は眉根を寄せた。
「うーん、職員室でする内容じゃ、無くなってきちゃったねぇ」
理子は黙って石坂を見つめた。
この人の意図は一体何なんだろう。
「僕は結婚してるから、求愛されれば嬉しくはあるけれど、受け入れるのは無理かなぁ」
「じゃあ、自分の方から相手に告白するなんて事は、あり得ないんですね?」
「そうだね。でも、先の事はわからないよ」
「それはどういう意味ですか?」
石坂は腕を組んで体ごと理子の方を向いた。
「これまでは、あり得なかった。常識の方が気持ちを上回っていたからね。でも、恋とはそういうものじゃぁ無いでしょう。常識で測れないのが恋だ。教師という立場も、夫と言う立場も、全てかなぐり捨ててもいい程の恋をしないとは限らない」
「数学の先生でも、そんな感情論を語られるんですね」
「それはそうだよ。人間なんだから。それに、男でもある」
そう言う石坂は、妙に男臭かった。
「おいおい、石坂先生、職員室で女生徒を口説いちゃいかんよ」
急に斜め向かいの席から声がかかった。見上げると諸星教諭だった。
いつからいたのだろう。話しに夢中になり過ぎていたのか気づかなかった。
「諸星先生、人聞きの悪い事は言わないで下さいよ」
石坂が困ったような笑みを浮かべた。
「いやいや、君には奥さんと言う前歴があるだろう」
「それを言うなら、諸星先生こそ、でしょう。僕は卒業後だし、口説いたのは職員室じゃあ、ありませんよ」
「はっはっは!まぁな。でも、今はちょっと怪しい雰囲気だったぞ。理子も、そういう恋愛問題に関しては、俺に相談することだ。俺なら安心だぞ。もうジジイだからな。石坂先生は、人畜無害な聖人君子のような風貌だが、まだ不惑だ。今の不惑は惑いばかりだからな。危険だぞ」
現国の諸星は、とても豪快であけすけで気さくな教師だった。
定年間近で頭の天辺が少々寂しい。
大きな二重の目で、でっぷりとしていてブルドッグを連想させる。
ユーモアに溢れていて楽しい教師だが、溢れすぎていてどこまで本当なのかわからない部分もある。
石坂は溜息をついて、諸星先生には敵わないって顔をして見せた。
確かに雰囲気が怪しくなってきていたので、理子にとっては諸星の登場に助けられたような気がした。
「じゃあ、諸星先生にお伺いしますけど、先生は長年教職にあって、奥さん以外で女生徒に惹かれたりとか、そういうのは無かったですか?」
諸星は嬉しそうな笑顔になった。
「おおっ!よくぞ聞いてくれた。そんなのはなぁ。山ほどある。数えきれないくらいだ」
豪快に笑い飛ばす。
この先生には聞くだけ無駄だったかもしれないと思う。
「理子は、そんな事を石坂先生に聞いていたのか。そういう話しは数学教師に聞いては駄目だ。数学者は常識的で一本気だから。オールオアナッシングだ。男女の複雑な心の機微までは語れない」
成る程、伊達 に年を食ってはいないようだ。
「だがなぁ理子。覚えとけよ。教師だって男だ。ついでに男子どもも当たり前だが男だぞ。男はみんな狼だからな。用心に越したことは無い」
「ジジイもですか?」
あえて、ちょっと突っ込んでみた。
「ジジイもだ」
当然のように言って、また豪快に笑った。
「この俺もなぁ。若い時は蒔田先生ばりのイケメンで、ものすごーく、モテたんだぞ。泣かせた女は数知らず」
相手が知らないのをいい事に、何て事を言うのだろう。
まさに大言壮語だ。
とても信じられそうにない。
「先生、それはちょっと無理があるような.....」
「信じてないなぁ?今度、昔の写真を見せてやる。驚くぞ。それに年よりを馬鹿にするが、そこの石坂先生だって蒔田先生だって、年を取れば同じようになるんだぞ」
想像できない。年は取っても、同じようになるかどうかは疑問だ。
丁度いいところでチャイムが鳴ったので、理子はそそくさと引き上げた。
結局、石坂先生の本意はどこに有ったのだろうと理子は考えた。
あの先生は、自分と蒔田との関係を薄々気づいているのだろうか?
