第92話
文字数 5,573文字
蒔田の食事が終わって片づけた後、理子は病室を後にしてナースセンターへ向かった。
ナースセンターには五、六人のナースがいて、理子が行くとみんなが理子を見たのでドキッとした。
ぶしつけに見る者もいれば、さりげなく観察している者もいる。蒔田の恋人と聞いて、興味津々なのだろう。
「あっ、理子ちゃん。終わったの?」
「はい」
二人は連れ立って、上の階にある食堂へ向かった。院内の食堂は職員も見舞客も皆が利用する。それぞれ注文したものを持って、空いた席へと落ち着いた。
「まさか、ここで理子ちゃんと再会するとは思ってなかった」
「私もです」
佐野の家庭は母子家庭だった。母一人子一人である。父親を早くに亡くし、母親が苦労して育てて来た。そういう家庭の中で、佐野は明るく朗らかに育っていた。だが、そういう家庭環境にあるからこそ、早く自立して母を助けなければとの思いが強く、看護の道を選んだのだろう。
「さっき、みんな凄い目で理子ちゃんの事を見てたでしょ」
「はい。まぁ、仕方ないです」
「まぁ、そうだよね。あんな素敵な人って、滅多にいないし。だから彼女がいないわけが無いだろうって皆噂してたけど、平日は家族以外は誰も見えないし、土曜だって、同じ学校の男の先生が見えるだけだしね。でもって、唯一日曜日に訪ねてくるのは、妙に若い女の子で、おまけにほぼ一日、病室にいるじゃない?一体、どういう子なんだろうって思っていたら恋人だと聞かされて、皆仰天」
「あんな素敵な人の恋人が、私のような女の子なんで、皆さん納得できないんじゃないですか?」
「ふふふ.....。まぁ、女って、みんなそうじゃない?飛びぬけた美人だったらともかく、そうで無ければ大抵は、どうしてあんな女が?って思うものよ。自分の事を棚に上げてね」
その言葉に理子は笑う。確かにそうだ。
蒔田のような男性なら、恋人もきっとかなりの美人に違いないと、誰もが思うだろう。
「だけど理子ちゃんの彼氏が、あんな大人の男の人とはね。珍しいんじゃない?」
「そうだろうとは思います。高校生ですからね」
「あんなカッコイイ人、よくゲットできたね。理子ちゃんって、そんなに積極的だったっけ?」
「いいえ、全然。臆病者です、私は。だから、ラッキーだったとしか言いようがないです。どういうわけか、あの人も私を好きになってくれていたんです。今でも信じられないです」
「へぇ~、なんか羨ましいなぁ。でも、イイ男だけに、もてるでしょ。心配じゃない?」
「あまり、心配してないです」
「えー?どうしてぇ?病院でも凄いわよ。理子ちゃんは日曜しか来ないから知らないでしょうけど、もう本当、争奪戦って感じよ。みんなが蒔田さんの世話をしたがって。患者さんとナースって、カップルになる確率、結構高いのよ。奥さんが看護婦さんって男の人の多くは、入院中に知り合って、熱心に世話をして貰って好きになったってパターンが多いの。平気なの?」
「あの人ちょっと、特殊な人なので」
「特殊な人?それって、どういう意味なの?」
「子供の時からモテ過ぎて、女性に興味が無いんですよ。そんな中で、何故か私だけ好きになってくれたんです。どうして私?って不思議ですけどね。まぁだから、女性にかまわれるのはいつもの事だから、別にそれを嬉しいとも何とも思わない人なので、看護師さんに世話してもらっても、何も感じて無い筈ですよ。浮気の心配が、全然無い人です」
「そうは言っても、男の人よ」
佐野の言葉に、理子は笑った。蒔田の事は、みんな理解できないだろう。
一般論が通用しない人間だ。
「信じてますから」
「そう。まぁ、信じられなかったら付き合えないよね」
「そういう事です」
「あのさ。変な事かもしれないけど、聞いていいかな?」
佐野が、遠慮勝ちに言う。
「何ですか?」
