補 好事家のためのノート

文字数 3,158文字

 「両替男」の事件では動機の分類が重要な役割を果たしたが、神束は事件に該当する部分のみを説明したため、「主観的合理性」については触れないままで終わった。そこで、神束が準備していたノートを借用して、「動機論」で使われなかった内容を紹介することにする。なお、「両替男」事件そのものとは直接の関連はないので、興味の無い方は読み飛ばして頂いてかまわない。  (今野明)

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   動機論

 (中略)

4 モデルを構成する要素
(2) 行動案の評価(主観的合理性、客観的合理性)
 ここでは、行為者のとりうる行動の案(『行動しない』を含む)がリストアップされ、それぞれ評価がなされて実施する行動が選択される。その評価基準が主観的合理性と客観的合理性である。

A 主観的合理性
 行為者の主観的な価値観に基づく評価基準。行為者の好み・嗜好を表し、最終目標の選定に用いられる。究極的には『好きだから好き』なのであり、その意味では非合理性は存在しない。ただし、非常識・反社会的なものはありえるし、状況把握の失敗等による非合理的な目標選択もありえる。
 目的とする対象によって、大きく物質的理由と精神的理由の二つにわけられる。また、動機とは「観察者がいかに納得するか」なので、観察者が理解しがたいものについては「無理由」に分類する。なお、一つの事件で複数項目に該当する場合もある(『憎悪』+『遺産』など)。

[a] 物質的理由
 何らかの物質的な利益(損失の回避を含む)を直接の目的とするもの。具体的な物ではないもの(サービスなど)、行為者以外の利益を目的とするもの(利他行為、公的利益、他人のための防衛行動など)も含める。また、緊急回避的な行動(「水の無い状態に置かれたため、怪しい液体を飲んだ」など)もここに含める。

[1]物的利益……物質的理由のうち、目的となる物質が『身体の外』にあるもの。
 資産を得るための行動(窃盗・強盗、遺産狙いの犯行)、資産を失わないための行動(脱税、恐喝者の殺害)、収入を得るための行動(スクープを得るための犯行幇助)、収入を失わないための行動(老舗や観光地の醜聞を隠すための行動)、など。

[2]身体的利益……物質的理由のうち、目的となる物質が『身体』にあるもの。
 自身の身体を守るための行動(正当防衛・返り討ち、口封じ・自分の罪を回避するための行動、復讐・報復を恐れての行動、徴兵忌避のための行動)、自分以外の人間を守るための行動(治療の優先順位を変えるための行動)、など。

[b] 精神的理由
 何らかの精神的な利益(損失の回避を含む)を直接の目的とするもの。行為者以外の精神に関わるもの(他人の心理をおもんばかっての行動など)もここに含める。ただし、理性以前の本能的・生物的欲求に基づくもの(反射的行動、食物・水への欲求、睡眠欲求、排泄欲求、性的欲求など)は、物質的理由.身体的利益に含める。
 一応、「個人」と「集団」に分類するが、この区別は絶対的なものではない。個人の価値観も、ある程度は集団に影響されて作られるものなので。

[1]個人的価値……精神的理由のうち、目的となる価値が属人的・個人的なもの。『ある特定の状況におかれた個人』『ある特定の性格の個人』など、限定を伴うものもここに含める。
 一般的な感情(愛情、憎悪、復讐、嫉妬、優越感、劣等感、名声を求めての行動、虚飾を守るための行動など)、特定の性格・趣味を持つ個人の感情(わがままによる行動、熱狂的収集家、変身願望、自殺願望、『自分が死んだ後の様子』を見るための行動、など)、特定の状態での感情(自殺前の『体を清める』行動、臨死者の心理、病人の心理、結婚直前の心理、卒業・就職直前の学生の心理、『大人が既に忘れてしまった若者の苦しみ』、など)、特定の個人等に対する感情(美しい女性の信奉者、「本物の名画を見つける」才能への嫉妬、悪徳企業のCMにでた人間への復讐、性的不能者がもつ「女性への殺意」、愛人を罰しようとした、自殺志願者への「そんなに死にたいなら死なせてあげる」)、など。