それとも、相互の関係ではなく理子のみの気持ちに気づいているのか.....。
『僕も君の事を気にしている』と言っていた。『僕も』の“も”が気になる。
教室へ帰ると、「おかえりー」と岩崎が出迎えてくれた。
その笑顔を見てホッとした理子だった。
毎日学校で蒔田の顔を見れると言っても、盗み見るようにしているので、満足に見れたためしがない。
理子は蒔田の写真すら持っていなかった。
年度初めに撮るクラス写真はあるが、小さいのが不満だ。
本当は一枚くらい、ちゃんとした写真が欲しかったが、万一の事を考えると持てない。
せめて写真があれば、勉強の合間に見て力が湧くのにと思う。
新年度になってから、学校生活においては今ひとつ充実感が無かった。
親しい友人達と違うクラスになり、休み時間のやり取りが激減した。
元々休み時間は本を読んでいる事の方が多い理子だったが、それでも去年は耕介を始めとして周囲が賑やかで楽しかった。
だからと言って、今更、友人作りに時間を割く気にもなれない。
クラスメイト達の様子を窺うと、去年よりは緊張感があるものの、それでもまだまだ呑気な雰囲気だ。進学校ではないからだ。
ゆきが理子の教室まで訪ねて来た。
「あれ?どうしたの?」
教室まで訪ねてくるのは珍しい。
三年になってからは、部活で会う以外では、メールやLINEが中心だ。
どことなく様子がおかしいように見受けられた。
「理子ちゃん、ちょっと話したい事があるの。昼休み、いいかな?」
「勿論」
「良かった」
ゆきはそう言うと、長居をせずに去って行った。
「最上さん、何か深刻そうじゃなかった?」
渕田が後ろから声を掛けて来た。
ゆきも一年の時に渕田と同じクラスだったから知っている。
理子は渕田の問いかけに答えなかった。親しくもない渕田にあれこれ話す必要はない。
だが、渕田から見ても様子がおかしかったわけだから、何かあったに違いない。
一体、何があったのだろう。とても気になった。
矢張り、小泉との事か。
昼休み、食事が終わった頃にゆきがやって来た。二人は連れ立って非常口から外へ出た。
いい陽気で風が心地良い。中庭に面した場所にあるベンチに座った。
「ごめんね。勉強の邪魔しちゃってるよね」
沈んだ様子だ。
「ううん。そんな事より、どうしたの?何かあった?」
「小泉君と、最近うまくいってなくて」
矢張りその事か。
「うまくいってないって、どういう事?」
ゆきは力なく話しだした。
春休み前までは毎週会っていたのに、春休みに入ると、勉強に集中したいからと小泉に言われて、春休み中一度だけ映画を観に行っただけだった。
新学期が始まってからは歴研の部活の日に一緒に帰るだけで、週末も全く会ってないと言う。
ゴールデンウィーク中も中間を控えているから会うのはよそうと言われたそうだ。
ゆきは、最後には泣きだした。
「ねぇ、理子ちゃんはどう思う?」
「どう思うと言われても.....」
何と答えたら良いのかわからなかった。
自分も小泉と同じような立場にある。
受験がいよいよ迫ってきて、気持ちに余裕が無くなってきているのだろう。
きっと集中したいに違いない。だが、同じ立場ではない恋人にとっては、辛い事でもある。
「ゆきちゃんは、どう思ってるの?どうしたいの?」
「あたしは、何だか不安で.....。小泉君が勉強に集中したい気持ちはわかるんだけど、ずっと毎週会っていたのが急に会わなくなって、極端って言うか、平気でいられるのが不思議で.....。それって、気持ちも薄れたからなんじゃないかって思えちゃって」
ゆきは、これまでのように毎週会うのが無理なのはわかるから、二、三週間か、せめて月一でもいいから二人きりで会いたいと言った。
そうでないと、不安でたまらないとも。
理子は溜息を吐いた。
会いたい気持ちで一杯なのは理子も同じだ。
だから、ゆきの気持ちは痛い程わかる。理子は蒔田を全面的に信じているから不安になることは無い。
だが、ずっと会えないでいるのは寂しかった。
そうは言っても会う頻度が高い程、勉強に集中できなくなる事もわかっている。だから極力会わないようにしているのだった。
その事で、相手にも寂しい思いを強要している事もわかっている。
お互いの為にも妥協点は必要だ。相手を大切に思うのならば。
「ゆきちゃんの、その気持ちを小泉君には言ったの?」
理子は極力優しく、ゆきに問いかけた。