「私が午前中に行った時の二人のやり取りを聞いて、不思議に思ったんだけど。二人の関係って、もしかして周囲の人達は知らないの?」
「彼の家族と、私の父と、彼の一部の友人だけが知ってます」
「じゃぁ、理子ちゃんのお母さんは知らないわけ?秘密にしてるの?友達にも?」
「私は高校生で、彼は先生だし。そうなると、あまり大っぴらにはできないじゃないですか」
「それは確かにそうかもね」
「そうなんですよ。だから、先生も『隠すのがもう疲れた』って」
「そっかぁ。ひとまず卒業までは大変だよね。でも、もうすぐじゃない」
佐野とは他にも色々と話して、最後は励まされた。
久しぶりに蒔田の事も含めて話ができた事に、心が少し軽くなった気がした。
佐野との食事が終わって病室へと戻ると、蒔田は眠っていた。
陽気がいいから気持ち良くて眠くなってしまったのだろう。
初めて病室へ来た時には、顔色も悪くて苦痛を浮かべた寝顔で痛々しかったが、今は心地良さそうに、すやすやと健やかに眠っている。
可愛い寝顔だった。睫毛は思ったほど長くは無かった。濃くも無い。
だが目を閉じたその顔は、お人形のように可愛らしい。
柔らかい髪が少し乱れて額にかかっている様が、色気を感じさせる。
薄めの唇が微かに開いていて、理子を誘う。
この綺麗な顔で、甘く切ない、色っぽい目で見つめられて近づいて来たら、もう悩殺ものである。
体が震え、顔を正視し続ける事ができず、自然と目を閉じるしかない。慄 いて、されるがままになってしまうだろう。
だが今は、目を閉じている。
じっと見つめる。
ずっと見ていたい。
どれだけ見ていても、飽きる事は無いだろう。
蒔田は静かに眠っているというのに、理子はその存在が気になってしょうがない。
そんな時間がどれだけ過ぎただろう。
蒔田の目がゆっくりと開いた。
奥二重気味の目が、パッチリした二重になっていて、眠そうな表情で理子を見た。
少し虚ろな感じが色気に満ちていた。思わず熱い口づけを交わしたくなるような表情だ。
「理子.....」
蒔田は理子の名を呼ぶと、左手を差し出した。
理子はその手を握った。
「ごめん.....。寝ちゃったみたいだな.....」
「ううん。気持ち良さそうに、眠ってましたよ。寝顔が可愛くて、つい見惚れちゃいました」
「先輩との食事、どうだった?楽しかったかい?」
「はい。久しぶりだったし」
理子は佐野先輩との会話の内容を話した。
「そうか。いい人みたいだな。君との会話を聞いてる時にも、そう思ったが。.....俺、夢を見てたよ。凄くいい夢だった」
まだ夢見心地なんだろうか。
「君を、抱いている夢だ。俺の腕の中で、君は恍惚としてた」
そう言って理子を見る蒔田の目が甘い。
理子を欲しているのが伝わってくる。
理子は顔が赤くなるのを感じた。体も熱くなってくる。そんな目で見つめられると、疼いてくる。
二人は暫く互いに熱い目で、見つめ合った。
蒔田は、握っていた手を引っ張って、理子を近くへと引き寄せ、唇を重ね合わせた。
理子は、繋がりたい思いが高まって来るのを感じた。このまま時が止まってしまったらと思わずにはいられない。
唇を話した後、蒔田は言った。
「左手しか使えないのが悲しいよ。この両手で、君の体に触れたい。君を感じたい.....」
「なら、.....早く良くなって」
「俺も、早く良くなりたい。だけど.....、治っても、もう、卒業までは君を抱かないつもりだ」
蒔田の言葉に理子は驚く。
確かに、これから毎週、蒔田の家を訪れても、勉強に集中して変な事はしないと約束してはいるが。
「どうして、そんなに驚く?俺には無理だとか、もしかして思ってる?」
理子はそれを聞いて、少し微笑んだ。
「だって先生、堪え性が無いから」
