3 なぜ、6二玉を指したのか

文字数 2,486文字

 一ヶ月ほど前、『雷王戦プレマッチ』と称して、一足早く永倉とクラスターズの対戦が行われていた。持ち時間が短いなど、異なる条件での対局だったが、ここで後手番の永倉は「二手目6二玉」の奇手を披露し、観客をあっと言わせた。後手の一手目は角道を開けるか、飛車先の歩を伸ばすのが普通である。最近ではいきなり飛車を振るという戦法もでてきたが、6二玉はまず見かけない。素人が指したら筋悪、へたをすると悪手といわれてもおかしくない手だった。

「あれは驚きましたねえ。今度は、どんな手を用意してくるんでしょう」
「そうだな……そうであればいいが」
「きっと何かありますよ。でも、6二玉はないかな。理事長はコンピューター対策で用意したって言ってましたけど、あれは奇襲戦法ですからね。奇襲を前もって知らせるわけがない」
「実際、負けているしな」
 荒井は再び苦い顔になった。長年、観戦記者を続けてきた身として、心情的には永倉に勝って欲しかったのだろう。実戦では、6二玉を見たクラスターズは6八飛と四間飛車に振り、右玉からの盛り上がりを目指した後手陣を粉砕した。終局図では、先手の美濃囲いにまったく手の付かない、クラスターズの圧勝で終わっている。
「一ファンとしては、がっぷり四つに組んでの戦いも見たいですけどね。『矢倉は将棋の本格ミステリー』の名言にのっとって、相矢倉のねじりあいなんかを……ただ、あんな手を指したってことは、やっぱり普通の戦法では分が悪いと思ってるんでしょうね。コンピューターの弱点狙いでいくなら、稲庭将棋とか?」
 荒井は首を振った。
「いや、稲庭では対応されたらそれまでだし、さすがに棋界トップが稲庭はまずいだろう」
「じゃあ、似た戦法でアヒルとか、風車なんかはどうですか」
「棋風が違うな。現役時代、永倉先生がそんな戦法を使うのは見たことがない」
「となると、やっぱり奇襲かな。理事長の奇襲というと新鬼殺し、あるいは角頭歩戦法になるんですが──」
「先生は後手番だよ」
「後手の角頭歩もないことはないんです。先手より苦しくなりますけどね。それなら、横歩取り3三角の裏定跡なんてどうでしょう」
「それ一本では厳しいな。相手が居飛車を指してくれるかどうか。それに、アヒルにしろ3三角にしろ、ネットではそれなりに指されている。コンピューターがまったく知らない戦法ではないな」
「そうなんですよねえ」
 海野はうなった。

 アヒル、風車、鬼殺しと聞き慣れない言葉が続くが、これらは将棋の戦法の名前である。いわゆる「B級戦法」と呼ばれるもので、指す人が少ないマイナーな作戦だ。完全なハメ手ではなく、狙いを外されたら一巻の終わりというものではないが、それでもどちらかといえば奇策的な意味合いが強い。相手が知らない分、知っているこちらが有利になるのを狙うものだ。ところが、コンピューターはプロの棋譜以外にネット上で行われる対局もデータに持っているのだから、これらの戦法を知らないとは考えにくい。
「結局、定跡の量では勝てないのか。読みの深さでも不利でしょうね。昨日の記者会見、針木さんは『今回はプレマッチの十倍、毎秒千八百万手を読めるようにしました』って豪語してましたから」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
 荒井は不機嫌そうにつぶやいたが、急に顔色を輝かせて、
「なら、研究はされているが、棋譜に登場していない手はどうだ。たとえばゴキゲン中飛車超急戦の課題局面のような、最新型の研究手順だ。これならコンピューターのデータにもないし、優位に立てるだろう」
「ええ。それができればすごいですね」
 語気に押されて、海野は一応はうなずいて見せた。しかし、それは第一線の棋士たちが日夜研究を重ね、求め続けているものだろう。元トップ棋士とはいえ、現役を離れて長い永倉に用意できるかどうか。海野は、さっきから黙ったままの後輩に水を向けた。
「神束君はどう思う?」
「私は将棋の戦法なんて詳しくありませんから」
 神束は困ったような笑顔で首を傾けたが、続けて、
「ただ、少し気になることがあります。永倉理事長はなぜ、プレマッチで6二玉を指されたのでしょう」
「新しい戦法を試してみたんだろ」
「さっき、先輩も言ったじゃありませんか。奇襲は予め見せたら意味がない、って。そのとおりですよ。本当に使うつもりなら、本番前に見せるはずがありません。対策をされてしまいますからね。でもそうでないなら、それこそ意図がわからなくなります。実戦から離れていて研究や練習対局で大忙しのはずなのに、貴重な時間をつぶして、使うつもりの無い戦法を考えていたなんて……おかしいですよね? 私は、その辺りが気になるんです」
「なるほどね。そんな見方もあるのか」
 海野は感心したような声を上げた。同行を頼まれた際、『パスカル』編集部からは「ちょっと厄介な性格」と聞かされていたが、特にそんな様子はみえない。あれはどういう意味だったのだろうと考えていると、自動ドアが開く音がした。背広姿の老人が額に汗を浮かべ、忙しそうにロビーに入ってくる。海野はその姿を見るや、体型に似げない俊敏さで席を離れて、老人の前に立った。
「洞谷さん、洞谷九段」
 老人は急に出てきた人影に驚いた様子だったが、相手の顔を見て表情を和ませた。
「なんだ、海野さんか。今日もご苦労さん」
「いよいよ開幕ですね。準備は順調ですか?」
「無事に終了してくれるのを祈るだけです。まあ、クラちゃんが強いのはわかってるし、それはいいんだけどね。あっちの機械の面倒を見てる人が、なかなか自由きままで……」
 洞谷は軽く肩をすくめた。「クラちゃん」とはクラスターズのことだろう。洞谷は現役の棋士だが協会の理事も勤めており、今日の対局では裏方の事務をこなしていた。
「事前予想では理事長不利の見方が多いようですが、洞谷さんはどうお考えですか?」
「理事長は勝ちますよ。いや、もう勝っているのかな」
「は?」
 海野は首をかしげたが、洞谷は急いでいるらしい。「申し訳ない、また後で」と告げて立ち去ろうとした。ところがその時、フロントで騒ぎが起こった。


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