「うん。一緒に帰った時に。でも小泉君は、『ごめん。わかって欲しい』って言うだけで.....」
「そっか。なら、わかってあげるしか無いんじゃない?好きならば」
「小泉君は、あたしのことが、あまり好きでなくなってきちゃったんじゃないのかな?」
「私には小泉君の本当の気持ちはわからないけど、勉強に集中したい気持ちならわかるよ」
「理子ちゃんも同じなの?勉強に集中する為に会わないでいるの?」
「うん。私達は既に大分前から、たまにしか会ってないし」
ゆきは目を剥いた。
「それで平気なの?」
「平気なわけないじゃない。相手から非難されたりもしたし。でも、会うと平静ではいられないから。元の自分を取り戻すのに時間がかかっちゃうの。そういう事を頻繁に繰り返していたら、
勉強できるわけないよね?」
「それはわかるけど、でも、あたしは寂しい.....」
ゆきは俯いてそう言った。瞳には変わらずに涙が溜まっている。
「今の寂しさに負けて受験を捨てるのか、それとも我慢して乗り越えるのか」
「理子ちゃんの言う事は凄くわかる。だけど、それにしても、会わなさすぎじゃないのかな。なんだか、このままずっと会えなくなっちゃうような気がして.....」
「会えない、会えないって言うけど、部活のある日は一緒に帰ってるじゃない。私なんて、それすら無いのに」
つい、口調がきつくなってしまった。
自分の方がゆき達よりも全然一緒に過ごせないでいると言うのに、この程度で悲観的になっている事に少々腹が立ってしまった。
ストレスが溜まっているのだろうか。
これまでは、二,三カ月会えなくても大丈夫だったのに。
これで会ったら、なし崩しのようにならないか、不安になってきた。
自分を保ちきれるだろうか。
「理子ちゃん、ごめん。理子ちゃんの気持ちも考えないで」
ゆきが、しょんぼりと言った。その様子を見て理子は反省した。
「ううん。私の方こそごめんね。ゆきちゃんの気持ちも凄くわかるんだ。でも私自身も、会いたい気持ちと会わない方がいいと思う気持ちの間で、しょっちゅう揺れてるから」
理子はそう言うと、ゆきの手を取った。
「たださ。辛い思いをしてるのは、ゆきちゃんだけじゃないと思うよ。小泉君だって、我慢してるんじゃない?それに、ゆきちゃんに対しても済まない気持ちを持ってると思う。だから、ゆきちゃんはもう少し小泉君を信じてあげるべきだと思う。たまには会いたいなって気持ちを伝えるのはいいと思うけど、しつこくならないように注意してさ」
ゆきは切なげな表情で理子を見た。
「理子ちゃん、ありがとう。あたし、なるべく我慢する。でも、やっぱり不安なの。理子ちゃんの言う事は凄くわかるし、小泉君が大変なのもわかるの。ただ、何ていうか、気持ちの変化をどうしても感じてしまうって言うか.....」
そう言って、ゆきは目を逸らせた。
気持ちの変化。それだけは、理子にはわからない。
肉体的に結ばれて、毎週のように体を重ねている関係だから、敏感に感じるものがあるのかもしれない。
しかも今は小泉ともクラスが別であまり会わないから余計だ。
「そういう事は、私にもわからないかな。私がゆきちゃんだったとしても、やっぱりどうしたらいいのかわからなくて悩むと思う」
理子は、枝本に相談してみてはどうかと提案した。
小泉の事だから、自分の事は何も話してはいないと思うが、同じ男として、少しは小泉の気持ちがわかるのではないだろうか。
「そうだね。そうしてみるね」
ゆきは涙を拭った。
難しい時期だ。しかも、これから益々状況は厳しくなっていく。
来年の三月まで、持ちこたえられるのだろうか。
「どうしてなんだろうねぇ。決め手は無いんだ。長年の勘、かな。僕も君の事を気にしているからかもしれないね」
理子はこの瞬間、自分の視界から蒔田をシャットアウトした。
これからは職員室へ来ても、一切蒔田の事は気にしない事に決めた。
「これまで多くの女生徒と出会ってきたけど、色んなタイプがいる。最初から大人っぽい子もいれば、卒業するまで子供っぽい子もいるし、最初から最後まで色気が全くない子もいる。最初は地味で目立たなかったのに、ある時いきなり開花しちゃう子もいるし、徐々に花が開くように成長する子もいる。実に様々で、その子供たちの過程を見せて貰えるのは、ある意味役得のように思っているんだよ。十年以上もこの職業をやっていると、若い子と毎日触れ合っているせいか自分の気持ちも妙に若いと言うか、成長しきれない部分があって、自分よりもかなり年下でも惹かれる事もあるんだ」