「俺だって、いざって時には、ちゃんと我慢するさ。俺たちにとっては、これからが正念場だろう?もう十月も半ばだ。退院する時には十一月になってしまう。君も知っての通り、俺はしつこいからな。愛し始めたら、止めどが無い。君に余計な時間を使わせてしまう。戻って来るにも時間がかかるだろうし」
「それで、.....平気なの?」
「平気じゃないよ。.....さっき見たような夢を、また見れたらな。夢の中でだけでも、君を抱きたい」
「でも、そんな夢を見たら、一層、現実にもしたくならない?」
「なるだろうな。実際、今、とってもしたくてしょうがなくなってるし。.....良かったら、この間の時みたいに、また俺の上に乗ってくれないかな」
理子はゲンコで、蒔田の頭を軽く小突いた。
「痛いぞっ。暴力反対」
「あら。それは私の台詞ですよ。私の方こそ、何度、ゲンコを喰らったか」
「江戸の敵を長崎で、か?だからって、動けない俺に、ひどくないか?」
「先生が、お下劣な事をおっしゃるからです。もう少し場所を弁 えた方がいいですよ」
「いいじゃないか。二人きりなんだし」
「いつ誰が来るか、わからないじゃないですか。それに先生のストレートな物言いには、いつも恥ずかしくなっちゃいます」
「君はいつまで経っても、変わらずにウブだよな。思い返したら、物凄ーく、恥ずかしい姿をたくさん俺の前に晒してきてるのに」
「止めて下さい、そんな言い方」
理子は真っ赤になった。
「君は俺に、君の体の隅々まで、見せて、触らせて、舐めさせたくせに」
「先生、日本語間違ってますよ。私がさせたんじゃなくて、先生がしたんでしょうに」
理子はそう言うと、立ちあがった。蒔田は慌てた。
「理子、ごめん。俺が悪かった。言い過ぎた。だから、まだ帰らないでくれないか」
理子はゆっくりと、蒔田の方へ顔を向けた。その顔はまだ赤かった。
「今さっき言ったような事をまた口にしたら、もう二度とここへは来ませんから」
理子は毅然とした態度でそう言うと、病室を出た。
顔がまだ赤い。体も熱かった。少し冷まそうと思い、外へ出た。
全く、蒔田には困ったものだ。悪ふざけが過ぎる。
大人としての分別は持ってはいるが、時にそこから逸脱する。
大人の男だけに、扱いに困惑する。
ストレスが溜まっているのかもしれない。自分達の関係は、本当にストレスが溜まる。
普通の恋人同士であったなら、もう少し自然に付き合えるような気がしてならない。
外に出るといい日和だった。思いきり深呼吸をしたら、微かにいい香りが鼻についた。
どこにあるのだろう?周囲を見回したが見当たらない。
銀木犀の香りだ。
金木犀は香りが強く、甘い香りがするが、銀木犀の方は金木犀ほど強く無いし、その香りも金木犀ほど甘くは無く、高貴な感じがする。
理子は銀木犀が好きだ。銀木犀の香りを嗅ぐと、秋の深まりが始まるのを感じる。
秋は理子の好きな季節だ。
好きな香りを嗅いで、理子の心も少しずつ凪いできた。冷静にならなければ、と思う。
今は辛い時期ではあるが、この時間も、過ぎ去ってしまえば取り戻すことができない貴重な時間だ。
勉強の時間も、蒔田との時間も、理子にとっては大切な時間なのだ。
病室に戻ると、蒔田はぼんやりと窓の外を見ていた。
戻って来た理子にすぐに気付いて、起き上がる。心配そうな顔をしていた。
理子はそんな蒔田に優しく微笑んだ。
「理子、さっきはごめん」
「もう、あんな事は言わないで下さい。幾ら欲求不満だからって、酷いですよ。私は女子高生なんですから。からかうにしたって、限度ってものがあります」
「わかった。もう言わないよ」
「先生は、私が立ちあがった時、帰ると思ったんですか?」
「だって、君は怒るといつも席を立って帰ろうとしてきたじゃないか」
「帰らないでくれと懇願するくせに、怒らせるような事をおっしゃるんですね」
「意地悪だな。でも、君の言う通りだ。つくづく自分を馬鹿だと思うよ」
