第65話

文字数 6,080文字

 中間テストが終わった翌日、生徒達に受験補習クラスの案内プリントが配布された。
 目安としては、偏差値60以上の大学を志望している生徒が対象で、希望者は志望大学、学部、得意・不得意科目、受験勉強における悩み等を記入して、担任に提出する事になっていた。

「理子はどうするの?」

 岩崎が訊ねてきた。

「私は参加するけど、岩崎君は?」

「うーん、どうしようか悩むところなんだよね」

 まだ同じクラスになって日が浅い事もあり、岩崎が現在どのくらいのポジションにいるのか、理子には全くわからない。
 小テストの成績は良いみたいだ。だが参加を悩むくらいだから、上位の大学を目指す程、成績は良い方なのだろう。

「志望校、まだ決まって無いの?」

「うん。幾つか候補はあるんだけど、どこにするかはまだね」

 岩崎は、経済学部を志望していると言う。

「理子はやっぱり、文学部?」

「うん。それしか無いかな」

 そんな二人の会話に、渕田は珍しく口を挟んではこなかった。
 渕田は私立の中堅どころを志望しているらしく、今回の補習クラスは対象外と言って良い。

「だけど、ハードルが高いよね。偏差値60以上だなんて。うちの学校じゃ、少ないんじゃないのかな」

 岩崎の言葉も尤もだ。
 のんびりした校風で、生徒達も受験希望者は圧倒的に多いが、どこかへ入れればそれで良い的な意識の者が多かった。

 学校自体、偏差値55の高校なので、浪人する事も最初から視野に入っている生徒が多く、何としても現役で、という意識は低かった。

 だが今年の三年生は少し違っていた。
 蒔田が去年赴任してきたのがきっかけで、受験に対する意識が高まっていた。
 特に昨年度、蒔田が担任したクラスの生徒達の多くが進学に熱心になった。

 今年の蒔田のクラスも同じだ。周囲はそれに刺激されだした。
 これまでだったら、偏差値60以上の大学を狙う生徒なんて、ほんの一握りで、こんな補習クラスを作ったところで、参加者がいるかどうか怪しいくらいだったのだ。

「多くはないと思うけど、それなりにいるんじゃない?こんなチャンスないし」

「でも、うちの先生達だよ。期待できる?塾の方が効果的じゃないのかな」

「蒔田先生がいるじゃない。蒔田先生が中心らしいから、私は結構、期待できると思うけど?」

 蒔田の事を話すのに、ちょっとドキドキした。
 こんな風に、蒔田の事を話題にするのは、付き合い始めてからは初めての事だ。
 
「まぁ確かにそうかもしれないね」
 岩崎は言葉では同意しながらも、まだどこか悩んでいるようだ。
 
 翌火曜日、約五十人の生徒が集まった。思っていたよりも多くて理子は驚いた。
 この人数の生徒を、蒔田は指導しなければならないのか。
 かなりの負担ではないだろうか?

 参加者の中には枝本も茂木も耕介もいた。
 偏差値60以上と言うことなので、私立組が多い。
 圧倒的に男子が多く、女子は少なかった。

 元々朝霧は女子が全体の三分の一しかいないから仕方が無い。
 蒔田が責任者だから、それを目当てにもう少し女子が多いと思ったが、さすがにハードルが
高いのかもしれない。

 クラスはまず、国立と私立に分けられた。3割が国立で、7割が私立だった。
 国立は蒔田が担当し、私立は熊田が担当する事になっていた。

 国立組には、枝本達歴研のメンバーは小泉しかいなかった。他にはあまり見知った顔は無かったが、岩崎がいた事には驚いた。
 偏差値60以上の国立となると、関東圏内では数が限られてくるから、志望校の予測が大体ついてしまう。

 理子はお茶大辺りを狙っているのだろうと思われるかもしれないが、具体的な事は言わない事にした。
 お茶大には比較歴史学という学科があって、ここの内容も理子には惹かれるものがある。

