5 とてもいい一日

文字数 3,743文字

 神束は視線を道の下に落とした。ちらっとスラックスの裾にも向けたが、「まあいいや」とそのまま斜面を下りていく。
「足跡を探してみましょうよ」
 それは、探すまでもなく簡単に見つかった。まず気づいたのが斜面に残された痕跡で、その一部から帯状に土が取り除かれていた。
「発掘のために、地層を表に出したんでしょうか。こちらには、棒を刺したような穴もあります。おそらく、鈴木のしわざでしょう。これでどうやら──」
 宇津井が地面を調べている間にも、神束は小走りで林に入っていく。と思うと、またすぐに姿を現した。
「ありましたよ。まぐれでも、当たりは当たりですよね」
 神束に続いて、おれたちも林に入った。そこには不揃いな太さの杉が等間隔に並んでいたが、中に一本、一回り大きな幹があり、その周りに多数の窪みが残されていた。その跡はまっすぐに木の幹へ向かった後、一旦幹の裏側に周り、そこから更に林の奥に向かって続いていた。少し輪郭は崩れているが、それでも一続きの足跡であることははっきりわかった。
「ありましたね。これだけでは誰の足跡と断定はできませんが、どうやら木の陰に隠れていたように見えます。おそらく島瀬でしょう。わかって見れば簡単なことでしたが……」
 宇津井はふうと息をついた。しばらく足跡を見つめてから、
「お手数をおかけしました」
と、神束に向かってお辞儀をした。
「いえいえ」
 神束は軽く手を振って応えた。

 どうやら、今日はこれで終わりらしい。
 今日の神束は、途中から様子がおかしかった。急に意味不明な言葉を羅列したり、大声で叫んだり。かと思うと、すぐに元の調子に戻っていた。こいつは変わったやつだが、情緒不安定ではない。何が原因でああなったのか見当が付かないが、それでもどうやら、解決までたどり着いたようだ。
「まさか、目撃した場所を確認していないとはなあ。それを知っていれば──」
「あなたにも解けましたか? しかし、神束さんも条件は同じですからね。言い訳にはなりません」
「こいつと比べたいんじゃあない。だがな、もしこのことを知っていれば、答は違っていたはずだろ」
「どうでしょうね。私の理解した限りでは、お二人の論理の進め方はまったく違いました。はたして同じ答にたどり着いたかどうか」
「おまえ、神束の言ったことがわかったのか?」
「要素とか、確定値とかの話ですか? いいえ、まったく。おそらく我々には理解できない理論があるのでしょうが、やっぱりそれは、あなたの言い訳にはなりませんね」
 おれの戯れ言に、宇津井はいちいち反応してきた。やっかい事が片付いて気がゆるんだのか、からかうような調子が混ざっている。ところが、最後のセリフに反応したのは、神束のほうだった。
「違いますよ」
 鋭い語調だった。
「理論というのは、本来一般性を持つものものです。そうでなければ、理論とは呼べませんよね。つまり、逆に言えば──それが本当に理論化されているのなら、誰にでも利用できるはずなんです」
 おれたちが呆気にとられていると、神束はまた急に、元の口調に戻った。
「足跡、奥に向かっていますね」
「そのようですね。しかし、後は我々が──」
「追いかけてみますか?」
 そう言い捨てると、はじけるような動作で足跡を追っていった。その表情には明らかな興奮の色が浮かんでいる。まるで、何かことの真相、何かの真実をつかんだかのように。
「神束さん、気をつけてください。足跡を踏まないように」
 宇津井が声をかけるが、神束はそのまま進んでいく。足跡はしばらくまっすぐに続いた後、大きな岩のところで左に曲がっていた。神束の姿も岩の陰に隠れる。そのとたん、「ぎゃっ!」という叫び声と、何かが倒れるような音が聞こえた。