「先生、ここは病院ですよ。先生の部屋じゃないの。この間の音楽準備室みたいに、鍵閉めてってわけにもいかいないし。そもそも、あれだって、今後は止めて下さいね。幾ら二人きりとは言え、公共の場所なんですから。私、危険な事はしたくないです」
「わかった。君の言い分が皆正しいよ。いい年をした大人なのに、俺の方が子供みたいだよな」
「それじゃぁ、おやつにしましょうか?今、お茶を淹れますね」
「おー、やったー。お楽しみのおやつだ」
子供のような笑顔になる。
子供なら子供でもいいのに。男にならなければ。
そんな風に思いながら、理子はお茶を淹れた。
蒔田は理子の淹れたお茶を飲みながら、美味しそうにミニどら焼きを口に入れる。
「先生、本当にお好きですね、甘い物が」
「そうだな。まぁ、美味しい物なら何でもオッケーなんだけどな。理子が作ってくれたから、尚更美味いんだよ。君って、上手だね」
理子は笑った。
「私、お菓子作るの、苦手なんですよ」
「なんで?こんなに美味いのに」
「私、粉ものって、駄目なんです。感覚で料理する人間なので、きっちり計量しなきゃならない粉もののお菓子は肌に合わなくて。わざわざ秤を使って、1グラム単位で計るのが、もう、イライラしちゃうんですよ」
「へぇ~、そうなんだ。それはちょっと意外だな。平たく言えば、大雑把って事なのかな」
「そうです。大雑把なんです。どら焼きは、小豆なんて神経使わないし、皮だって、きっちり計る必要ないですから。ホットケーキの延長みたいなものだし。多少の幅が利くものなら、問題ないんです」
「成る程。俺は、君が作りたいものを作って食べさせてくれれば、それで十分満足だから。多分君の事だから、失敗作は持ってこないだろうしね」
「それはちょっと違います。私、失敗なんてしませんから。失敗するようなものは、最初から作りません」
「おお、負けず嫌いが出た」
蒔田が愉快そうに笑った。
「粉もの嫌いの君が、来週はどんなおやつを作ってきてくれるのかな?わくわくするよ」
そう言われると、ちょっとプレッシャーを感じるのだった。
ナースセンターには五、六人のナースがいて、理子が行くとみんなが理子を見たのでドキッとした。
ぶしつけに見る者もいれば、さりげなく観察している者もいる。蒔田の恋人と聞いて、興味津々なのだろう。
「あっ、理子ちゃん。終わったの?」
「はい」
二人は連れ立って、上の階にある食堂へ向かった。院内の食堂は職員も見舞客も皆が利用する。それぞれ注文したものを持って、空いた席へと落ち着いた。
「まさか、ここで理子ちゃんと再会するとは思ってなかった」
「私もです」
佐野の家庭は母子家庭だった。母一人子一人である。父親を早くに亡くし、母親が苦労して育てて来た。そういう家庭の中で、佐野は明るく朗らかに育っていた。だが、そういう家庭環境にあるからこそ、早く自立して母を助けなければとの思いが強く、看護の道を選んだのだろう。
「さっき、みんな凄い目で理子ちゃんの事を見てたでしょ」
「はい。まぁ、仕方ないです」
「まぁ、そうだよね。あんな素敵な人って、滅多にいないし。だから彼女がいないわけが無いだろうって皆噂してたけど、平日は家族以外は誰も見えないし、土曜だって、同じ学校の男の先生が見えるだけだしね。でもって、唯一日曜日に訪ねてくるのは、妙に若い女の子で、おまけにほぼ一日、病室にいるじゃない?一体、どういう子なんだろうって思っていたら恋人だと聞かされて、皆仰天」
「あんな素敵な人の恋人が、私のような女の子なんで、皆さん納得できないんじゃないですか?」
「ふふふ.....。まぁ、女って、みんなそうじゃない?飛びぬけた美人だったらともかく、そうで無ければ大抵は、どうしてあんな女が?って思うものよ。自分の事を棚に上げてね」
その言葉に理子は笑う。確かにそうだ。
蒔田のような男性なら、恋人もきっとかなりの美人に違いないと、誰もが思うだろう。