 補習クラスでは、最初に個々のアドバイスと課題表が配布され、これからの勉強のスケジュールもたてられていた。
 これだけの事を、週末に蒔田はこなしたのである。大変だったろう。

 仄々とした連休も終わり、学校に来て蒔田の顔を見ると別人のようだ。
 いつも、そのギャップに戸惑いを覚える。

 この人は、どうして学校ではこうもクールなんだろう。
 凄く大人っぽくて、遠い人のように思えてならない。
 学校へ来る度に、自分達の関係が夢の中の出来ごとのように思えてしまうのだった。

 だが、二人してポーカーフェイスでいながら、時々僅か一瞬だが視線が絡み合う。
 互いに気にしていないようで気にしているからだろう。
 その一瞬の視線の中に、理子は蒔田の深い愛を感じるのだった。

 ずっとクールを保っていながら、その一瞬だけ瞳が優しくなる。
 理子はその瞬間に、二人の関係は夢ではないのだと実感した。

 渡されたプリントには、氏名は記載されているが、志望校については書かれていない。情報が外部に漏れない為だろう。
 理子は自分のプリントの内容を確認した。かなり、事細かく書かれている。

 特に注目したのが、課題表だ。今週の課題、となっていた。
 どうやら一週間単位で課題が出されるらしい。その課題表の中で特に濃い内容だったのが数学だった。

 連休中はリフレッシュと言われたが、明けてみると、新しい課題の内容はハードだった。
 蒔田は、これからの勉強方法について一通り説明を終えると、理子にだけ、これから石坂先生の所へ行くようにと言った。

 その言葉に驚きながらも、理子は席を立ち、職員室へと向かった。
 久しぶりに会う石坂は、爽やかな顔をしていた。

「やぁ、来たね。連休中はリフレッシュできたかい?」

「はい、お陰さまで」

「どこかへ、出かけたのかい?」

 その質問にドキっとする。

「出かけたり家で過ごしたり、色々でしたが、のんびりできたと思います」

「そうかい。それでも、テストはしっかりできていたから、感心したよ」

「えっ?本当ですか?」

 数学の中間テストはまだ手元に戻ってきていない。

「本当だよ。もう、学校での学習に関しては、あまり問題は無さそうだね」

 石坂は、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「ところで、蒔田先生から課題表は貰ってるね?」

「はい。中を見て驚きました」

「ははは、そうかい。まぁ、それについて、色々説明したくてね。それで、こっちへ来てくれるよう、蒔田先生に頼んでおいたんだ」

「そうだったんですか。私だけ呼ばれたので、不思議に思ったんです」

「それは、悪かったね。まぁこれからは、僕も補習クラスで数学の指導をするから、君にだけ掛りきりにはなれないんだが、君の場合は特別だからね。東大は他の大学とは出題の仕方が違うから、その対策が必要だ」

 二次試験はどの科目も応用的な内容で設問数が少なく、解答も論理的に書く必要があり、論理的思考を要求される。
 数学の場合も、論理的思考から導き出された解答を正確に記していかなければならないのだが、設問数が少なくてもレベルが高いので、最初から最後までの正しい道乗りを導き出すのに時間がかかるのだった。

 最後まで解答を書けずに時間切れとなってしまう場合も少なくない。
 だが、考えながらより多くの量を書くよりは、正しく導いた通りに書いている途中で書ききれなくなってしまった方が、得点が取れる確率が高いという面もあるのが、ここの特徴だ。

 まずは正しい解答を導き出す事に重点を置く。それと、発想の転換だ。
 その為に必要と思われる基本的な事を、石坂は今回の課題に盛り込んだのだった。

「今週の課題となってるけど、ここは非常に大事な所なので、今月一杯はここに時間をかける事になると思うから、まぁ、焦らずにね。わからない所は、これまでのように聞きにきて下さい」