 神束はぱっちりと目を開けると、バネ仕掛けのような勢いで上半身を起こした。
「ここは?」
「林を出たところですよ。とりあえず、日の差すところまで運んできました。気分はどうですか?」
「私は……どうしていたんでしだっけ」
 目を大きく開いたまま、問いかけてくる。宇津井が落ち着いた声で説明した。
「気を失ったんですよ。木の陰に倒れていました。いきなり死体に出くわして、驚いたのでしょう」
 駆けつけたおれたちの目に入ったのは、木の枝にぶら下がって揺れている男の死体と、その下に倒れている神束の姿だった。神束は完全に失神していた。おれは死体の検分を始めようとする宇津井を手伝わせて、神束を林の外まで運んできたのだ。
 神束は手を額に当て、世にも情けない声でつぶやいた。
「うわぁ……かっこわるい」
「あれは島瀬ですね。間違いありません。死因は縊死で、おそらくは自殺でしょう。死後一週間と言ったところで、失踪直後に首を吊ったようです。これで、全部片付きました」
「まったく驚いたぜ。なにしろ、気絶した人を見るのは初めてだからな」
 からかうように言うと、神束は口をとがらせた。
「しかたないでしょう。死体に顔をなでられたのなんて、初めてなんです」
「お気の毒です。が、直接に触れたのはズボンだと思います。それに、それほどひどい死体ではありませんよ。腐敗は進んでいませんし、幸い食い荒らされてもいない。排泄物も気になるほどでは──」
「そんなに詳しく言わなくていいです」
 神束が遮った。そして少し黙り込んだかと思うと、まったく予想外のことを言い出した。
「ねえ先輩。世界は、論理的に説明することができますよね」
「ああ?」
 おれの生返事にもお構いなしに、神束は後を続けた。
「気に入らなければ、世界の大部分と限定してもいいです。でも事件の解明という作業は説明可能な部分に含まれるはずだし、含まれなければならない。実際、これまでに数多くの名探偵が登場し、膨大な量の事件を扱って、その一つ一つで論理的な解決がなされてきました。でも、この蓄積には足りないものがあるんです。それらを統一的に説明する、理論ですよ。理論化、モデル化の部分が決定的に欠けていて、だからこそ『名探偵』なんてものが、希少価値になってるんです」
 神束の口調が再び熱を帯びてきた。
「私は平凡な名探偵です。論理の飛躍はしないし、直観や超論理は使えないし、持ってる価値基準だって宇津井さんたちと違わない。でもそうであれば、私の中にあるシステムをモデル化すれば、誰にでも利用できるものになるはずです。わかりますか? そうすれば、名探偵という機能を、誰にでも提供できるはずなんです。私のすべき事は、事件の解決なんかじゃない。この分析──システムのモデル化こそ、価値のある仕事だったんですよ」
 神束は決然とした様子で、なにごとかを断言した。しかし、こいつがこれほどの熱意を持って何をしゃべっているのか、おれには良くわかっていなかった。
「何が言いたいんだ?」
「ですからね。私は今後、犯罪の現場に出るのは止めることにします」
 神束は高らかに宣言した。

 取りあえず神束を落ち着かせてから、おれたちは林道に戻った。神束の退場宣言に対して、宇津井は何も言っていない。ここで議論してもしかたがないと判断したのだろう。宇津井は携帯電話を取りだして、東海警部補を呼び出している。後始末はあの、人の良さそうな刑事がするらしい。ふと、あるものが目に入って、おれは宇津井に呼びかけた。
「ちょっと思いついたんだが」と、ゴジラの絵を指さす。
「恐竜騒ぎの時の看板ですが、それがどうかしましたか」
「鈴木が嘘をついた理由だよ。あそこから隣町になるんだよな。それなら、こんなところで恐竜を見つけても、何にもならないじゃないか」
 携帯をポケットにしまいながら、宇津井は怪訝そうな表情で看板を見ていたが、やがて「ああ」と声を上げた。
「なるほど。ここで発見してしまうと、矢西町ではなく島橋市の恐竜になってしまう。それでは町おこしに使えませんね。だから場所を動かそうとしたのか。いろいろな場所を発掘しているうちに、我知らず町境を超えてしまったのでしょうが……神束さん、どう思いますか?」
「きれいな仮説ですね。きれいだから正しいとは限らないけど、私は好きですよ。でもそんなことより、今日はすてきなことを思いつきましたからね」
 すっかり元気を回復し、妙なテンションに入ってしまった神束は、晴れ晴れとした表情で付け加えた。
「今日は、とってもいい一日でした!」


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 以上、おまけの第0話でした。
 この失神事件を契機に神束は探偵という機能の「モデル化」を始めて、ラストでは探偵から手を引いて現実という世界に帰還する、というのが当初の構成でした。この話のカットと第1話の差し替えで、このあたりはぼやけてしまいましたが。それから、作者としては「緩やかなカーブの後に鋭角な曲がりを続けたかと思うと、再び緩やかなカーブに戻る」という描写を二度繰り返したのが、叙述上の工夫のつもりでした。同じ描写が二度繰り返される=同じような地形が二カ所ある、という証拠としての叙述です。が、書いたときには気に入っていたんですが、ぴんと来た方は、あまりいないかもしれませんね。

 久ーしぶりの投稿にもかかわらず読んで頂いた方、ありがとうございました。それでは、このへんで失礼します。

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