「だけど理子ちゃんの彼氏が、あんな大人の男の人とはね。珍しいんじゃない?」
「そうだろうとは思います。高校生ですからね」
「あんなカッコイイ人、よくゲットできたね。理子ちゃんって、そんなに積極的だったっけ?」
「いいえ、全然。臆病者です、私は。だから、ラッキーだったとしか言いようがないです。どういうわけか、あの人も私を好きになってくれていたんです。今でも信じられないです」
「へぇ~、なんか羨ましいなぁ。でも、イイ男だけに、もてるでしょ。心配じゃない?」
「あまり、心配してないです」
「えー?どうしてぇ?病院でも凄いわよ。理子ちゃんは日曜しか来ないから知らないでしょうけど、もう本当、争奪戦って感じよ。みんなが蒔田さんの世話をしたがって。患者さんとナースって、カップルになる確率、結構高いのよ。奥さんが看護婦さんって男の人の多くは、入院中に知り合って、熱心に世話をして貰って好きになったってパターンが多いの。平気なの?」
「あの人ちょっと、特殊な人なので」
「特殊な人?それって、どういう意味なの?」
「子供の時からモテ過ぎて、女性に興味が無いんですよ。そんな中で、何故か私だけ好きになってくれたんです。どうして私?って不思議ですけどね。まぁだから、女性にかまわれるのはいつもの事だから、別にそれを嬉しいとも何とも思わない人なので、看護師さんに世話してもらっても、何も感じて無い筈ですよ。浮気の心配が、全然無い人です」
「そうは言っても、男の人よ」
佐野の言葉に、理子は笑った。蒔田の事は、みんな理解できないだろう。
一般論が通用しない人間だ。
「信じてますから」
「そう。まぁ、信じられなかったら付き合えないよね」
「そういう事です」
「あのさ。変な事かもしれないけど、聞いていいかな?」
佐野が、遠慮勝ちに言う。
「何ですか?」
「私が午前中に行った時の二人のやり取りを聞いて、不思議に思ったんだけど。二人の関係って、もしかして周囲の人達は知らないの?」
「彼の家族と、私の父と、彼の一部の友人だけが知ってます」
「じゃぁ、理子ちゃんのお母さんは知らないわけ?秘密にしてるの?友達にも?」
「私は高校生で、彼は先生だし。そうなると、あまり大っぴらにはできないじゃないですか」
「それは確かにそうかもね」
「そうなんですよ。だから、先生も『隠すのがもう疲れた』って」
「そっかぁ。ひとまず卒業までは大変だよね。でも、もうすぐじゃない」
佐野とは他にも色々と話して、最後は励まされた。
久しぶりに蒔田の事も含めて話ができた事に、心が少し軽くなった気がした。
佐野との食事が終わって病室へと戻ると、蒔田は眠っていた。
陽気がいいから気持ち良くて眠くなってしまったのだろう。
初めて病室へ来た時には、顔色も悪くて苦痛を浮かべた寝顔で痛々しかったが、今は心地良さそうに、すやすやと健やかに眠っている。
可愛い寝顔だった。睫毛は思ったほど長くは無かった。濃くも無い。
だが目を閉じたその顔は、お人形のように可愛らしい。
柔らかい髪が少し乱れて額にかかっている様が、色気を感じさせる。
薄めの唇が微かに開いていて、理子を誘う。
この綺麗な顔で、甘く切ない、色っぽい目で見つめられて近づいて来たら、もう悩殺ものである。
体が震え、顔を正視し続ける事ができず、自然と目を閉じるしかない。
だが今は、目を閉じている。
じっと見つめる。
ずっと見ていたい。
どれだけ見ていても、飽きる事は無いだろう。
蒔田は静かに眠っているというのに、理子はその存在が気になってしょうがない。
そんな時間がどれだけ過ぎただろう。
蒔田の目がゆっくりと開いた。
奥二重気味の目が、パッチリした二重になっていて、眠そうな表情で理子を見た。
少し虚ろな感じが色気に満ちていた。思わず熱い口づけを交わしたくなるような表情だ。
「理子.....」