文系は数学が苦手な受験生の方が圧倒的に多い。その中で、確実に数学で点を稼ぐ事は、合格への近道でもある。

 いよいよ、本格的になってきた感じだ。こうして学校全体が受験ムードになってくると、気持ちも引きしまってくる。
 より覚悟が必要だと感じるのだった。


 休み時間に岩崎と話していて、理子は岩崎の頬にエクボが出来たのを見た。
 そうだ。岩崎もエクボのある男だった。

 岩崎も色の白い男だ。その白さは、白粉(おしろい)をつけたように白い。
 こういう男も珍しい。肌は少々乾燥している感じがするので、尚更、粉を付けているのではないかと思えてしまう。白桃のようだと思った。

 蒔田は学校では滅多に笑わないので、彼の頬にエクボができるのは誰も知らないだろう。
 だから理子も学校では、あのチャーミングなエクボを見る事ができない。
 その変わりと言ってはなんだが、岩崎のエクボを見るのは楽しかった。

 その理子の視線を感じたのか、岩崎は自分の頬に手をやった。

「なんか、付いてる?」

「えっ?あっ、ううん。エクボができるんだなぁと思って」

 理子の言葉に、岩崎は照れ笑いをした。

「僕さ、何が嫌って、エクボなんだよな~。今時さ、女の子だって、そういないじゃない?」

 蒔田と同じような事を言っている。矢張りそういうものなのか。

「やっぱり、気になるものなの?」

「そりゃぁ、気になるよ。なんか、恥ずかしいしさ」

 そう言って笑った顔に、再びエクボが浮かんだ。やっぱり、エクボが出来ると可愛い印象を与える。
 さすがに、岩崎に突かせてくれとは言えない。
 だが、柔らかい空気感が、迫って来る受験の息苦しさに一抹の癒しを与えてくれるのだった。


 その日の昼休み、理子はゆきを誘って中庭に出た。
 最近、忙しくて部活にも出ていない理子だった。

「ゆきちゃん、連休中はどうしてた?」

 理子の問いに、ゆきは少し微笑んだが寂しげな表情は(ぬぐ)えない。

「家でのんびり過ごしてた。中間テストの勉強をしながら」

「小泉君は?」

「テストと受験の勉強があるから会えないって言われた」

「連休明けてから、会った?」

「うん。テストが終わった日に一緒に帰ったけど、その後は.....」

 ゆきは寂しそうに首を振った。

「そっか。何か言ってた?」

「あんまり会えなくてごめんね、って。多分これからは、もっと会えないって」

 ゆきは段々と悲しそうな表情になっていく。

「それで、ゆきちゃんは?」

「あたしは.....、ちょっと寂しいけどしょうがないねって。それしか言えないもん」

 確かにそうだろう。それ以外に言いようもない。

「私さ。連休中に、枝本君に会ったの」
 
 理子は、ゆきにそう言った。
 
「えっ?どうして枝本君と?」
 
「ゆきちゃんと小泉君の事でね。枝本君、小泉君の家へ行ったから、色々話しを聞いてきたんだって」

「ええ?そうなの?あたし、何も聞いてないよ」

 ゆきが不審そうな顔をした。相談した本人だから、そう思うのも仕方が無い。

「なんかね。どう伝えたらいいのかわからなくて、まずは私に、って思ったみたいよ」

「それで、何て言ってたの?」

「うん。ゆきちゃんの事は変わらずに好きなんだけど、とにかく今は受験の事が気になって、ゆきちゃんの事まで思いやる余裕が無いらしいって枝本君は言ってた」 

「なら、それをどうして、枝本君はあたしに言ってくれないの?」

「変な言い方をして、逆に傷つけてしまったら困るから、どう思うか私に意見を求めて来たの」

「そんなの.....」

 ゆきは、納得できないような顔をした。

「枝本君の言う事、私は理解できたよ。だって、男の子と女の子って感じ方が違うもの。同じ事でも、言い方によって受け止め方も変わってくるでしょ?特に今のゆきちゃんは、凄くデリケートだからさ。些細な事で傷つけてしまっても悪いからって、随分気をつかってたよ」

