2 ステージには、『雷王戦』の横断幕が張られていた

文字数 2,580文字

「あれ、珍しい組み合わせですね」
 ロビーに知った顔を見つけて、海野道朗は声をかけた。五十過ぎのやせぎすの男で、ノーネクタイの背広姿でソファーに腰をおろしている。『月刊 将棋FAN』の荒井洋だ。細長くのびた胴体に不釣り合いなほど顔が大きいので、一部で「マッチ棒」のあだ名で呼ばれている。その斜め前に座った若者は、こちらも極端なやせ形で、ひょろひょろに伸びた体を迷彩柄のジャケットでくるんでいた。背の高さにくわえて顔も長く、荒井がマッチ棒なら、こちらはつま楊枝という印象だ。
「隣、いいですか」
 迷彩服の男は無言でうなずくと、そのまま立ち上がって人混みの中へ去っていった。海野は荒井に、
「お邪魔でしたか?」
「いや。たまたま相席になっただけで、話をしてたんじゃないんだ」
「じゃ、失礼して」
 スーツを脱いで脇に抱えると、荒井の向かいに腰を下ろした。一月だというのに顔に汗を浮かべている。暖房が効いているせいもあるが、肥満気味の体型も一因だろう。続いて、小柄な女性が一礼をして海野の隣に座った。年齢は二十代の半ばくらい、ストレートの黒髪を肩のあたりで切り揃え、細身の体に濃紺のブレザーを身につけている。不思議そうな表情で迷彩服の男を目で追っていたが、いきなり一オクターブ間違えたような高い声を出して、海野に尋ねた。

「今の方は、どなたですか?」
「たしか、宅間さんだったかな。将棋ソフトのプログラマーだ。あの人は趣味でやってるらしくて、コンピューター名人戦では予選どまりだけどね。ここまで来るとは、よっぽど好きなんだな」
「そちらは? やっぱり『週刊ミライ』の人かい」荒井が尋ねる。
「いえ、うちの社で出してる『月刊パスカル』の神束(こうづか)君です。神束君、こちらは荒井さん。ベテランの観戦記者だよ」
「神束です。次の号でコンピューター将棋の特集を組むことになりまして、海野先輩に連れてきてもらいました。よろしくお願いします」
 紹介を受けて、神束陽向(ひなた)は改めて一礼した。卵形の小さな顔に大きな目、広い額。整った容貌と言えないこともないが、かなり高めの声も相まって、どことなく子供っぽい印象を与える。
「月刊パスカル? 科学雑誌か。今日はいろんなところから人が来るな」
「まったくです。人いきれで、暑くて仕方ありません」
「将棋雑誌もだんだん減って、寂しくなったからなあ。こんなに賑わうのはひさしぶりだ。しかし正直なところ、おれにはよくわからんよ。喜んでいいものかどうか」
 荒井は座ったまま体をよじって、斜め後方を見た。ガラス窓の向こうでは、テニスコートに特設のステージが組まれている。大きなモニターやスピーカーが置かれ、その脇で係員が調整作業をしているのが見えた。荒井はその体勢のまま背広のポケットを探り、木製のパイプを取り出した。
「将棋協会トップが、コンピューターと対戦しなきゃならんというのは」
 ステージの上には、『第一回雷王戦・大盤解説会場』の横断幕が張られていた。

 昨年四月、コンピューター将棋連盟は突如として「名人と対等に戦うことができるまでに強いソフトが完成しました」と宣言し、日本将棋協会に挑戦状をたたきつけた。将棋協会の永倉理事長は「その傲岸(ごうがん)な心意気を良しとする」と応じて、この挑戦を受諾。プロ棋士と将棋ソフトが戦う棋戦・雷王戦の開催が決定した。
 このやりとり自体は出来レースなのだろうが、将棋協会が将棋ソフトとの棋戦を決めたことは、関係者に驚きをもって迎えられた。協会はそれまで、棋士とコンピューターの対局を禁止していたからだ。将棋ソフトの棋力は年ごとに上昇し、近年ではプロレベル、ひょっとするとトッププロレベルの実力と言われるほどになっている。それを直接確かめる術はなかったのだが、その禁断の対戦がいよいよ、解禁されたのである。
 前哨戦として行われた女流棋士との対戦では、当時のコンピューター将棋名人『なゆた2010』が快勝。今日の雷王戦には、現チャンピオンである針木秋一氏の『クラスターズ』が登場する。対する人間代表として将棋協会が指名したのは、永倉理事長本人であった。
 永倉は既に引退しているとはいえ、現役時代には『醉象(すいしょう)戦』『飛鷲(ひおう)戦』などのタイトルを獲得した大棋士である。また、「自分には消化試合でも、相手にとって重要な対局であれば、全力で相手を負かす」という彼の理念は『永倉哲学』と呼ばれ、現在でも多くの棋士に影響を与えている。そんな大物が、コンピューターと戦うというのだ。この対決は大きな話題となり、会場となった風月閣ホテルには多くの報道陣が詰めかけていた。

「しかも、こんなところを会場にするんだからな。風月閣といえば、過去には醉象戦が開催されたこともある老舗のホテルだ。それなのに──」
「まあ、しかたありませんよ。震災後の風評被害でS市の観光は大打撃を受けていて、ここもずいぶん苦しんだんですから。風月閣さんにすれば、この対局が観光の起爆剤になってくれれば、って思いなんじゃないですかね。
 それにしても、将棋ソフトも強くなりましたねえ。ちょっと前までは、おもちゃみたいな代物だったんですけど」
「ファミコンだったかな。あれがはやっていたころ、おれもソフトを買ってみたことがあった。お話にならなかったな。手に困ると飛車を上げたり下げたりして、とても将棋を指してるなんてレベルじゃなかった」
「それが今では、アマチュアではまず勝つことはできませんからね。クラスターズは超高速のコンピューター三台がそれぞれ手を考えているんだそうで、スピードでは到底かないません。知識の量もすごくて、過去の対局を何万局も覚えている上に、最新の棋譜を日々取り込んで成長してるって言うんだから、まさに怪物です。荒井さんは今日の対局、どっちが勝つと思いますか。やっぱり、クラスターズ有利でしょうか」
「ソフトの棋力は、プロ棋士並らしいからな。女流はトップでもプロ初段程度と言われているから、『なゆた』の勝利は順当だったんだろう。今回も、下馬評は理事長不利だな。全盛期ならともかく、引退して何年も経っているんだから、そう考えるのが普通だろう」
「でも、あの永倉さんがあっさり負けるはずがないですよ。何か策を練ってるに違いありません」
「この前の6二玉、みたいにか」
 荒井はパイプを口に含んで、苦い表情を浮かべた。
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