石坂の言いたい事がわからない。
言っている意味はわかるが、核心部分がわからない。
「先生は、例えば、その惹かれている相手から求愛されたらどうします?受け入れるんですか?これまで、そんな事がありました?」
理子は敢えて思い切って切り込んだ質問をしてみた。
その質問に、石坂は眉根を寄せた。
「うーん、職員室でする内容じゃ、無くなってきちゃったねぇ」
理子は黙って石坂を見つめた。
この人の意図は一体何なんだろう。
「僕は結婚してるから、求愛されれば嬉しくはあるけれど、受け入れるのは無理かなぁ」
「じゃあ、自分の方から相手に告白するなんて事は、あり得ないんですね?」
「そうだね。でも、先の事はわからないよ」
「それはどういう意味ですか?」
石坂は腕を組んで体ごと理子の方を向いた。
「これまでは、あり得なかった。常識の方が気持ちを上回っていたからね。でも、恋とはそういうものじゃぁ無いでしょう。常識で測れないのが恋だ。教師という立場も、夫と言う立場も、全てかなぐり捨ててもいい程の恋をしないとは限らない」
「数学の先生でも、そんな感情論を語られるんですね」
「それはそうだよ。人間なんだから。それに、男でもある」
そう言う石坂は、妙に男臭かった。
「おいおい、石坂先生、職員室で女生徒を口説いちゃいかんよ」
急に斜め向かいの席から声がかかった。見上げると諸星教諭だった。
いつからいたのだろう。話しに夢中になり過ぎていたのか気づかなかった。
「諸星先生、人聞きの悪い事は言わないで下さいよ」
石坂が困ったような笑みを浮かべた。
「いやいや、君には奥さんと言う前歴があるだろう」
「それを言うなら、諸星先生こそ、でしょう。僕は卒業後だし、口説いたのは職員室じゃあ、ありませんよ」
「はっはっは!まぁな。でも、今はちょっと怪しい雰囲気だったぞ。理子も、そういう恋愛問題に関しては、俺に相談することだ。俺なら安心だぞ。もうジジイだからな。石坂先生は、人畜無害な聖人君子のような風貌だが、まだ不惑だ。今の不惑は惑いばかりだからな。危険だぞ」
現国の諸星は、とても豪快であけすけで気さくな教師だった。
定年間近で頭の天辺が少々寂しい。
大きな二重の目で、でっぷりとしていてブルドッグを連想させる。
ユーモアに溢れていて楽しい教師だが、溢れすぎていてどこまで本当なのかわからない部分もある。
石坂は溜息をついて、諸星先生には敵わないって顔をして見せた。
確かに雰囲気が怪しくなってきていたので、理子にとっては諸星の登場に助けられたような気がした。
「じゃあ、諸星先生にお伺いしますけど、先生は長年教職にあって、奥さん以外で女生徒に惹かれたりとか、そういうのは無かったですか?」
諸星は嬉しそうな笑顔になった。
「おおっ!よくぞ聞いてくれた。そんなのはなぁ。山ほどある。数えきれないくらいだ」
豪快に笑い飛ばす。
この先生には聞くだけ無駄だったかもしれないと思う。
「理子は、そんな事を石坂先生に聞いていたのか。そういう話しは数学教師に聞いては駄目だ。数学者は常識的で一本気だから。オールオアナッシングだ。男女の複雑な心の機微までは語れない」
成る程、
「だがなぁ理子。覚えとけよ。教師だって男だ。ついでに男子どもも当たり前だが男だぞ。男はみんな狼だからな。用心に越したことは無い」
「ジジイもですか?」
あえて、ちょっと突っ込んでみた。
「ジジイもだ」
当然のように言って、また豪快に笑った。
「この俺もなぁ。若い時は蒔田先生ばりのイケメンで、ものすごーく、モテたんだぞ。泣かせた女は数知らず」
相手が知らないのをいい事に、何て事を言うのだろう。
まさに大言壮語だ。
とても信じられそうにない。
「先生、それはちょっと無理があるような.....」
「信じてないなぁ?今度、昔の写真を見せてやる。驚くぞ。それに年よりを馬鹿にするが、そこの石坂先生だって蒔田先生だって、年を取れば同じようになるんだぞ」
想像できない。年は取っても、同じようになるかどうかは疑問だ。
丁度いいところでチャイムが鳴ったので、理子はそそくさと引き上げた。
結局、石坂先生の本意はどこに有ったのだろうと理子は考えた。
あの先生は、自分と蒔田との関係を薄々気づいているのだろうか?