[2]集団的価値……精神的理由のうち、目的となる価値の所属が個人を超えるもの。モラルも含むし、価値の正当性は問わないのでアンモラルなものも含む。
 新興宗教(本物・偽物)、元判事の『正義感』による犯行、学問の適正さ、芸の道、『男らしさ』、国粋主義者による学説の証拠隠滅、人種改良学、『実験』としての殺人、教育や道を示すための行動、武士の面目、ナポレオン収集狂、愛書家、UFOの信奉者、奇術師の「タネをばらせない」ための偽証、実験データ捏造、師匠が弟子を茶事で戒めようとした、「新婦が非処女だった」、「あなたのような大足の女」と言いたいがための行動、「男らしい」とされる行為、弱者援助、など。

[c] 無理由
 物質的理由・精神的理由に含まれないもの。主観的合理性には「非合理性は存在しない」が、それでも他の人に理解しがたいものは存在する。それらはここに含める。なお、「行動の非合理性」は「手段が目的と合致していないもの」で、こちらは「目的の設定理由が理解不能なもの」。
 衝動的犯罪、通りすがりの犯罪、精神異常、ジョーク・狂言、惰性的で明確な理由のない行動、など。


5 各要素に働くトリック
(2) 行動案の評価に作用するもの
 ここで行われる作業は分類と分類項目へのあてはめなので、普通の意味での「トリック(事件に関する要素の値の認識を誤らせる)」は働かない。
 が、特に間違いやすいもの、価値観の理解が難しいものを示しておく。

A 主観的合理性に作用するもの
[a] 特殊な評価基準
[1]極端な評価……ほとんどの人に評価されないものを高く評価するもの。「国宝級の芸術作品がごっそり無くなっていた→相続人の売れない芸術家が、その作品を改作して駄作にしていた」など。
[2]個人的確信……客観的事実に反していても、個人的な確信があれば動機となりうる。「容疑者の父親→息子が犯人のはずがないと考え、息子以外の最有力容疑者を殺害」、「超能力者を演じた詐欺師→超能力を恐れた人が、自分の旧悪をばらされないように殺害」、など。
[3]評価順位の逆転……表に出ているものとは別の価値判断があり、実際にはそちらが優先されているもの。「恋人との、ここを離れないという約束→パトロンが家に来るのを思い出してその場を去る」など。

[b] 特殊な行動選択
[1]逆方向……通常とは逆方向の行動を選択するもの。「恋人との待ち合わせ→来るのが余りに遅いため、恋人を罰そうと睡眠薬を飲む」、「何回も夫の自殺を止めた妻→そんなに死にたいなら死なせてあげると夫を殺害」、など。
[2]不均衡……原因・目的との均衡が著しく崩れている行動を選択するもの。「妻が処女ではなかった→殺害して自分も自殺」など。
[3]遠隔作用……モラル・正義感などが原因の場合は、直接的な関係のない対象への動機が発生しうる。「学問の道に厳格な学者→実験結果を捏造した(面識のない)学生を殺害」、など。
[4]無反応……通常なら反応を起こすべき状況で反応を起こさない(またはまったく別の反応を起こす)もの。「身に覚えのない理由で脅迫を受ける→本当に『脅迫されるべき人』へ、脅迫を『パス』する」、など。

[c] 特殊な環境
 犯人・観察者を取り巻く環境が変化し、それに伴って価値観も変化するもの。
 「バブル期→ほんの小さな土地が高額になり殺害の動機に」、「戦前の写真→一部に軍の基地が写っていたため、当然のように修正されていた」、「学生時代→大人が既に忘れてしまった『若者の苦しみ』」など。

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