「そうなんだ。.....それで、小泉君の気持ちって、結局どうなのかな?私、嫌われ始めてるんじゃないのかな?」

 ゆきの物凄い不安感が理子に伝わって来た。その思いに、胸が痛くなる。

「嫌いなわけ無いじゃない。変わらずに好きだって、あたし言ったよね。受験が迫ってきたじゃない?受験以外の事を考えてる余裕が無くなってきちゃったんだよ。だって、会ったりすれば、やっぱり相手の事を第一に考えてあげなきゃ悪いじゃない。でも、その余裕が無いとなると、やっぱり会うのも辛いでしょ?ついつい、気もそぞろになっちゃうだろうしさ。だから、受験が
終わるまで、少し距離を置きたいって言うのは、枝本君にもよくわかるんだって。でも、女の子はどうなんだろう?って心配もしてた」

 ゆきは、少し涙ぐんでいた。その様子に、理子も困惑した。

「ゆきちゃんはさ。どうしたいの?小泉君が大変な状況にいるのに、それでも今まで通りに付き合って欲しいって思ってるの?」

 ゆきは理子の言葉には答えずに、涙をポロポロと流し始めた。
 理子は仕方なく、そっとゆきの肩を抱いた。
 こんな調子では、小泉君が重たいと感じると言うのも無理はないかもしれない。

「理子ちゃんは、どうなの?理子ちゃんは彼とどうしてるの?」

 ゆきは泣きながら質問してきた。

「私も葛藤してる。でも、私も小泉君と同じ立場にいるから、小泉君の言う事は理解できるの。理解はできるけど、気持ちが追いついてはいかないから、そこに葛藤が生まれるんだけどね」

「彼の方は?理解があるの?」

「彼も、頭では理解してる。物凄くね。でも、感情の方がね。ただ、最近は何か吹っ切れたような感じがするかなぁ。妙に落ち着いちゃってるように見えるんだ」

そうだ。先生は吹っ切れてしまっているみたいだ。

「私も、理子ちゃんの彼のように、吹っ切れたらな」

「ゆきちゃんさぁ。ゆきちゃん自身も受験生じゃない。二人して二人の世界に浸ってたら、その結果がどうなるのかは、わかるでしょ?本当に好きなら、我慢しなきゃならない時には我慢しないと。それを乗り越えるのも、また愛だと思うけど」

「理子ちゃんは、強いんだね」

「強くなんかないよ。私だって、どんなに流されたいと思ったか。だって、その方がずっと楽だもん。私の場合なんか、相手は大人なんだから、無理して受験しなくてもお嫁さんにして貰うって手もあるわけだし。でも、そんな私を好きになってくれたんじゃないのが、わかってるから。小泉君なんか、男なんだよ?これからの人生が、この受験にかかってるのに、それを邪魔するの?それが、ゆきちゃんの愛なの?」

 理子は、いつの間にか小泉の味方になってしまっている事に気付いた。
 非常に不本意だった。
 小泉がゆきへの愛を大事にしている上での事だったら、全面的に小泉を応援するが、枝本の話しを聞く限りそうとは思えない。

「理子ちゃん、ごめんね。なんか、あたし、酷い事言っちゃったのかな。折角理子ちゃんが、あたしの為を思って言ってくれてるのに」

 ゆきは涙を拭いながら、そう言った。

「ううん。ゆきちゃんの気持ちは、とってもよくわかるから。今は時期が悪いだけなんだよ。そういう時って、これからもいっぱいあると思うよ。でも、それを乗り越えながら少しずつ強く
なってくんじゃないのかな。だから、今は辛くとも頑張るしかないじゃない。ね?.....でも、今は泣きたいだけ、泣いてもいいよ」

「ありがとう、理子ちゃん」

 ゆきはそう言うと、理子の腕の中で思いきり泣いた。

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