蒔田は理子の名を呼ぶと、左手を差し出した。
理子はその手を握った。
「ごめん.....。寝ちゃったみたいだな.....」
「ううん。気持ち良さそうに、眠ってましたよ。寝顔が可愛くて、つい見惚れちゃいました」
「先輩との食事、どうだった?楽しかったかい?」
「はい。久しぶりだったし」
理子は佐野先輩との会話の内容を話した。
「そうか。いい人みたいだな。君との会話を聞いてる時にも、そう思ったが。.....俺、夢を見てたよ。凄くいい夢だった」
まだ夢見心地なんだろうか。
「君を、抱いている夢だ。俺の腕の中で、君は恍惚としてた」
そう言って理子を見る蒔田の目が甘い。
理子を欲しているのが伝わってくる。
理子は顔が赤くなるのを感じた。体も熱くなってくる。そんな目で見つめられると、疼いてくる。
二人は暫く互いに熱い目で、見つめ合った。
蒔田は、握っていた手を引っ張って、理子を近くへと引き寄せ、唇を重ね合わせた。
理子は、繋がりたい思いが高まって来るのを感じた。このまま時が止まってしまったらと思わずにはいられない。
唇を話した後、蒔田は言った。
「左手しか使えないのが悲しいよ。この両手で、君の体に触れたい。君を感じたい.....」
「なら、.....早く良くなって」
「俺も、早く良くなりたい。だけど.....、治っても、もう、卒業までは君を抱かないつもりだ」
蒔田の言葉に理子は驚く。
確かに、これから毎週、蒔田の家を訪れても、勉強に集中して変な事はしないと約束してはいるが。
「どうして、そんなに驚く?俺には無理だとか、もしかして思ってる?」
理子はそれを聞いて、少し微笑んだ。
「だって先生、堪え性が無いから」
「俺だって、いざって時には、ちゃんと我慢するさ。俺たちにとっては、これからが正念場だろう?もう十月も半ばだ。退院する時には十一月になってしまう。君も知っての通り、俺はしつこいからな。愛し始めたら、止めどが無い。君に余計な時間を使わせてしまう。戻って来るにも時間がかかるだろうし」
「それで、.....平気なの?」
「平気じゃないよ。.....さっき見たような夢を、また見れたらな。夢の中でだけでも、君を抱きたい」
「でも、そんな夢を見たら、一層、現実にもしたくならない?」
「なるだろうな。実際、今、とってもしたくてしょうがなくなってるし。.....良かったら、この間の時みたいに、また俺の上に乗ってくれないかな」
理子はゲンコで、蒔田の頭を軽く小突いた。
「痛いぞっ。暴力反対」
「あら。それは私の台詞ですよ。私の方こそ、何度、ゲンコを喰らったか」
「江戸の敵を長崎で、か?だからって、動けない俺に、ひどくないか?」
「先生が、お下劣な事をおっしゃるからです。もう少し場所を
「いいじゃないか。二人きりなんだし」
「いつ誰が来るか、わからないじゃないですか。それに先生のストレートな物言いには、いつも恥ずかしくなっちゃいます」
「君はいつまで経っても、変わらずにウブだよな。思い返したら、物凄ーく、恥ずかしい姿をたくさん俺の前に晒してきてるのに」
「止めて下さい、そんな言い方」
理子は真っ赤になった。
「君は俺に、君の体の隅々まで、見せて、触らせて、舐めさせたくせに」
「先生、日本語間違ってますよ。私がさせたんじゃなくて、先生がしたんでしょうに」
理子はそう言うと、立ちあがった。蒔田は慌てた。
「理子、ごめん。俺が悪かった。言い過ぎた。だから、まだ帰らないでくれないか」
理子はゆっくりと、蒔田の方へ顔を向けた。その顔はまだ赤かった。
「今さっき言ったような事をまた口にしたら、もう二度とここへは来ませんから」
理子は毅然とした態度でそう言うと、病室を出た。
顔がまだ赤い。体も熱かった。少し冷まそうと思い、外へ出た。
全く、蒔田には困ったものだ。悪ふざけが過ぎる。