それとも、相互の関係ではなく理子のみの気持ちに気づいているのか.....。
『僕も君の事を気にしている』と言っていた。『僕も』の“も”が気になる。
教室へ帰ると、「おかえりー」と岩崎が出迎えてくれた。
その笑顔を見てホッとした理子だった。
毎日学校で蒔田の顔を見れると言っても、盗み見るようにしているので、満足に見れたためしがない。
理子は蒔田の写真すら持っていなかった。
年度初めに撮るクラス写真はあるが、小さいのが不満だ。
本当は一枚くらい、ちゃんとした写真が欲しかったが、万一の事を考えると持てない。
せめて写真があれば、勉強の合間に見て力が湧くのにと思う。
新年度になってから、学校生活においては今ひとつ充実感が無かった。
親しい友人達と違うクラスになり、休み時間のやり取りが激減した。
元々休み時間は本を読んでいる事の方が多い理子だったが、それでも去年は耕介を始めとして周囲が賑やかで楽しかった。
だからと言って、今更、友人作りに時間を割く気にもなれない。
クラスメイト達の様子を窺うと、去年よりは緊張感があるものの、それでもまだまだ呑気な雰囲気だ。進学校ではないからだ。
ゆきが理子の教室まで訪ねて来た。
「あれ?どうしたの?」
教室まで訪ねてくるのは珍しい。
三年になってからは、部活で会う以外では、メールやLINEが中心だ。
どことなく様子がおかしいように見受けられた。
「理子ちゃん、ちょっと話したい事があるの。昼休み、いいかな?」
「勿論」
「良かった」
ゆきはそう言うと、長居をせずに去って行った。
「最上さん、何か深刻そうじゃなかった?」
渕田が後ろから声を掛けて来た。
ゆきも一年の時に渕田と同じクラスだったから知っている。
理子は渕田の問いかけに答えなかった。親しくもない渕田にあれこれ話す必要はない。
だが、渕田から見ても様子がおかしかったわけだから、何かあったに違いない。
一体、何があったのだろう。とても気になった。
矢張り、小泉との事か。
昼休み、食事が終わった頃にゆきがやって来た。二人は連れ立って非常口から外へ出た。
いい陽気で風が心地良い。中庭に面した場所にあるベンチに座った。
「ごめんね。勉強の邪魔しちゃってるよね」
沈んだ様子だ。
「ううん。そんな事より、どうしたの?何かあった?」
「小泉君と、最近うまくいってなくて」
矢張りその事か。
「うまくいってないって、どういう事?」
ゆきは力なく話しだした。
春休み前までは毎週会っていたのに、春休みに入ると、勉強に集中したいからと小泉に言われて、春休み中一度だけ映画を観に行っただけだった。
新学期が始まってからは歴研の部活の日に一緒に帰るだけで、週末も全く会ってないと言う。
ゴールデンウィーク中も中間を控えているから会うのはよそうと言われたそうだ。
ゆきは、最後には泣きだした。
「ねぇ、理子ちゃんはどう思う?」
「どう思うと言われても.....」
何と答えたら良いのかわからなかった。
自分も小泉と同じような立場にある。
受験がいよいよ迫ってきて、気持ちに余裕が無くなってきているのだろう。
きっと集中したいに違いない。だが、同じ立場ではない恋人にとっては、辛い事でもある。
「ゆきちゃんは、どう思ってるの?どうしたいの?」
「あたしは、何だか不安で.....。小泉君が勉強に集中したい気持ちはわかるんだけど、ずっと毎週会っていたのが急に会わなくなって、極端って言うか、平気でいられるのが不思議で.....。それって、気持ちも薄れたからなんじゃないかって思えちゃって」
ゆきは、これまでのように毎週会うのが無理なのはわかるから、二、三週間か、せめて月一でもいいから二人きりで会いたいと言った。
そうでないと、不安でたまらないとも。
理子は溜息を吐いた。
会いたい気持ちで一杯なのは理子も同じだ。
だから、ゆきの気持ちは痛い程わかる。理子は蒔田を全面的に信じているから不安になることは無い。
だが、ずっと会えないでいるのは寂しかった。
そうは言っても会う頻度が高い程、勉強に集中できなくなる事もわかっている。だから極力会わないようにしているのだった。
その事で、相手にも寂しい思いを強要している事もわかっている。
お互いの為にも妥協点は必要だ。相手を大切に思うのならば。
「ゆきちゃんの、その気持ちを小泉君には言ったの?」
理子は極力優しく、ゆきに問いかけた。
「うん。一緒に帰った時に。でも小泉君は、『ごめん。わかって欲しい』って言うだけで.....」
「そっか。なら、わかってあげるしか無いんじゃない?好きならば」
「小泉君は、あたしのことが、あまり好きでなくなってきちゃったんじゃないのかな?」
「私には小泉君の本当の気持ちはわからないけど、勉強に集中したい気持ちならわかるよ」
「理子ちゃんも同じなの?勉強に集中する為に会わないでいるの?」
「うん。私達は既に大分前から、たまにしか会ってないし」
ゆきは目を剥いた。
「それで平気なの?」
「平気なわけないじゃない。相手から非難されたりもしたし。でも、会うと平静ではいられないから。元の自分を取り戻すのに時間がかかっちゃうの。そういう事を頻繁に繰り返していたら、
勉強できるわけないよね?」
「それはわかるけど、でも、あたしは寂しい.....」
ゆきは俯いてそう言った。瞳には変わらずに涙が溜まっている。
「今の寂しさに負けて受験を捨てるのか、それとも我慢して乗り越えるのか」
「理子ちゃんの言う事は凄くわかる。だけど、それにしても、会わなさすぎじゃないのかな。なんだか、このままずっと会えなくなっちゃうような気がして.....」
「会えない、会えないって言うけど、部活のある日は一緒に帰ってるじゃない。私なんて、それすら無いのに」
つい、口調がきつくなってしまった。
自分の方がゆき達よりも全然一緒に過ごせないでいると言うのに、この程度で悲観的になっている事に少々腹が立ってしまった。
ストレスが溜まっているのだろうか。
これまでは、二,三カ月会えなくても大丈夫だったのに。
これで会ったら、なし崩しのようにならないか、不安になってきた。
自分を保ちきれるだろうか。
「理子ちゃん、ごめん。理子ちゃんの気持ちも考えないで」
ゆきが、しょんぼりと言った。その様子を見て理子は反省した。
「ううん。私の方こそごめんね。ゆきちゃんの気持ちも凄くわかるんだ。でも私自身も、会いたい気持ちと会わない方がいいと思う気持ちの間で、しょっちゅう揺れてるから」
理子はそう言うと、ゆきの手を取った。
「たださ。辛い思いをしてるのは、ゆきちゃんだけじゃないと思うよ。小泉君だって、我慢してるんじゃない?それに、ゆきちゃんに対しても済まない気持ちを持ってると思う。だから、ゆきちゃんはもう少し小泉君を信じてあげるべきだと思う。たまには会いたいなって気持ちを伝えるのはいいと思うけど、しつこくならないように注意してさ」
ゆきは切なげな表情で理子を見た。
「理子ちゃん、ありがとう。あたし、なるべく我慢する。でも、やっぱり不安なの。理子ちゃんの言う事は凄くわかるし、小泉君が大変なのもわかるの。ただ、何ていうか、気持ちの変化をどうしても感じてしまうって言うか.....」
そう言って、ゆきは目を逸らせた。
気持ちの変化。それだけは、理子にはわからない。
肉体的に結ばれて、毎週のように体を重ねている関係だから、敏感に感じるものがあるのかもしれない。
しかも今は小泉ともクラスが別であまり会わないから余計だ。
「そういう事は、私にもわからないかな。私がゆきちゃんだったとしても、やっぱりどうしたらいいのかわからなくて悩むと思う」
理子は、枝本に相談してみてはどうかと提案した。
小泉の事だから、自分の事は何も話してはいないと思うが、同じ男として、少しは小泉の気持ちがわかるのではないだろうか。
「そうだね。そうしてみるね」
ゆきは涙を拭った。
難しい時期だ。しかも、これから益々状況は厳しくなっていく。
来年の三月まで、持ちこたえられるのだろうか。