大人としての分別は持ってはいるが、時にそこから逸脱する。
大人の男だけに、扱いに困惑する。
ストレスが溜まっているのかもしれない。自分達の関係は、本当にストレスが溜まる。
普通の恋人同士であったなら、もう少し自然に付き合えるような気がしてならない。
外に出るといい日和だった。思いきり深呼吸をしたら、微かにいい香りが鼻についた。
どこにあるのだろう?周囲を見回したが見当たらない。
銀木犀の香りだ。
金木犀は香りが強く、甘い香りがするが、銀木犀の方は金木犀ほど強く無いし、その香りも金木犀ほど甘くは無く、高貴な感じがする。
理子は銀木犀が好きだ。銀木犀の香りを嗅ぐと、秋の深まりが始まるのを感じる。
秋は理子の好きな季節だ。
好きな香りを嗅いで、理子の心も少しずつ凪いできた。冷静にならなければ、と思う。
今は辛い時期ではあるが、この時間も、過ぎ去ってしまえば取り戻すことができない貴重な時間だ。
勉強の時間も、蒔田との時間も、理子にとっては大切な時間なのだ。
病室に戻ると、蒔田はぼんやりと窓の外を見ていた。
戻って来た理子にすぐに気付いて、起き上がる。心配そうな顔をしていた。
理子はそんな蒔田に優しく微笑んだ。
「理子、さっきはごめん」
「もう、あんな事は言わないで下さい。幾ら欲求不満だからって、酷いですよ。私は女子高生なんですから。からかうにしたって、限度ってものがあります」
「わかった。もう言わないよ」
「先生は、私が立ちあがった時、帰ると思ったんですか?」
「だって、君は怒るといつも席を立って帰ろうとしてきたじゃないか」
「帰らないでくれと懇願するくせに、怒らせるような事をおっしゃるんですね」
「意地悪だな。でも、君の言う通りだ。つくづく自分を馬鹿だと思うよ」
「先生、ここは病院ですよ。先生の部屋じゃないの。この間の音楽準備室みたいに、鍵閉めてってわけにもいかいないし。そもそも、あれだって、今後は止めて下さいね。幾ら二人きりとは言え、公共の場所なんですから。私、危険な事はしたくないです」
「わかった。君の言い分が皆正しいよ。いい年をした大人なのに、俺の方が子供みたいだよな」
「それじゃぁ、おやつにしましょうか?今、お茶を淹れますね」
「おー、やったー。お楽しみのおやつだ」
子供のような笑顔になる。
子供なら子供でもいいのに。男にならなければ。
そんな風に思いながら、理子はお茶を淹れた。
蒔田は理子の淹れたお茶を飲みながら、美味しそうにミニどら焼きを口に入れる。
「先生、本当にお好きですね、甘い物が」
「そうだな。まぁ、美味しい物なら何でもオッケーなんだけどな。理子が作ってくれたから、尚更美味いんだよ。君って、上手だね」
理子は笑った。
「私、お菓子作るの、苦手なんですよ」
「なんで?こんなに美味いのに」
「私、粉ものって、駄目なんです。感覚で料理する人間なので、きっちり計量しなきゃならない粉もののお菓子は肌に合わなくて。わざわざ秤を使って、1グラム単位で計るのが、もう、イライラしちゃうんですよ」
「へぇ~、そうなんだ。それはちょっと意外だな。平たく言えば、大雑把って事なのかな」
「そうです。大雑把なんです。どら焼きは、小豆なんて神経使わないし、皮だって、きっちり計る必要ないですから。ホットケーキの延長みたいなものだし。多少の幅が利くものなら、問題ないんです」
「成る程。俺は、君が作りたいものを作って食べさせてくれれば、それで十分満足だから。多分君の事だから、失敗作は持ってこないだろうしね」
「それはちょっと違います。私、失敗なんてしませんから。失敗するようなものは、最初から作りません」
「おお、負けず嫌いが出た」
蒔田が愉快そうに笑った。
「粉もの嫌いの君が、来週はどんなおやつを作ってきてくれるのかな?わくわくするよ」
そう言われると、ちょっとプレッシャーを感じるのだった。